岡良一
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岡 良一 おか りょういち | |
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生年月日 | 1905年2月14日 |
出生地 | 石川県金沢市 |
没年月日 | 1994年5月16日(89歳没) |
出身校 | 旧制金沢医科大学 |
前職 | 医師 |
所属政党 |
(労働農民党→) (社会大衆党→) (日本社会党→) 無所属 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 金沢市名誉市民 医学博士 |
子女 | 五木玲子(医師・版画家、五木寛之の妻) |
第24-25代 金沢市長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1972年8月6日 - 1978年11月23日 |
選挙区 | 石川県第1区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1949年1月23日 - 1952年8月28日 1953年4月19日 - 1966年12月27日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 |
1942年6月 - 1944年9月5日 1946年7月 - 1947年4月30日 |
選挙区 | 金沢市選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 |
1939年9月24日 - 1944年9月5日 1946年7月13日[1] - 1947年4月29日 |
岡 良一︵おか りょういち、1905年︵明治38年︶2月14日[2] - 1994年︵平成6年︶5月16日[2]︶は、日本の政治家。衆議院議員︵6期︶、金沢市長︵第24-25代︶。医学博士。
経歴[編集]
石川県金沢市出身。金沢市長として革新市政を貫いた人物である。 学生時代での文芸活動中に社会主義に出会い、1927年に労働農民党に入党。これが岡の革新市政の原点となる。1937年に社会大衆党に入党し、第2次世界大戦後は日本社会党を経る。 1975年には秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受け、1987年には金沢市名誉市民として表彰を受けている[3]。年譜[編集]
●1929年3月 - 旧制金沢医科大学卒業。 ●1939年9月 - 石川県会議員に当選。 ●1942年6月 - 金沢市会議員に当選。 ●1944年9月5日 - 東條英機内閣の軍政を批判し、旧陸軍から懲罰召集を受けて出兵︵1946年7月に復員し復職︶。 ●1949年1月23日 - 第24回衆議院議員総選挙で石川県第1区より日本社会党公認で出馬し初当選。 ●1952年10月1日 第25回衆議院議員総選挙に出馬するが落選する。 ●1953年4月19日 第26回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。 ●以後、第30回衆議院議員総選挙︵1963年︶まで5回連続で当選する。 ●1958年5月 -﹁古皮質︵アンモン角︶発作放電の発現機序に関する実験的研究﹂で金沢大学医学博士。 ●1967年1月29日 - 第31回衆議院議員総選挙に出馬するが落選する。 ●なお、第32回衆議院議員総選挙︵1969年︶では日本社会党の公認を巡り離党し無所属で出馬するが落選する︵この選挙での日本社会党公認候補は嶋崎譲︶。 ●1968年4月 - 北陸学院短期大学教授に就任。 ●1972年8月6日 - 金沢市長に就任。石川県議会議員を辞職して市長選挙に立候補した米沢外秋︵自由民主党公認︶と選挙戦を争った。 ●1978年11月23日 - 健康上の理由から、任期半ばで金沢市長を退任。 ●1994年5月16日 - 死去、89歳。死没日をもって正四位に叙される[4]。岡市政の業績[編集]
●老人医療年齢を69歳から実施。 ●学校図書館建設。 ●緑の都市宣言。 ●金沢美術工芸大学の新築工事。 ●金沢駅周辺の高架化事業計画策定。 ●泉鏡花文学賞を創設。娘婿の五木寛之は同文学賞の選考委員を第1回より務めている。著書[編集]
●﹃核軍縮の夜明け 核拡散防止条約のもたらすもの﹄黒潮社 1968 ●﹃釣りの秘境能登﹄北国出版社 1971 ●﹃わが反骨の記 ふるさとの同志と共に歩んだ50年﹄岡良一友の会 1972脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『日本の歴代市長 第2巻』 - 歴代知事編会
- 『書府太郎 石川県大百科事典改訂版』 - 北國新聞社
外部リンク[編集]
公職 | ||
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先代 徳田與吉郎 |
金沢市長 第24-25代:1972年 - 1978年 |
次代 江川昇 |
議会 | ||
先代 前田正男 |
衆議院科学技術振興対策特別委員長 1965年 |
次代 原茂 |