戸田忠盈
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戸田忠盈 | |
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戸田忠盈の墓(合葬墓碑) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保15年6月2日(1730年7月16日) |
死没 | 天明元年7月28日(1781年9月16日) |
改名 | 慶次郎(幼名)、忠盈 |
別名 | 忠辰 |
戒名 | 勧善院殿前従五位下兼伊州大守徳巌全大居士 |
墓所 | 栃木県宇都宮市の英巌寺 |
官位 | 従五位下・日向守、能登守、伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重 |
藩 | 下野宇都宮藩主、肥前島原藩主 |
氏族 | 戸田氏 |
父母 | 戸田忠余 |
兄弟 |
秋元喬求、忠盈、忠寛、木下俊胤、 智鏡院源空浄本、青山忠高正室 |
妻 | 直、倉 |
子 | 直太郎、忠興、栄之助、力、利尾、忠寛 |
戸田 忠盈︵とだ ただみつ︶は、下野国宇都宮藩3代藩主、肥前国島原藩初代藩主。宇都宮藩戸田家6代。
略歴[編集]
享保15年︵1730年︶6月2日、宇都宮藩の第2代藩主・戸田忠余の次男として江戸屋敷で生まれる。父・忠余は養父の戸田忠真の六男・戸田忠久を養子に迎えていたが、その忠久が享保13年︵1728年︶8月8日に早世し、実兄︵秋元喬求︶も秋元家の養子となったため、戸田家の世子となる。延享元年︵1744年︶12月16日に従五位下・日向守に叙任される。延享3年︵1746年︶の父の死去により家督を継いだ。 忠盈は宇都宮の人心が荒廃していることを憂い、延享5年︵1748年︶に領内に﹁御教条之趣﹂を出した。これは領民が守るべき心を指示したものであり[1]、忠盈は人心の荒廃に対して厳罰で対処せず、心や孝行で領民の心を変えることを務めたのである[2]。 寛延2年︵1749年︶7月23日、肥前島原藩に移封となる[1]。しかし病弱なため、宝暦4年︵1754年︶7月25日、25歳の時に病気を理由に家督を養子︵弟︶の忠寛に譲って隠居し[1]、以後は江戸で余生を送った。天明元年︵1781年︶7月28日に死去。享年52。系譜[編集]
父母 ●戸田忠余︵父︶ ●芳春院 - 側室︵母︶ 側室 ●直 ●倉 子女 ●戸田直太郎 ●戸田忠興 ●戸田栄之助 ●力 ●利尾 - 戸田忠喬正室、戸田忠寛の養女 養女- 戸田忠寛 - 忠余の四男
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。