日本プロレス
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日本プロレス︵にほんプロレス、にっぽんプロレス︶は、かつて存在した日本のプロレス団体。日本プロレス界の祖である力道山が設立。
興行会社としての日本プロレス興業株式会社、業界組織としての日本プロレス協会、ライセンス発行や選手権試合の管理、認定を行う日本プロレスコミッションからなっていた。
力道山
大相撲廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビを通じて全国に中継され話題を呼ぶ。当時の日本には木村政彦の﹁国際プロレス団﹂や山口利夫の﹁全日本プロレス協会﹂などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅。日本プロレスがほぼ唯一と言っていいプロレス団体となった。
1957年には世界ヘビー級王者であった"鉄人"ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。日本プロレスにおける看板タイトルとして、防衛戦を行った。テーズの招聘後、一時期人気が下火になるものの、1959年にワールドリーグ戦を開催。グレート東郷をブッカーとして迎え、世界からチャンピオンクラスの大物選手を招聘して興行は成功、崩壊前年まで﹃春の看板イベント﹄として14回行われた。
1961年には常設会場であるリキ・スポーツパレスが完成している。
1963年12月15日、暴力団員に刺された傷の治療のため入院していた力道山が、術後の経過悪化から腹膜炎を発症し39歳で死去した。ワンマン体制で日本プロレス界をリードしてきた力道山の不慮の死により、日本プロレスは大きな転換期を迎える事となった。
豊登
力道山の死後、グレート東郷はブッキング料を巡る対立でブッカーを解任され、ミスター・モトが新しいブッカーとなる[4]。1964年1月10日には、力道山未亡人であった百田︵田中︶敬子が社長に就任する[5]。しかし同時期に豊登・遠藤幸吉・吉村道明・芳の里の4人が﹃日本プロ・レスリング興業株式会社﹄を別途設立し、興行収入や日本テレビからの放映権収入は4人が設立した﹃日本プロ・レスリング興業株式会社﹄が手に入れることとなったと同時に、旧来の﹃日本プロレスリング興業株式会社﹄は力道山が残した膨大な負債を背負うことになった[5][注釈 3]。
1964年までの﹁日本プロレス協会﹂役員の構成は、会長の児玉誉士夫、副会長の田岡一雄︵3代目山口組組長︶、町井久之︵東声会会長︶となっており[5]、このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる[5]。しかしこの頃には﹁プロレス興行が暴力団により取り仕切られ、資金源になっている﹂と世論の糾弾を受けることになり、関西地区の主要な興行先であった王子記念体育館が神戸市により貸出を拒否する事態が起きるなど、公共施設の貸出が差し止められる影響が出始め、対策として協会体制の一新を迫られることになった[6]。
1965年に入ると警察側︵警視庁捜査二課︶はこの陣容に対して日本プロレス協会の解体を迫ることになり、これを受けて豊登ら4人は1965年2月22日に記者会見を行い、役員を刷新することを発表した。これにより児玉・田岡・町井の3人は役員を退任し、協会長には元衆議院議員の平井義一が就任する[5]。この人事により﹁暴力団との絶縁﹂を表面上アピールした事で、自治体による公共施設の貸出謝絶の影響を食い止めている[7]。これとほぼ同じ時期に、日本プロレスリングコミッション事務局長だった工藤雷介からの要請で、同コミッション事務局次長となったのが門茂男である。
社長となった豊登は1964年から1965年にかけてエースとなる。同時期には斎藤昌典︵マサ斎藤︶・杉山恒治︵サンダー杉山︶・草津正武︵草津清正、グレート草津︶など、大物アマチュアスポーツ選手も日プロに入団した[8]。
しかし、社長の豊登は大のギャンブル好きという面からしばしば会社の資金を横領しており、競馬・競輪などギャンブルへ流用するという放漫経営が発覚し、1966年1月に尿管結石の悪化を名目に退職︵事実上の追放処分︶となる[注釈 4]。ハワイに向かった豊登は海外遠征中の猪木を引き抜いて︵﹁太平洋上の猪木略奪事件﹂と呼ばれる︶、東京プロレスを設立した。東京プロレス旗揚発表直後に日本プロレスは妨害工作を開始して東京プロレスを短期間で崩壊に追い込むため、当時使用料が高額だった日本武道館でのプロレス初興行を開催し、武道館大会の目玉にフリッツ・フォン・エリックを招聘した[9]。東京プロレスは、日本プロレスによる妨害工作・テレビ中継がないゆえの集客不振に加え、興行経験の浅かった事などから興行トラブルも発生した︵東京プロレス#板橋事件を参照︶。さらに豊登が東プロでも会社の資金を私的︵主にギャンブル︶に流用するなど経営が立ち行かず短期間で崩壊し、果ては豊登と猪木との間で訴訟合戦に発展する形で決裂した。
また、取締役営業部長だった吉原功も、経営路線の対立[注釈 5]が元で1966年10月に同社を退社して国際プロレスを設立し、同じ日本プロレス退団組であるヒロ・マツダ、マティ鈴木、杉山恒治、草津正武、阿部修︵阿部脩︶、レフェリーのマンモス鈴木、レフェリー兼リングアナウンサーの竹下民夫も加わり、また、国際は旗揚げからトラブル続出で経営危機を迎えていた東京プロレスとの提携を結んだことで、猪木も1シリーズのみ国際のリングに登場したが、豊登との決裂で日プロに復帰︵後述︶したため、東プロ残党の豊登や木村政雄︵ラッシャー木村︶なども合流した。国際は観客動員のテコ入れのためTBSテレビの放映契約に合意し、TBSテレビの主導で﹁TBSプロレス﹂と改め、ブッカーに日プロと絶縁したグレート東郷を招聘するなど日本プロレスに対抗しようとした︵この過程でヒロ・マツダは国際を離脱し、海外へ活路を求めた︶[10]。
1968年1月3日、TBSプロレスが両国の日大講堂︵現・両国シティコア︶で﹁TBSプロレスとして再旗揚げ戦﹂を行う一方で、同日に日本プロレスは蔵前国技館で日本テレビ中継のもとで興行を行う﹁興行戦争﹂を仕掛け、両国と蔵前の﹃隅田川決戦﹄と称されたが、TBSプロレスはルー・テーズの持つTWWA世界ヘビー級王座に挑戦したエース候補のグレート草津が惨敗したため、草津をエースとして売り出す計画が破綻し迷走する形となった[11]。グレート東郷は所属選手が相次いで敗れたことで、新たな挑戦者に日プロで冷遇されていた大木金太郎[注釈 6]の引き抜きを画策し、参戦寸前まで至ったことから日プロとトラブルに発展している[注釈 7]。TBSプロレスは二番手団体として日本プロレスと競合したが、大木引き抜き騒動後にギャランティーを巡る対立からグレート東郷と絶縁する形となった。これによりTBSテレビの影響力が薄れたため、再び﹁国際プロレス﹂を称するようになった︵ただし、TBSによるプロレス中継は1974年3月まで継続した︶が、さらにに日本プロレスは国際プロレスに対し、外国人レスラーの招聘ルートや後楽園ホールを使用不可[14]にするなどなどで妨害をかけ、国際プロレス団や全日本プロレス協会同様に解散に持ち込もうとした。
