戸田忠明
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戸田 忠明︵とだ ただあき、天保10年3月28日︵1839年5月11日︶ - 安政3年6月2日︵1856年7月3日︶︶は、江戸時代末期の大名。下野宇都宮藩の第5代藩主。宇都宮藩戸田家11代。
合葬墓碑︵戸田忠明の墓︶
第4代藩主︵田原戸田家13代当主、戸田氏24世孫︶・戸田忠温の三男[1]。正室は酒井忠学の娘。官位は従五位下、因幡守。
幼少の頃に家督を継いだが、精力的で優れた人物だったため、家老の戸田忠至と協力して藩政改革を行なった。改革では、鉄砲訓練を主にした軍制改革を奨励している。嘉永6年︵1853年︶、アメリカのペリーが来航してきたとき、幕府に対して武器弾薬を送り、あくまで鎖国体制の維持を主張した。
安政3年︵1856年︶、18歳で病死した[1]。墓は田原戸田家菩提寺である宇都宮の英巌寺。戒名は霊珠院殿大円全光大居士。跡を弟の忠恕が継いだ[1]。
略歴[編集]
系譜[編集]
父母 ●戸田忠温︵父︶ 正室 ●鋼 - 酒井忠学の娘 養子- 戸田忠恕 - 忠温の六男