山口素臣
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山口素臣(1899年) | |
渾名 | 「戦将中の戦将」 |
生誕 |
1846年6月8日 長門国山口藩 |
死没 | 1904年8月7日(58歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 陸軍大将 |
勲章 | |
配偶者 | きち(森清右衛門の姉) |
親族 | 山口十八(養子) |
山口 素臣︵やまぐち もとおみ、弘化3年5月15日︵1846年6月8日︶ - 1904年︵明治37年︶8月7日︶は、日本の陸軍軍人[1]。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から﹁戦将中の戦将﹂と評された。階級は陸軍大将正三位勲一等功二級子爵。
経歴[編集]
山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年︵1870年︶9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年︵1871年︶4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年︵明治6年︶10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。続く西南戦争では3月4日の田原坂の戦いに参加。豊岡・平原地区︵現・熊本市北区植木町内︶に陣取る薩軍右翼を攻撃したが、逆襲に遭い苦戦を強いられる。当時の近衛連隊は2個大隊で編制されており、あわせて4人の大隊長がいたが、山口以外の3人の大隊長は全員戦死している。 戦後、歩兵第9連隊長、歩兵第7連隊長を経て1882年︵明治15年︶2月、陸軍大佐に進級する。同年3月から熊本鎮台参謀長、1885年︵明治18年︶5月に東京鎮台参謀長、1886年︵明治19年︶5月には近衛参謀長に就任する。1887年︵明治20年︶9月から翌年6月まで欧米を視察する。1889年︵明治22年︶9月、同月5日に病死した品川氏章の後任として歩兵第10旅団長心得、1890年︵明治23年︶2月、陸軍少将・歩兵第10旅団長に進み、1894年︵明治27年︶から始まる日清戦争には第2師団隷下歩兵第3旅団長として出征する。 1月20日、山東半島に上陸し、右翼隊を率いて威海衛の戦いに参加。この功により戦後の1895年︵明治28年︶8月に男爵を授けられ、1896年︵明治29年︶10月、陸軍中将に進み第5師団長に補される。 1900年︵明治33年︶、北清事変に出征し戦功を挙げ勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章を受章する。1904年︵明治37年︶3月、陸軍大将に進み軍事参議官に任命されるが同年8月に逝去し、子爵を追贈された。墓所は東京都港区・青山霊園。年譜[編集]
●1870年︵明治3年︶9月 - 大坂陸軍教導団第2教導隊 ●1871年︵明治4年︶ ●4月 - 軍曹 ●8月11日 - 少尉 ●9月12日 - 中尉 ●10月20日 - 大尉 ●1873年︵明治6年︶10月10日 - 少佐 ●1877年︵明治10年︶11月12日 - 歩兵第9連隊長 ●1878年︵明治11年︶11月21日 - 中佐 ●1880年︵明治13年︶4月25日 - 歩兵第7連隊長 ●1882年︵明治15年︶ ●2月6日 - 大佐 ●3月10日 - 熊本鎮台参謀長 ●1885年︵明治18年︶5月26日 - 東京鎮台参謀長 ●1888年︵明治21年︶5月27日 - 近衛参謀長 ●1889年︵明治22年︶ ●2月6日 - 観兵式諸兵参謀長[2] ●9月11日 - 歩兵第10旅団長心得[3] ●1890年︵明治23年︶2月12日 - 少将、補歩兵第10旅団長[4] ●12月5日 - 歩兵第3旅団長 ●1895年︵明治28年︶8月20日 - 男爵 ●1896年︵明治29年︶10月14日 - 中将、第5師団長 ●1904年︵明治37年︶3月17日 - 陸軍大将、軍事参議官[5]栄典[編集]