概要[編集]
大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が1953年、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作︵生井一家貸元で関東国粋会副幹事長だった鈴木栄太郎の子分。戦後に足を洗い新田建設経営者。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍︶の物心双方の援助、後見によって設立した。この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら、児玉誉士夫と親しい企業人グループが後援をしている。テレビ中継は、日本テレビとNET︵現‥テレビ朝日︶で定期中継されていたほか、NHK総合テレビでも力道山時代の初期に不定期放送されていた。1973年に興行団体としての機能を停止した。 ﹁日本プロレス協会﹂及び﹁日本プロレス興業株式会社﹂の上に戴いていた﹁日本プロレスリングコミッショナー﹂には、自民党副総裁の大野伴睦、川島正次郎らがいた[1][注釈 1]。このコミッショナーは﹁日本プロレス界全体の﹂コミッショナーで、東京プロレスなどからも認可申請が出されているが、実際に認可団体とされたのは日本プロレスだけであった。なお、のちに首相となる中曽根康弘とは、力道山が持つリキアパートの一室を事務所とするほどの関係だった[2]。 一時期は日本で唯一とも言えるプロレス団体であり、プロレス界に与えた影響は計り知れない。力道山以後のプロレス界において双璧をなすことになるジャイアント馬場︵後に全日本プロレスを創立[3]︶とアントニオ猪木︵後に新日本プロレスを創立︶も、1960年9月30日に日本プロレスで同時デビューしている。また、後に国際プロレスを創立した吉原功も日本プロレスの元プロレスラーだった[注釈 2]。歴史[編集]
1953年7月30日、東京日本橋浪花町に設立された﹁日本プロレス協会﹂が母体となる。力道山時代[編集]
豊登時代[編集]
BI砲時代[編集]
1966年にはかねてから力道山の後継者と目された馬場が、復活したインターナショナル・ヘビー級王座を連続防衛してエースとなる。1967年、東京プロレスから復帰した猪木とタッグを組んで﹁BI砲﹂と呼ばれ、力道山死去で一時低迷した人気は再び黄金期の人気を取り戻すようになる。 また、当時東京プロレスへ移っていた猪木の穴を埋めるべく、世界柔道選手権大会日本代表であった坂口征二を獲得した。坂口のプロレス転向には出身の明治大学柔道部のOBなどを中心に転向阻止を画策する動きもあったが、最終的に日プロは坂口の獲得に成功している。その後、ほどなく猪木も関係者の仲介を受ける形で旧東京プロレスから永源勝︵永源遙︶、高崎山三吉︵北沢幹之︶、柴田勝久の3人を引き連れて日プロに復帰した[注釈 8]。さらに大木金太郎、吉村道明、山本小鉄、星野勘太郎らが脇を固める充実した選手層を誇った。 日プロは長らく日本テレビが﹃三菱ダイヤモンド・アワー・プロレスリング中継﹄の番組名で中継していたが、NET︵現‥テレビ朝日︶が参入を希望した。経営陣は収入面から歓迎したが、別の背景としてグレート東郷とルー・テーズが組んで設立した﹁トーゴー&テーズ・カンパニー﹂がシャチ横内をエースとする新団体を旗揚げし日本のプロレス興行への参入を画策しており、その過程でテレビ放映先としてフジテレビや東京12チャンネル、NETテレビに接触していたこともあって、企業防衛の見地から東郷・テーズらの新団体の参入阻止という観点もあった[注釈 9][16]。 NETに対しては、先行の日本テレビと力道山以来の冠スポンサーである三菱電機に配慮して﹁馬場及び坂口の試合を放映しない﹂、﹁ワールド大リーグ戦の試合を放映しない﹂ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となる。人気No.1の馬場の試合を中継出来ないNETは﹃ワールドプロレスリング﹄の番組名で、No.2である猪木・大木らを中心とした番組を組んだ。NET側は看板企画として﹁ワールド大リーグ戦が中継できない﹂代わりとして﹁NWAタッグリーグ戦﹂を1970年から実施して秋の一大イベントにしようとした[注釈 10]ほか、猪木に馬場のインターヘビー級と同等のベルトを持たせる意図で﹁UNヘビー級王座﹂を新設し、猪木にベルトを獲得させてUN防衛戦の独占中継を計画するなど、後発のNETは先発の日本テレビとのハンデを様々な企画で克服しようと目論んだ[17]。詳細は「ワールドプロレスリング#放送開始 - NET独占放送へ」を参照
アントニオ猪木の退団[編集]
2局放送体制となり、巨額な放映権料や興行収益により経営は表向きは引き続き好調を維持していたが、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始める。一部の経営陣について﹁会社の金庫を勝手に開けて、そこから札束を鷲掴みにしてそのまま毎夜、銀座のバーに繰り出す﹂[18]、﹁幹部達はほとんど仕事もせず、自分達の給料を言い値で決めて、馬場や猪木よりも高い給料を貰っていた﹂﹁莫大な収益にもかかわらず、放漫経営のために金庫の中に金が無く、経営は火の車だった﹂[19]、という逸話がある[注釈 11]。1971年にこれを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつけた。しかし、猪木が自身の取り巻きの画策もあり幹部の追放を要求するなど急進的な動きを見せたことで﹁猪木が社長になり、日プロの乗っ取りを画策している﹂と、馬場や上田馬之助などの不信感を招き、馬場や上田により幹部に猪木の動きが告発されたことにより目論見が露見することとなった[注釈 12]。猪木の動きに同調したとして馬場が選手会長を引責辞任︵後任は大木金太郎︶したことで猪木は孤立する形となり、態度を硬化させた幹部や大木ら選手会主導で猪木の除名が決議され、1971年12月13日、会社の乗っ取りを図ったとして猪木の日本プロレス除名処分を発表した。
詳細は「上田馬之助 (プロレスラー)#密告事件」を参照
