勝手神社
勝手神社 | |
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所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山2354 |
位置 | 北緯34度21分52.9秒 東経135度51分44.9秒 / 北緯34.364694度 東経135.862472度座標: 北緯34度21分52.9秒 東経135度51分44.9秒 / 北緯34.364694度 東経135.862472度 |
主祭神 | 天之忍穗耳命 |
社格等 |
式内社(大)論社 旧村社 |
創建 | 伝・孝安天皇6年(紀元前386年) |
例祭 | 10月第3日曜日 |
地図 |
勝手神社︵かつてじんじゃ︶とは奈良県吉野郡吉野町にある神社。祭神は﹃和漢三才図会﹄に﹁勝手社 祭神一座 愛鬘命[1]︵うけりのみこと/うけのりのみこと︶﹂とある。また、﹁受鬘命﹂とも表記される[2]。現在の主祭神は天忍穂耳命とされている。大山祇命・久久能智命・木花佐久夜比咩命・苔虫命・葉野比咩命が配祀されている。
概要[編集]
吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては﹁勝手明神﹂と呼ばれた。吉野川水源に当たる青根ヶ峰は古くから水神として崇敬を受け、山頂付近に金峯神社︵奥千本︶・山腹に吉野水分神社︵上千本︶・山麓に勝手神社︵中千本︶が建てられた[3]。勝手は﹁入り口・下手﹂を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、吉野山の入り口に位置することから山口神社ともいわれた[4]。 創建年代は不詳だが、﹃日雄寺継統記﹄では孝安天皇6年︵紀元前386年︶とする。大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、天女が舞い降り5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ、背後の山は﹁袖振山﹂と称する。また、この故事が宮中の﹁五節舞﹂の起源という[5]。 境内には源義経の妻女、静御前が追っ手に捕らわれた際、舞を見せたと伝わる舞塚が残る。流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間の本殿は県の有形文化財であったが、平成13年︵2001年︶に不審火で焼失したため、ご神体は向かいの吉水神社に遷座しており、本殿再建のための寄付金が募られている。蔵王権現、子守明神との関係[編集]
蔵王権現︵金峯山寺︶、子守権現︵吉野水分神社︶、勝手権現︵勝手神社︶は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院︵投入堂︶、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた[6]。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている[5]。
吉野水分神社祭神の子守明神とは夫婦神であるとされる。勝手明神が男神、子守明神が女神である。室町後期成立の能﹁嵐山﹂では、吉野から移植された嵐山の桜の花守︵はなもり︶である老夫婦は実は勝手、子守両神の化身であり、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三身一体であることを宣する筋立てが語られる[7]。
脚注[編集]
(一)^ “倭漢三才図会‥105巻首1巻尾1巻. [55]”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2018年10月27日閲覧。
(二)^ “神社紹介 > 滋賀県の神社”. 滋賀県神社庁. 2018年10月27日閲覧。
(三)^ ﹃民衆救済と仏教の歴史︿中﹀﹄ 中屋 宗寿・著 郁朋社 2012年
(四)^ ﹃奈良 大人の街歩き﹄ 成美堂出版 2010年
(五)^ ab“勝手神社再建ご協賛 趣意書”. 吉水神社公式ホームページ. 2013年4月10日閲覧。
(六)^ “﹁世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る提案書﹂資産に含まれる文化財︵5-1︶整理表”. 鳥取県公式サイト (2007年12月26日). 2013年4月15日閲覧。
(七)^ “嵐山”. 銕仙会 能楽事典. 2013年4月9日閲覧。