位階 ●1890年︵明治23年︶2月28日 - 従四位[6] ●1895年︵明治28年︶5月20日 - 正四位[7] ●1900年︵明治33年︶6月11日 - 従三位[8] ●1904年︵明治37年︶4月20日 - 正三位[9] 勲章等 ●1885年︵明治18年︶4月7日 - 勲三等旭日中綬章[10] ●1889年︵明治22年︶11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11] ●1895年︵明治28年︶5月23日 - 勲二等瑞宝章[12] ●8月20日 - 男爵、旭日重光章[13] ●11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[14] ●1897年︵明治30年︶3月31日 - 功三級金鵄勲章[15] ●1901年︵明治34年︶7月19日 勲一等旭日大綬章[16] 功二級金鵄勲章[16] 外国勲章佩用允許 ●1901年︵明治34年︶12月5日 - オランダ王国オラニエ=ナッサウ勲章リッデル・グロートクロイス[17] ●1902年︵明治35年︶1月17日 - レオポルド勲章グランドコルドン[18] ●1903年︵明治36年︶6月3日 - 第一等第三品御賜双竜宝星[19] レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 1等聖アンナ勲章 2等鉄冠勲章エピソード[編集]
●日清戦争にて、旅順に上陸した兵士の間で吐瀉病が流行した。山口は野戦病院を訪れると、兵士の手を握り、背中をなでて、﹁国家の為に捨てる命を、病魔に取られてどうする気か﹂と叱咤したという[20] ●威海衛の戦いにて、戦闘︵31日︶に先立つ1月29日早朝、小高い丘に立って戦況を視察していた。そのとき、清側の砲弾が付近で炸裂し、隣にいたアメリカのクロニクル紙︵サンフランシスコ・クロニクルもしくはオーガスタ・クロニクル︵en︶か︶記者が転げ落ちた。山口は彼を引き上げると、﹁また後から来るかもしれないから、早く彼方へ行くがいい﹂と至って落ち着いた口調で告げたという[20]。家族[編集]
妻・きちは十二世有馬屋清右衛門の二女[21]であり、十三世清右衛門こと森清右衛門の姉。 後を継いだ養嗣子の山口十八は子爵を襲爵。十八は後に陸軍少将となり歩兵第11旅団長、近衛歩兵第1旅団長等を歴任した。脚注[編集]
(一)^ 朝日日本歴史人物事典﹁山口素臣﹂
(二)^ ﹃官報﹄ 1889年2月7日 敍任及辭令
(三)^ ﹃官報﹄ 1889年9月14日 敍任及辭令
(四)^ ﹃官報﹄ 1890年2月14日 敍任及辭令
(五)^ ﹃官報﹄1904年3月18日 敍任及辭令
(六)^ ﹃官報﹄第2000号﹁叙任及辞令﹂1890年3月4日。
(七)^ ﹃官報﹄第3565号﹁叙任及辞令﹂1895年5月21日。
(八)^ ﹃官報﹄1900年6月12日 敍任及辭令
(九)^ ﹃官報﹄第6239号﹁叙任及辞令﹂1904年4月21日。
(十)^ ﹃官報﹄第560号﹁賞勲叙任﹂1885年5月16日。
(11)^ ﹃官報﹄第1933号﹁叙任及辞令﹂1889年12月6日。
(12)^ ﹃官報﹄第3578号﹁叙任及辞令﹂1895年6月5日。
(13)^ ﹃官報﹄第3644号﹁叙任及辞令﹂1895年8月21日。
(14)^ ﹃官報﹄号外﹁辞令﹂1896年11月17日。
(15)^ ﹃官報﹄ 1897年4月26日 敍任及辭令
(16)^ ab﹃官報﹄1901年7月20日 敍任及辭令
(17)^ ﹃官報﹄第5531号﹁叙任及辞令﹂1901年12月9日。
(18)^ ﹃官報﹄1902年1月24日 敍任及辭令。
(19)^ ﹃官報﹄1903年6月4日 敍任及辭令。
(20)^ ab楓仙子 著﹃帝国軍人亀鑑﹄東雲堂 明28年9月
(21)^ 人事興信所 編﹃人事興信録﹄︵2版︶、1911年、(甲) や之部 875頁 (山口十八の項)。NDLJP:779811/513。
参考文献[編集]
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治36年7月1日調 10ページに記載あり。
軍職 | ||
---|---|---|
先代 津田正芳 |
歩兵第9連隊長 第3代:1877年11月12日 - 1880年4月25日 |
次代 高島信茂 |
先代 平岡芋作 |
歩兵第7連隊長 第4代:1880年4月25日 - 1882年3月8日 |
次代 仲木之植 |
先代 国司順正 |
熊本鎮台参謀長 第8代:1882年3月10日 - 1885年5月26日 |
次代 川村景明 |
先代 乃木希典 |
東京鎮台参謀長 第3代:1885年5月26日 - 1886年5月27日 |
次代 西寛二郎 |
先代 品川氏章 |
歩兵第10旅団長 第3代?:1889年9月11日 - 1890年12月5日 |
次代 山沢静吾 |
先代 山沢静吾 |
歩兵第3旅団長 第?代:1890年12月5日 - ? |
次代 ? |
先代 奥保鞏 |
第5師団長 第3代:1896年10月14日 - 1904年3月17日 |
次代 上田有沢 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
子爵 山口(素臣)家初代 1904年 |
次代 山口十八 |
先代 叙爵 |
男爵 山口(素臣)家初代 1895年 - 1904年 |
次代 陞爵 |