猪木は、先の騒動で選手会で唯一猪木を擁護して除名に反対し日プロを退団した山本小鉄と自身の付き人で若手選手の木戸修、藤波辰巳、猪木を擁護して同様に除名されたレフェリーのユセフ・トルコ、さらに海外遠征中だった柴田勝久、北沢幹之︵魁勝司︶の2人を加えて、1972年3月に新日本プロレスを設立した。手薄な新日の陣営には一連の東プロ崩壊で一度は袂を分かった豊登も、猪木の側近である新間寿のブッキングを受け、新日本を助けるべく参戦した[注釈 13]。日プロは新日本に対しても、国際同様に対抗手段として外国人招聘ルートなどで妨害をかけた[注釈 14]。また、一部の日プロの選手により猪木らへの襲撃も計画され、実際に日本刀を持って新日本の事務所に押しかけさせといった嫌がらせも行っていたとされる[注釈 15]。
ジャイアント馬場の退団[編集]
猪木除名後の日プロは大木や坂口をNET中継︵﹃ワールドプロレスリング﹄︶向けの中心選手としてプッシュし、好カードをNETへ優先的に放送するよう手配したが、猪木時代のような視聴率を取ることが出来ず低迷。放送の中心であった猪木が除名されたため、目玉選手が日プロ側の都合でいなくなったことを盾にNETは1972年1月から必然的に馬場の試合中継を要求する。当時のプロレス中継は視聴率も高かったため﹁馬場の試合をNETで放送しても、日本テレビ自体での視聴率も高かったので放送を打ち切ることはないだろう﹂﹁強行突破してしまえば、日本テレビも文句を言えまい﹂という意見が日本プロレスの幹部会で大勢を占めたため、NET中継をつなぎ止めるためにこれに応じた[注釈 16][24]。幹部のなし崩し的な決定に日本テレビに加え、日本テレビ関係者の意を受けていた馬場も異を唱えて再三警告していたが、日本プロレス幹部勢は﹁高視聴率である中継を日本テレビが止める訳がない﹂と高を括り、非常に認識が甘かった。馬場は1972年4月3日の﹃ワールド大リーグ戦﹄新潟大会からNET中継にも登場したが、日本テレビや冠スポンサーの三菱電機の恩義に背くような決定をした日本プロレスを既にこの時点で見限っていたことを、後に自身の著書﹃王道十六文﹄で明らかにしている[25]。 当初の独占条件の約束を破り、なし崩し的に放送された坂口の試合やワールド大リーグ戦に対しては渋々ではあるが容認していた日本テレビだったが、絶対にしないで欲しいと念を押していたにもかかわらず、NETでの馬場の試合放映を認めた日本プロレスに対して、日本テレビだけでなくスポンサーの三菱電機も激怒しており、放送の翌4日に日本テレビは東京地方裁判所に日プロの契約違反と馬場のNET中継の出演差し止めを求めて提訴する事態となった[注釈 17]。東京地裁から申請は却下され、当事者同士の話し合いを委ねられたが、日本テレビは﹁契約不履行﹂を理由に、1972年5月15日に﹃日本プロレス中継﹄[注釈 18]の打ち切りを正式発表した[注釈 19][26][27][28]。その結果、日本プロレス中継はこれ以降はNETのみの放送となり、7月28日からは金曜にも﹃NET日本プロレスリング中継﹄のタイトルで放送を開始し、9月29日から﹃NET日本プロレスリング中継﹄に一本化された[注釈 20]。 プロレス中継の打ち切りを決定した日本テレビは小林社長の指揮の下で、極秘裏に報復手段に近い形で自局と関係が近かった馬場に接触して独立を促し、それを受けて馬場は日本テレビを後ろ盾に独立を決め、7月に日プロに対して辞表を提出し、8月に全日本プロレスを設立した。馬場はこの時点でNETとの契約が残存していたことや日プロのプロモーターなどが馬場の出場を求めてきたため、日プロは日本プロレスリング協会の会長であった平井義一に調停を依頼し﹁︵1972年︶9月20日まで日プロに出場したうえで、翌1973年3月末まで週1回はNETの﹃ワールド・プロレスリング﹄にも出演する事﹂を条件とする調停案を提示したが、馬場はこれを拒否した。馬場は保有するタイトルの返上など身辺を整理した[注釈 21]うえで、1972年8月18日の宮城県石巻市での試合を最後に、日プロを退団した[29]。 馬場が設立した全日本には馬場に近い大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダ、佐藤昭夫らが参加したほか、国際プロレスとの前座選手の派遣などで協調体制を築き、さらに国際からサンダー杉山を円満に獲得した。同時に日本テレビによる﹃全日本プロレス中継﹄が放送開始した。全日本プロレスは日本テレビだけでなく、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩、日本プロレスの若手選手であった百田光雄の力道山の両子息と、役員として未亡人の田中敬子が旗揚げに参加したことで﹁力道山︵百田︶家のお墨付き﹂を得ることにも成功。日本テレビと百田家がバックに付き、なおかつ外国人レスラーの招聘ルートも確保出来た全日本に対して、日プロは過去に東京・国際・新日本へ行ったような外国人レスラーの招聘ルートでの妨害が失敗[注釈 22]し、また後楽園ホール等の会場使用を不可にするような圧力を掛けることが出来ず[注釈 23]、全日本に対する妨害工作はことごとく失敗したことで、全日本は地盤をさらに固めて行った。なお、日プロと選手の間には契約書が存在せず、給与その他についての取り決めは全て口約束で行われ、法的拘束力がなく離脱を法的に止める手段は存在しなかったとされる[注釈 24][30]。新日本プロレスとの合併計画破談[編集]
馬場と猪木という興行の二枚看板を失った日プロは一気に弱体化することになり、二人が抜けた穴を埋める形で坂口と大木を看板選手に据え、可能な限りの豪華な外国人レスラーを招聘するなど打開策を講じたが、観客動員やNETにおける視聴率の減少に歯止めは掛からず全日本が旗揚げした1972年10月以降はこの傾向が加速し、後楽園ホールにおける興行も全日本よりも観客数を下回るようになり、地方においても国際との興行戦争で10月の都城、11月の札幌中島スポーツセンターと愛知県体育館などでそれぞれ国際にも惨敗してしまう[31][32][33][34][35][注釈 25]。この時期から交代で選手を4人から6人欠場させる事態に陥り、給料の遅配も発生して若手や新人レスラーは食費にも事欠く有様で、アルバイトで生活費を稼がねばならない状況に追い込まれることになった。一方で選手会内部でも意見対立が見られ、一部選手が欠場する事態も起きていたという[36]。 このような状況の中、NETが中継打ち切りをちらつかせるようになると同時に[37]NETは幹部や選手会に極秘で猪木と坂口との新日本プロレス中継開始に関する協議を開始した[注釈 26][39]。同時期には中堅選手のうち星野勘太郎、永源遙、安達勝治︵後のミスター・ヒト︶、林牛之助︵後のミスター林︶、戸口正徳︵後のタイガー戸口、キム・ドク︶をギャラ削減策の一環で海外武者修行に出発させた一方で、海外武者修行を行っていた高千穂明久︵後のザ・グレート・カブキ︶と松岡巌鉄が日プロを救うべく緊急帰国した[注釈 27]。