井本臺吉
勲一等 井本臺吉 | |
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検事総長 | |
任期 1967年11月2日 – 1970年3月31日 | |
任命者 | 第2次佐藤内閣 |
前任者 | 馬場義続 |
後任者 | 竹内壽平 |
個人情報 | |
生誕 | 1905年4月3日 群馬県 |
死没 | 1995年11月9日(90歳没) 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
専業 | 弁護士 |
井本 臺吉︵台吉︶︵いもと だいきち、1905年4月3日 - 1995年11月9日︶は、日本の検察官、弁護士。検事総長︵在任期間 1967年11月2日 - 1970年3月31日︶。勲一等瑞宝章受章︵1975年4月29日︶。英霊にこたえる会︵二代目︶会長。
来歴・人物[編集]
浦和中学、一高を経て、東京帝国大学法学部卒業[1]。検事任官。同期の柳川真文、馬場義続らと共に“3羽ガラス”と称されていた。一期下に田中萬一がいた。塩野季彦らの﹁公安︵思想︶検事﹂に連なり、そのため戦後、公職追放受けるも[2]︵公職追放中には弁護士として、昭電疑獄事件で福田赳夫の弁護人となり、八丈島事件でも無罪を獲得するなどしている[3]︶、1951年の追放解除後[4]は法務省刑事局長、最高検検事などを歴任。前任の検事総長・馬場義続が後任は竹内寿平にと画策していたが、1967年検事総長に就任した[1]。この間、刑事局長時代の1954年3月、保全経済会事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された[5]。 検事総長在任中、刑法改正準備会会長等も歴任し、刑事法の戦前体制から戦後体制への転換において重要な役割を果たした。他方、日通事件では、池田正之輔自民党衆院議員の逮捕に反対し、当時の東京地検特捜部長河井信太郎らと対立、福田、池田との料亭花蝶での会食が明るみに出たことで批判も受けたが[1]、 このことと、池田の逮捕反対とは無関係であるとし、むしろ河井派の検事を左遷する人事を敢行して、特捜検察を眠らせたとも評価されている。 退官後、弁護士登録︵第一東京弁護士会︶。文明堂、とらや、東電通等の監査役を務め、また、三越・岡田茂元社長弁護人でもあった。1995年11月9日、慶應義塾大学病院にて死去。 東京地裁検事局時代に、人民戦線事件で美濃部亮吉らの取調べを行った検事でもある。美濃部に対する井本の取調べ手法について﹁その調べ方のいやらしさはいま思い出しても気持が悪くなる。とにかく治安維持法に違反するようにいわない限り絶対に供述書を作らない。彼の意思に沿った答弁をしない限り、よく考えておけといって、2週間でも3週間でも放っておかれる﹂と記した論文が存在する[6]。 ゾルゲ事件も担当主任にあり、1942年に刑事局第六課長︵のち思想課長︶に就任。1945年6月には花岡事件の捜査に出張した。 1期後輩の福田赳夫、笹川良一も1995年に死去している。関連項目[編集]
主な親類[編集]
ブレーン[編集]
脚注[編集]
(一)^ abc﹁井本台吉氏 元検事総長死去﹂﹃読売新聞﹄1995年11月10日
(二)^ 総理庁官房監査課 編﹃公職追放に関する覚書該当者名簿﹄日比谷政経会、1949年、156頁。NDLJP:1276156。
(三)^ ﹁警察官による自白の強要とその後になされた検事および予審判事に対する自白の任意性の有無、被告人の検事および予審判事に対する自白の任意性に疑があると認められた一事例﹂﹃最高裁判所刑事判例集﹄第11巻第7号、最高裁判所判例調査会、1957年、1914頁。
(四)^ ﹃朝日新聞﹄1951年9月9日三面
(五)^ 第19回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第15号 昭和29年3月30日
(六)^ 戒能通孝﹁基本法改正の態度として﹂︵法律時報32巻8号、昭和35年︶
(七)^
1967年8月、井本台吉の次期検事総長実現に奔走。11月、井本が検事総長に就任。岩淵辰雄の発案で、福田赳夫、池田正之輔、岩淵による検事総長就任祝いをセット。1968年4月、井本の依頼に基づき、福田、池田、岩淵を招き返礼の宴をセットしたが、岩淵が風邪のため欠席したことにより、一部の誤解を受ける。
鷲見によれば、井本が法務省刑事局長時代、笹川良一、児玉誉士夫らは頭が上がらない存在だったらしい。