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元慶の乱

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経緯[編集]


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その他[編集]

異説[編集]

元慶の乱は朝廷側の蝦夷に対する懐柔政策が功を奏して、蝦夷は降伏したとするが、田牧久穂は『元慶の乱・私記』でこれに異を唱えている。

まず、広範囲の蝦夷をまとめて、自分たちの要求を朝廷側に文書にして提出するなど、反乱を指導した人物がいるはずであるが、この人物が朝廷側の多数の犠牲者[注釈 1]にもかかわらず彼らの名前が明確に記録されていないこと[注釈 2]、また915年北東北に2000年来最大の自然災害である十和田湖火山の大噴火が起きるが、この噴火あるいはそれに続く広範囲の自然災害が全く文書で記述されていないことなどから、この元慶の乱は事実上蝦夷側の要求が通り、雄物川以北は蝦夷側の支配する地区となり、朝廷が手を出せなくなってしまったというのである。同時期に仙北郡で極めて大規模な城柵として使われたのにもかかわらず、記録が全く残っていない払田柵跡にあった施設で中央から監視しに来た人を接待したのではないかとする説もある。いずれにせよ、全く記録に残っていない払田柵の存在は当時のこの地区の人が中央の管理とは別に比較的自由に行動できたことを示す。

また『秋田県の不思議辞典』(野添憲治編、新人物往来社)によると、931年から938年頃に作られた『和名類聚抄』では、南から北へ日本の地名が並べられているが、日本海沿岸地方では、出羽国の秋田郡、率浦郷が最も北の地として地名が記録されており、それは現在の五城目町から八郎潟町の森山、高岡山、三倉鼻のラインで、これより北には地名の記述が無いとしている。このことは、上記のこととほぼ一致する。

元慶の乱の記録は日本三代実録によるが、ところどころ記録が欠けていると記して略した箇所がある。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があるのではないかと疑う者もいる。

元慶の乱が始まる直前に、秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大は、出羽国の財政を圧迫するまでに問題化していたという。また乱の収束後、元慶の乱時に国家側と対立した地域には、9世紀末から10世紀にかけて秋田十二林窯、青森五所川原窯などが相次いで出現した。これらは秋田城が独占していた対北海道蝦夷貿易がこの地区の新興階層の手に移行したことを示唆しているとする人もいる。また、製鉄所も能代地区を中心として出現した。そのため、蝦夷は鉄を朝廷側から得る必要も無かった。これは、貞観地震で被災した製鉄技術者が製鉄に有利な風を求めて移住したものとも考えられている。

玉造麻呂[編集]

北秋田市胡桃館遺跡から1967年発掘されていた木簡に「月料給出物名張」とされるものがあると2005年発表された。これによると、この木簡には「玉造麻呂」などの名前が記されており、それぞれに「米三合」などの数量が書かれていた。玉造は元慶の乱の時に、政府側についた蝦夷の名字であるため、この915年十和田火山の噴火によって埋没した遺跡との関係があるのではないかと指摘された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ >焼山での戦いだけで500人以上が死亡あるいは捕虜になったという。
  2. ^ 一応首謀者とされる2人の「首」は蝦夷側から提出されている。しかし、これは朝廷側が独自に処分できなかったことを意味している。これだけの被害なら、アテルイのように必ず文書に残っているはずだという主張もある。

出典[編集]


関連作品[編集]

書籍[編集]

  • 『元慶の乱・私記』古代秋田の住民闘争(著者:田牧久穂)ISBN 4-89544-202-0
  • 『元慶の乱と蝦夷の復興』、田中俊一郎、ISBN 978-4-87302-660-2、第17回歴史浪漫文学賞受賞作(考古学資料を集めて元慶の乱を語っている)

小説[編集]

関連項目[編集]