猪木と坂口の会談を契機に、新日本と日プロを合併する方向で交渉が進められた。坂口によれば、NETが﹁猪木・新日本との合併を認めなければ中継を打ち切る﹂と強硬姿勢に出たため合併交渉が急速に進展し、日プロの選手会もグレート小鹿が窓口となりこれに同意したという[40]。その結果、1973年2月6日には両社による新団体設立の記者会見を京王プラザホテルで行なった。会見では﹁新日本を発展解消し、合併後の新社名を新・日本プロレスとする﹂、﹁社長は猪木が、副社長は坂口がそれぞれ就任する﹂、﹁テレビ中継はNETテレビが行う﹂と発表した[39]。 しかし、韓国に一時帰国中で新団体設立の記者会見時には日本に不在であった日プロ選手会長の大木がこの決定に反発し、1973年2月16日に日本に戻り﹁ダイナミック・シリーズ﹂後楽園ホール大会の控室で大々的に﹁猪木と坂口との合体は聞いていない。合体話は猪木が日プロを乗っ取りを企んだことを認めることになり、絶対に反対だ﹂と記者陣に会見したことで[39]、一度は合併に承諾した選手会の総意を大半の選手とフロント勢が覆して大木の意見に賛同したため、合併は破談となる。だが、NETテレビは4月から新日本の中継を開始する方針に変わりはなかった[39]。さらに大木は坂口に事前の話をしないまま、坂口と坂口の付き人である木村聖裔︵後の木村健悟︶、小沢正志︵後のキラー・カーン︶、大城勤︵大城大五郎︶の新日本プロレスへの移籍を独断で発表してしまうなど選手会内の亀裂が表面化した。控室では坂口と大木は一切会話を交わさない冷戦状態となり、また選手会の一部やフロントは﹁裏切り者﹂である離脱派に対する制裁︵セメント・マッチ︶を画策し、実際に試合で大城が桜田一男︵後のケンドー・ナガサキ︶に血だるまにされるなど不穏な状態となった[注釈 28]。坂口ら離脱派は地方巡業でも残留派と同宿せず、別のホテルを取るなどの別行動を余儀なくされた[42][43]。 結局、坂口は大木ら選手会側から﹁裏切り者﹂扱いされた形で、木村、小沢、大城、レフェリーの田中米太郎と共に3月8日の﹁ダイナミック・シリーズ﹂最終戦を最後に日プロを離脱し、新日本へ合流した[注釈 29]。1973年3月9日には、NETテレビが坂口らの移籍に合わせた形で﹃NET日本プロレスリング中継﹄を3月30日をもって打ち切ると同時に、4月6日から新日本プロレスの中継︵﹃ワールドプロレスリング﹄へ再改題︶へ移行することを正式発表したほか、メインレフェリーの沖識名も辞表を提出し退団した。NETテレビにおける日プロ中継打ち切り決定後に大木は菊池孝︵プロレス評論家︶に対し﹁NETテレビは日プロを見捨てないだろう。新日本の中継を開始しても、NETのプロレス中継は日プロ・新日本の隔週となり、引き続き日本プロレスの試合を中継してくれると思う﹂と非常に甘い見通しを話しており[39]、フロント側も離脱した坂口に代わる主力選手として、高千穂を新たなUNヘビー級王者として売り出す方向性も見せていた[44]。だが、NETによるテレビ中継も3月30日放送の﹁ダイナミック・シリーズ﹂最終戦・佐野市民会館大会︵打ち切り発表前日である3月8日に開催︶の録画中継をもって打ち切られ、日プロはテレビ中継やそれに伴う放映権料を完全に失った。崩壊[編集]
テレビ中継に伴う放映権料を失ったことに加え、主力選手の離脱で観客動員も激減による入場料の減収で会社経営も立ち行かなくなり、﹃アイアンクロー・シリーズ﹄開幕前に日プロの営業部全員が辞表を提出して事実上営業活動が停止したこともあり[45]、芳の里︵長谷川淳三︶社長は﹃NET日本プロレスリング中継﹄終了と同時に興行活動を断念する意向を示していたが、大木ら選手会とリングアナウンサーの篠原長昭は﹃アイアンクロー・シリーズ﹄を6戦の日程で、各選手の貯金を取り崩して﹁選手会主催興行﹂として強行した[39]。しかし開幕戦の大阪府立体育会館大会︵1973年4月13日、メインは大木vsフリッツのインターナショナル・ヘビー級選手権試合︶が記録的な不入り︵主催者発表は4,000人︶に終わり、4月14日に力道山の墓所がある池上本門寺で﹃赤坂の日プロ﹄を法人として存続の上で力道山時代の債務を処理していた百田家の同席したうえで﹁日本プロレスの解散﹂と国内に残留している日プロ所属選手全員が百田家へ身柄を預ける事を発表した。第3戦後楽園ホール大会︵1973年4月17日、メインは小鹿&松岡vsキラー・カール・クラップ&ジェリー・モンティのアジアタッグ選手権試合︶も主催者発表で観衆1,000人という不入りとなり、4月18日には静岡県焼津市民体育館でインターナショナル・タッグ選手権試合︵大木&上田vsフリッツ&クラップ︶を、4月19日には横浜文化体育館でUNヘビー級選手権試合︵高千穂vsクラップ︶をそれぞれこなしながらシリーズを消化し、4月20日の﹃アイアンクロー・シリーズ﹄最終戦群馬県吉井町体育館大会︵メインイベントは大木&小鹿vsフリッツ&クラッシャー・リバース︶をもって﹃渋谷の日プロ﹄は興行活動を停止し、所属選手と役員は形式的に百田家による﹃赤坂の日プロ﹄に合流した。崩壊後[編集]
最後まで国内に残った大木ら9選手は、身柄を預けた形の﹃赤坂の日プロ﹄をクッションにして、1973年4月27日に赤坂プリンスホテルで全日本と合同記者会見を行い移籍し、事実上日本プロレスは全日本への統合という形をみたが、実際には日本テレビと1976年3月31日までの3年契約を結んだものであった。日プロ残党組は6月30日開幕の﹃'73サマー・アクション・シリーズ﹄から全日本プロレスへ派遣される形となった。馬場は当初、大木ら日プロ残党組の受け入れについては難色を示した代わりに、坂口を獲得しようとしたと言われているが、仲介役を果たした日本テレビの小林與三次社長、三菱電機の大久保謙社長、日本プロレス協会の理事であった衆議院議員の楢橋渡、福田篤泰、全日本の取締役を兼ねていた﹃赤坂の日プロ﹄社長の田中敬子ら百田家の意向を軽視できなかったうえに、馬場もまだ日本プロレスの取締役を退任していなかったことなどもあり、やむなく馬場は残党の身柄を受け入れることとなった。ただし、日プロ合流組と子飼いの選手達とでマッチメイクなど待遇面で差別を行ったとされる[注釈 30]。さらに国内に残留していた9選手の日本テレビとの契約内容には、日本テレビの許可なく新日本・国際への試合出場や移籍を禁止する条項が含まれていた[注釈 31]。残党9名のうち高千穂、グレート小鹿、羽田光男︵ロッキー羽田︶、ミツ・ヒライ、桜田一男、伊藤正男は日本テレビとの3年契約後、全日本に正式所属となった。正式所属となった後は、高千穂はサムソン・クツワダとのタッグ、小鹿は大熊元司との﹃極道コンビ﹄再結成で中堅タッグ戦線を担い、桜田は若手選手のコーチとしての役目も担うなど一部選手の待遇も変化している。
一方で、大木・上田馬之助・松岡巌鉄の3人は全日本の体制に不満を示し[注釈 32]、日本テレビとの契約期間中に全日本を退団した。
大木はその後﹃'74新春NWAシリーズ﹄以降を無断欠場した上で、契約違反を犯して新日本に参戦して猪木や坂口などと対戦した。特に坂口との対戦は前出の団体離脱時の遺恨があるため、1975年の﹃ワールドリーグ戦﹄での3度の対決がいずれもセメント・マッチとなり、うち2戦がノー・コンテストとなったため、以降は坂口と大木の対決は事実上封印された。その後、大木は馬場との対決を念頭に全日本に転戦したが、1980年に国際の中継番組であった﹃国際プロレスアワー﹄を放送していた東京12チャンネル主導で視聴率のテコ入れ目的で国際に入団した︵東京12チャンネルとの半年契約での入団︶。しかし、入団の経緯に際して国際代表であった吉原と東京12チャンネルとの軋轢を生じさせ、崩壊後も保持して母国の韓国で防衛戦を行っていたインターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦を、NWA非加盟団体であった国際で行ったため、全日本から抗議を受けたほか、NWAからもベルト返上勧告を受けてしまい、その後、東京12チャンネルからも契約を打ち切られた。大木は再び全日本に参戦するようになったが、1982年を最後にセミリタイア状態となった︵正式な引退は1995年の東京ドーム・ベースボール・マガジン社主催﹃夢の懸け橋﹄興行でのセレモニーとなった︶。
上田と松岡の2人は﹃'73創立一周年記念ジャイアント・シリーズ﹄第3戦蔵前国技館大会︵1973年10月9日︶を最後に、海外武者修行から帰国した鶴田友美︵ジャンボ鶴田︶と入れ替わるように退団[注釈 33]して契約適用外の海外へ活路を求めたが、上田は日本テレビとの契約満了後にフリーとなり、後に国際や新日本などへ参戦して猪木やラッシャー木村などと対戦した一方で、松岡は海外サーキット中に上田と軋轢を生じてしまい決裂[注釈 34]し、二度と日本のリングに上がることのないまま1974年末に廃業した。
ただし、崩壊前に海外武者修行へ出発し、なおかつ修行先で崩壊を迎えた星野勘太郎・永源遙・安達勝治・林牛之助・戸口正徳の5名は日本テレビとの専属契約対象外であったため、帰国後は星野と永源は新日本・林は全日本にそれぞれ正式入団した。一方で安達[注釈 35]と戸口[注釈 36]は引き続き海外マットを主戦場とした。
また、興行休止で一旦途絶えた形となった管理タイトル・UNヘビー級王座・アジアヘビー級王座・アジアタッグ王座も、暫くの空白期間を経て﹁復活﹂という形で全日本プロレスへ継承された。海外に流出していたインターナショナル・タッグ王座は2年後の1975年、ジャイアント馬場・ジャンボ鶴田組が奪還して日本に定着。また大木が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座は1981年、大木の返上により全日本のタイトルとして﹁復活﹂した。力道山の死後に封印された日本ヘビー級王座のベルトは、1992年に力道山にとって二所ノ関部屋の後輩でもある天龍源一郎により旗揚げされたWARにおける日本J1王座のベルトとして流用されている。
興行を失った後、﹁渋谷の日プロ﹂は会社組織としてしばらく存続し、社長だった芳の里は6年間NWA会員名簿にそれまで残されていた。その後活動実態がないことから、登記簿上﹁解散みなし﹂として1996年6月5日付けで解散したことになっている。一方の﹁赤坂の日プロ﹂は、百田︵田中︶敬子の個人事務所として存続した。
2022年にタイガー戸口が引退したことにより、2023年現在日本プロレス出身で現役選手として活動しているのは小鹿、藤波、百田のみとなっている。
タイトル[編集]
NWA ●NWAインターナショナル・ヘビー級王座 ●NWAインターナショナル・タッグ王座 ●NWA UNヘビー級王座 アジア ●アジアヘビー級王座 ●アジアタッグ王座 日本 ●日本ヘビー級王座[注釈 37] ●日本ジュニアヘビー級王座 ●日本ライトヘビー級王座 ●日本タッグ王座 リーグ戦 ●ワールドリーグ戦 ●NWAタッグ・リーグ戦 NWAルール ●力道山時代は61分3本勝負であったが、なぜ﹁61分﹂だったかは諸説ある。力道山の死後は60分3本勝負に変更。また、挑戦者が王者からフォールを2回取った場合のみ王座移動となるが、それ以外の結果は防衛となっていた︵挑戦者が1本目でフォールを取った後に時間切れになって2本目でフォールが取れなかったり、3本目が反則勝ちだった場合も防衛︶。また、日本プロレスの基本ルールとして︵若手選手を除き︶﹁日本人︵陣営︶同士が対決しない﹂ルールが存在した。このため、総当たり戦となるリーグ戦においても、日本人陣営が外国人陣営と総当たりルールとなる変則的なリーグ戦となっていた︵第7回までの﹁ワールドリーグ戦﹂では、例外的に外国人同士の対戦があった︶[注釈 38]。この事がプロレスマスコミやファンが望んでいた馬場対猪木の直接対決を避ける大きな要因となっており、経営陣がルール面での変革を積極的に行わなかったことで、後に日プロが経営的に行き詰まりをみせる遠因にもなっている[48]。所属選手[編集]
●力道山 ●東富士 ●駿河海 ●遠藤幸吉 ●芳の里 ●吉村道明 ●大同山又道 ●大坪清隆︵大坪飛車角︶ ●金子武雄 ●土佐の花︵竹村正明︶ ●玉の川 ●羅生門綱五郎 ●吉田川 ●宮島富男 ●藤田山 ●渡辺貞三︵後にメキシコシティでデビュー前のミル・マスカラスに柔道を指南している[49]︶ ●比嘉敏一 ●大山博 ●長谷川丹治 ●平野惣一︵平野岩吉︶ ●本間和夫︵本間乃久六︶ ●木戸時夫︵木戸修の実兄︶ ●輝昇 ●金栄珠 ●萬奇煥 ●大里巌 ●飯田敏光 ●斎藤昌典 ●緑岩︵練習生︶ 国際プロレスの旗揚げメンバー ●吉原功 ●ヒロ・マツダ ●マティ鈴木 ●杉山恒治 ●草津正武︵草津清正︶ ●マンモス鈴木︵レフェリーに転向︶ ●阿部修︵レフェリーに転向︶ ●竹下民夫︵レフェリー兼リングアナウンサー︶ 後に国際プロレスへ移籍 ●豊登 ●ミスター珍︵出口一︶ ●木村政雄 ●田中忠治︵田中政克︶ ●長沢秀幸︵長沢日一︶ 新日本プロレス旗揚げメンバー ●アントニオ猪木︵猪木完至︶ ●ユセフ・トルコ︵レフェリーに転向︶ ●山本小鉄︵山本勝︶ ●柴田勝久 ●北沢幹之︵高崎山猿吉、新海弘勝︶ ●木戸修 ●藤波辰巳 1973年に新日本プロレスへ移籍 ●坂口征二 ●小澤正志 ●木村聖裔 ●大城勤 ●田中米太郎︵桂浜︶︵レフェリーに転向︶ 全日本プロレス旗揚げメンバー ●ジャイアント馬場 ●樋口寛治︵レフェリーに転向︶ ●駒厚秀︵駒角太郎︶ ●轡田友継 ●藤井誠之 ●大熊元司︵大熊熊五郎︶ ●佐藤昭雄 ●百田光雄 最終所属選手 ●大木金太郎︵金一︶ ●高千穂明久 ●上田馬之助︵上田裕司、グレート・イトー︶ ●グレート小鹿︵小鹿信也、小鹿雷三︶ ●松岡巌鉄︵正剛山、ミスター松岡︶ ●ミツ・ヒライ︵フジ・シンタロー︶ ●桜田一男 ●羽田光男 ●伊藤正男 崩壊時海外武者修行を行っていた選手 ●ミスター・ヒト︵安達勝治︶ ●林牛之助︵林幸一︶ ●星野勘太郎︵星野赳夫︶ ●永源遙︵永源勝︶ ●戸口正徳 留学生 ●ドナルド・タケシ[50]スタッフ[編集]
レフェリー[編集]
●沖識名︵メイン︶ ●九州山 ●田中米太郎 ●ハロルド登喜︵ハワイ出身の元レスラー、日本名は登喜輝房。1954年12月22日、日本ヘビー級王座決定戦、力道山vs木村政彦戦を務める︶ ●ユセフ・トルコ ●ジョー樋口 ●ジェリー・マードックリングアナウンサー[編集]
●酒井忠康 JBC所属。プロポクシング界最古のリングアナウンサー 第1回ワールド大リーグ戦決勝戦・力道山vsジェス・オルテガ戦を務める。メインのボクシングリングアナウンサーとして柴田国明、輪島功一、藤猛の世界ジュニアウエルター級等の世界タイトルマッチ[1]をコールした。そのアナウンスは﹁酒井師﹂と言われ、昭和のボクシングリングアナの象徴となった。 ●小松敏男 1960年頃から担当︵力道山最後のテレビ中継[注釈 39]となった1963年12月2日のインターナショナル選手権試合・力道山vsザ・デストロイヤー戦[2]を務める。力道山死後も豊登体制でアナウンスを担当。豊登vsザ・デストロイヤーのWWA世界選手権等でコールするが退社。東京プロレス1966年10月12日旗揚げ戦観戦時に、東京プロレス関係者に依頼されアントニオ猪木vsジョニー・バレンタイン戦をコールする。1980年1月11日にプロモーターを務めた全日本・高知県民体育館大会でメイン︵鶴田vsロビンソンのUN選手権︶とセミファイナルを限定でコール。 ●篠原長昭 1966年頃から担当。1966年12月3日メイン馬場vsエリックのインターナショナル選手権でのアナウンスを確認できる。昭和40年代のプロレスリングアナとして有名で、団塊の世代でリングアナウンサーといえばこの人の真似をする人が多数いる。立教大学在学中は応援団の団員だったコーチ[編集]
●カール・ゴッチ来日外国人選手[編集]
試合中継[編集]
NETテレビによる中継については「ワールドプロレスリング」を参照
映画[編集]
●プロレスWリーグ 血ぬられた王者︵東映︶- 第10回﹁ワールドリーグ戦﹂を中心とした中編ドキュメンタリー。参考文献[編集]
●日本スポーツ出版社﹃日本プロレス40年史﹄1995年4月3日 ●日本スポーツ出版社﹃プロレス醜聞100連発!!﹄1998年6月1日 ISBN 4-930943-10-8 ●﹃日本プロレス事件史 Vol.2 テレビプロレスの盛衰﹄ベースボール・マガジン社、2014年10月17日。ISBN 9784583621876。 ●﹃日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き・興行戦争﹄ベースボール・マガジン社、2015年4月17日。ISBN 9784583622699。 ●﹃日本プロレス事件史 Vol.10 暴動・騒乱﹄ベースボール・マガジン社、2015年6月17日。ISBN 9784583622996。 ●﹃日本プロレス事件史 Vol.12 団体の"誕生、消滅、再生"﹄ベースボール・マガジン社、2015年8月17日。ISBN 9784583623252。 ●﹃日本プロレス事件史 Vol.18 会場・戦場・血闘場﹄ベースボール・マガジン社、2016年2月17日。ISBN 9784583624181。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 門茂男の著書によれば、門がコミッション事務局次長に就いた時点で﹁ライセンス発行が主たる業務であるはずのコミッション事務局には、ライセンス用の台紙や公印も何一つなかった﹂と既にコミッションの形骸化が始まっていたとしている。また、1979年に新日本プロレスと国際プロレスが﹁日本プロレスリングコミッショナー﹂として二階堂進を推戴した際、日本プロレスにおいて最後のコミッショナーとなっていた椎名悦三郎の秘書が、﹁コミッションの事務所も残してあるのに、こちらに断りがない﹂と激怒した、という話も門は著書で記している。
(二)^ 徳光康之は﹁最狂超︵スーパー︶プロレスファン烈伝﹂で﹁力道山が木村政彦に完敗した世界﹂というパラレルワールドについて、﹁︵現実における木村の団体同様︶日本プロレスが消滅し日本プロレスを源流とする諸団体もすべて消滅、女子プロレスも力道山人気無しではやっていけないから消滅、すなわち日本からプロレスがなくなる﹂と描いている︵その世界ではプロ柔道が現実のプロレスのような地位を占めている︶。
(三)^ 経営権を奪われた敬子は、当時赤坂にあったリキ・アパートに拠点を移したが、豊登・芳の里らも名義を変更しなかったために﹃日本プロレスリング興業株式会社﹄の名義が2箇所存在する事態となった。このため、当時の所在地にちなんで、負債を処理していた百田家の日本プロレスは﹃赤坂の日プロ﹄とも、興行活動を行っていた豊登・芳の里らの日本プロレスは﹃渋谷の日プロ﹄とも呼ばれる。
(四)^ 東京プロレス#豊登の日本プロレス追放 - 新団体旗揚げへの準備を参照。
(五)^ 取締役経理部長であった遠藤幸吉とは元々折り合いが合わなかったうえに、リキ・スポーツパレスの売却問題がきっかけとなり﹁吉原は日本プロレスを乗っ取ろうとしている﹂という讒言を撒かれたことで他の幹部と衝突し、退職に至った。
(六)^ 1967年春に一時韓国に帰国していた大木は交通事故を起こし、日本に戻ってからもマッチメイク面で馬場に加え、復帰した猪木にも後塵を拝する形となっており、幹部が約束した大木の﹁力道山﹂襲名も有耶無耶にされたことで、大木の日プロに対する不信感はこの時期強くなっていた[12]。
(七)^ 大木は実際に日プロに辞表を出し、TBSプロレス参戦表明のために興行先の仙台に向かったが、現地で日プロ関係者により阻止された。この報復として日プロのレフェリーであったユセフ・トルコと同行を懇願した松岡巌鉄が東郷の泊まるホテルを襲撃し、東郷を暴行する事件が起きている[13]。
(八)^ 表面上は﹁若い猪木は豊登に騙された﹂という見地もあり、日プロ側が﹁戦う場所を失った猪木を寛大に受け入れた﹂という形になっていたが、実際は猪木に日プロから支度金が支払われるなど、猪木側が提示した諸条件を日プロ側が受け入れたことで復帰が実現したとされている[15]。
(九)^ ﹁トーゴー&テーズ・カンパニー﹂は1969年のNWA総会で加入を申請するも投票で否決されたことで、可能性を探っていた各局はいずれも放映を断念し、結局東郷らの新団体計画は頓挫している。
(十)^ このタッグリーグ戦には馬場も出場するため、主導したNETが馬場関連の試合が放送できない事情を考慮し、第1回で日本陣営は抽選で馬場・猪木も含めた主力選手と若手選手がタッグを組む、いわば即席のタッグチームを結成した。この試みは不評だったこともあり、第2回は馬場は吉村道明、猪木は坂口征二と組むなどタッグチームも見直されたが、第3回は馬場・猪木といった主力選手が離脱したことで、主力選手の坂口・大木・吉村以外に中堅、若手選手を多く出場させる形となり、結局﹁秋の一大イベント﹂としての効果はあげられず、日プロの崩壊もあり3回で終了している。
(11)^ この他にも経営陣やスタッフの客に対して﹁試合を観せに行ってやるよ﹂という傲慢な態度や、プロレスマスコミが改善案や希望を出しても聞き入れず無視するなどの驕りを見せ、外人レスラーの招聘もブッカーに丸投げで自分たちでリサーチしないなど、この頃には様々な問題が出始めていた。この事から腐敗した日プロの幹部連中を﹁ダラ幹﹂と揶揄されている。
(12)^ 当初の改革案は、遠藤幸吉など元凶となっていた幹部の退任や降格をしたうえで、当面の間は芳の里を社長に留め、馬場と猪木が副社長として経営に加わり内部から改善する漸進的ものであり、選手会は韓国出身の大木金太郎と師弟関係にあった戸口正徳︵タイガー戸口︶を除いて﹁総意﹂という形で当初は改革案に賛同していた。しかし、猪木側は途中から経営陣の芳の里、遠藤、吉村道明を追放して一掃し、猪木が社長、猪木の腹心であった経理士の木村昭政が副社長となって日プロの経営を掌握し、その後は力士出身の選手、果ては馬場も追放する急進的な手段を画策していたとされる。
(13)^ このほか、海外遠征中のマサ斎藤、松岡巌鉄、ヒロ・マツダ、マティ鈴木なども参加が予想されていたが、いずれも応じる事はなかった。また、トルコは坂口征二に対し支援者を通じて1000万円の支度金を提示し参加を要請したが坂口は応じず、むしろ坂口は態度を硬化させる形となった[20]。さらに猪木は、自身の有力な後援者である笹川良一︵日本船舶振興会会長︶を通じて、大相撲力士の高見山大五郎︵同じく笹川が有力なタニマチとなっていた︶の転向を打診したが、本人に大相撲廃業の意思がなく、これも失敗している。
(14)^ 当時の新日本プロレスは日本プロレスの圧力に加え、テレビ局のバックアップがなく、馬場のようなアメリカでの太い人脈が当時の猪木にはなかったため、招聘ルートの開拓が出来ず、実際に新日本のブッカーとなったのが猪木の師匠格でもあるカール・ゴッチであったが、ゴッチのアメリカにおける影響力は非常に薄いため招聘ルートは脆弱であり、ほぼ無名の外国人選手しか招聘できなかった。このため、旗揚げシリーズの目玉選手としてゴッチ自身が参戦する形となっていた。このような手薄な状態であっても、日本プロレスからの圧力を避けるため外国人選手の招聘には神経を使い、参加選手は発表直前まで伏せられたり、新日本参戦のために変名を使用したりしていた。[21]。
(15)^ 実際に林牛之助︵ミスター林︶とグレート小鹿が新日本の事務所に押しかけている。そのさい、偶然事務所に藤波辰巳が居合わせていたが、機転を利かせた事務員が藤波を奥の部屋に避難させ、林と小鹿にはレスラーは誰も来ていないと伝え、それを聞いた二人は事務所を去り、藤波への被害を未然に防いでいる。また、猪木の除名決定直前の札幌遠征では身の危険が察知されていたため、山本や猪木の付け人である藤波、木戸に加え、猪木の実弟である猪木啓介︵空手の経験者であった︶も現地に駆けつけて猪木を護衛し、ユセフ・トルコが手配した航空便での移動やホテルに宿泊するなど、選手会本隊と別行動をとっていた。トルコによれば実際に控室に選手が猪木襲撃のため、待ち伏せていたという[22]。猪木は札幌大会後に﹁右輸尿管結石症﹂の診断で都内の病院に入院したが、この時も関係者による襲撃を警戒し、詐病で入院して身を潜めていたことを後年に告白している[23]。
(16)^ 水面下の交渉において、放映権料についてもNETは従来、週350万円のところを450万円に増額する好条件を出してきたとされる。
(17)^ 当時、日本テレビと三菱電機は新宿に電波塔を建設する共同プロジェクトを進めていたことも、両社協調の背景にあった。日プロの事態に対して話し合いが持たれ、三菱電機会長の大久保謙は即時に打ち切りを決断し、日本テレビ社長の小林與三次もこれに同調したとされる[24]。
(18)^ 最後の中継は5月12日の東京都体育館大会の生中継だった。
(19)^ この発表の席上、日本テレビの運動部長であった松根光雄︵後に全日本プロレス社長となる︶は﹁日プロの幹部は常識のある社会人かと思ったが、子供みたいな感覚しかない。こちらが馬鹿負けしたので中継から手を引きました﹂と痛烈に日プロ幹部をこき下ろしている。日本テレビは打ち切り後の当面は力道山、馬場、猪木などの過去の名勝負集などでつなぎ、7月から刑事ドラマである﹃太陽にほえろ!﹄を同枠でスタートさせた。
(20)^ 当時のNETフルネット局はNET、北海道テレビ、毎日放送︵当時はTBS系列ではなかった︶、広島ホームテレビ、瀬戸内海放送、九州朝日放送の6局と少なく、クロスネット局でも金曜20時台はメイン系列の番組をネットしていた地域がほとんどだった上、広島ホームテレビは名目上フルネット局でも金曜20時台をフジテレビの同時ネット枠としてプロレス中継を遅れネットとするなど非正規のクロスネット状態だったため︵このため、NETテレビと毎日放送の番組が系列外ながら資本関係が一部共通していた中国放送や広島テレビ放送に回された例もあった︶、ほとんどの地域は日本プロレス中継が録画中継へ移行することになってしまった。
(21)^ 馬場はこの時点でインターナショナル・ヘビー級王者であったが、馬場は﹁インター選手権︵のベルト︶は自分の血と汗で守ってきたもの、NWAの許可を得て持って出たいと思う﹂と語っていた。これに対して日プロがクレームを付け、大木金太郎にインター選手権へ挑戦させ﹁堂々と防衛をしたうえで出ていくべき﹂とのスタンスをとった。日プロ幹部としては馬場が翻意しないため、セメント・マッチに強い大木との試合を組み、制裁目的の試合を画策していたとみられる。しかし、馬場は無用な諍いを避ける形でタイトルマッチも拒否して、インター選手権を返上した。
(22)^ 日本プロレスはフリッツ・フォン・エリックら大物外国人選手やアメリカのプロモーターに対し、全日本プロレスへの協力をしないよう圧力をかけ、実際にエリックのダラスルートからの招聘が不可となったり、日本プロレスのブッキングを担当していたミスター・モトも当初は全日本への協力を約束していたが直前になり全日本への協力を断るなどの影響は出たが、馬場がアメリカでの武者修行時代に選手やプロモーターとの信頼関係が構築出来ていたことや、日本テレビが全面的にバックアップする姿勢を見せたこと、さらにアメリカで発言力の強かったドリー・ファンク・シニアが全日本に協力する姿勢を示し、エリックも結果的に全日本に協力したため、日プロによる招聘ルートの妨害は不完全な形で効果を得なかった。
(23)^ 当時、日本テレビは後楽園ホールとの間で年間スタジオ契約を結んでおり、形式上は日本テレビが借りた会場で全日本プロレスを招聘して試合中継を行うという形にしていたため、日本プロレスが使用不可の圧力を掛けることが出来なかった。
(24)^ このような選手との間に契約書が存在しなかった団体は日本プロレス以外にも、後のジャパンプロレス︵所属選手は参戦していた全日本プロレスや日本テレビとの契約は存在していたが、一方でジャパンプロレスとの間では契約書を交わしていない︶やW★INGプロモーションなどの例でも散見され、これらの団体でも選手の離脱を食い止められず、団体崩壊の一因にもなっている。
(25)^ 都城大会が国際が10月2日、日プロが10月7日に、札幌大会が国際が11月1日、日プロが11月29日、名古屋大会が日プロが11月21日、国際が11月27日にそれぞれ開催。
(26)^ 後述の通り、坂口の新日本合流後は猪木と﹁黄金タッグ﹂と呼ばれる名コンビを結成しているが、この時点では猪木と坂口の関係は良好ではなく、前出の新日設立時のユセフ・トルコによる引き抜き未遂の経緯、さらに猪木除名会見の時に坂口は大木ら選手会とともに猪木追放の祝杯をあげていた事や、猪木はスポーツ紙を通じて﹁馬場なんか3分で片づけてやる。坂口は片手で3分︵で片づける︶﹂と挑発し、坂口もこれに反発するなどむしろ険悪な状態であったが、日プロの経営状態や視聴率悪化を憂いたNETの関係者が、海外から帰国して日プロに参戦していたマサ斎藤︵猪木とは共に東京プロレスに参加し、坂口は同じ明治大学のOBという共通点から白羽の矢が立った︶を仲介役とし、極秘裏に会談の席を設けている[38]。
(27)^ 高千穂、松岡は社長である芳の里の弟子でもあったことから、窮地を救うため急遽渡米先から帰国して参戦したとされる。
(28)^ また、坂口に対しても3月2日の横浜文化体育館で行われた対ジョニー・バレンタインのUNヘビー級選手権戦で、日本プロレスの幹部が﹁特別ボーナス﹂でバレンタインを焚き付けて、坂口に対する制裁目的のセメントマッチを画策していた。しかし、バレンタイン側はこれに応じず、試合では坂口が敗れてUN王座からは陥落したものの、日本プロレス幹部や残留組が期待していた制裁マッチにはならなかった。バレンタインが応じなかった要因として、既に日本プロレスを離脱していた猪木が事前にバレンタインと極秘裏に接触し、坂口離脱の経緯をバレンタインに説明していたことも背景にあった[41]。
(29)^ この最終戦で坂口は猪木より、自身がかつて控室で待ち伏せされ襲撃されそうになった経験を踏まえ、﹁控室に行くな。若いのを自家用車に乗せて新日本プロレス道場に来い﹂とアドバイスを受けており、坂口派は大木派と別行動を取った上で自家用車で移動し、控室で待ち伏せされ襲撃される事を憂慮し会場の控室ではなく興行が行われた佐野市内のビジネスホテルを控室代わりに使用し、着替えた後に会場へ向かい、自分たちの試合が終了した直後に、この日のメインマッチであったバレンタインVS高千穂を見届けることなく自家用車でビジネスホテルへ一旦戻った後、新日本プロレス道場へ直行した。その際、到着が深夜にもかかわらず、山本小鉄や藤波辰巳が出迎えたという。
(30)^ 日プロ移籍組のうち、全日本の興行の宣伝ポスターに掲載されていたのは大木金太郎と高千穂明久だけであった。また、選手のギャランティーは日プロ在籍時と異なり、試合の出場について対価が支払われる方式であったとされる。このため、大木や高千穂以外の試合出場機会が少ない旧日プロ合流組は金銭的な影響も受けており、機転を利かせたグレート小鹿は馬場の運転手を買って出て、糊口をしのいでいた。
(31)^ 契約を途中で解除して新日本や国際へ移籍することも不可。日本テレビに無断で新日本や国際に出場もしくは移籍した場合は契約違反となった。
(32)^ 旧日プロの選手たちは、仲介者から今回の移籍は日プロと全日本との対等合併による移籍であり、両者は対等の立場であると言われていたが、実際は﹁吸収合併﹂であり、あからさまに差をつけられたことに対しての不満があったとも言われている。特に上田・松岡は過去のクーデター事件の経緯や、松岡の個人的な所業に悪評が出ていたこともあり、馬場により﹁リストラ要員﹂と目されており、マッチメイク面などで冷遇されていた[46]。
(33)^ 上田によれば最終参戦となった蔵前国技館大会で、元日プロレフェリーの沖識名の引退セレモニーが行われたが、全日本サイドが売上から沖に餞別を一切渡さなかった事への義憤︵代わって上田や松岡が沖に餞別を渡したとされる︶もあったとされ、一説では上田と松岡は馬場を国技館内の暗がりに呼び出し、待遇への不満を吐いたうえで馬場を殴打したとされている。
(34)^ 上田と共闘関係にあったシャチ横内を信用するかどうかを巡って口論となり、対立したとされる[47]。
(35)^ 安達は﹁ミスター・ヒト﹂として日本人ヒールレスラーで活躍し、その後は交通事故でリタイア状態となった大剛鉄之助に代わってカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに定着参戦し、後にブッカーとして国際・新日本・全日本といった団体とカナダからの選手招聘や、日本人選手︵橋本真也、馳浩、獣神サンダー・ライガーなど︶の海外修行の受け入れ先として多大な影響を持つ事となった。
(36)^ 戸口はアメリカでヒールレスラーとして活躍し、日本でも師弟関係となっていた大木金太郎と共闘する形で各団体に参戦しており、1979年にはザ・ファンクスが仲介する形で全日本プロレスに入団したが、短期間で新日本プロレスに転戦するなど、国内外各団体に参戦している。
(37)^ 初代王座決定トーナメントを制した力道山が初代王者になるが、力道山の一代限りで実質的に封印されている。後にチャンピオンベルトは力道山︵百田家︶から離れて所在不明になったが、テレビ東京の番組﹁開運!なんでも鑑定団﹂に所有者からチャンピオンベルトが出品されたことにより、再び注目されてチャンピオンベルトは所有者の承諾を得てWARの日本J1王座に借用していた。後に借用していたチャンピオンベルトは所有者に返却された。
(38)^ 予選リーグの結果、各陣営で同点選手が発生した場合でも日本人の対決は行われなかった。第13回︵1971年︶の﹁ワールドリーグ戦﹂では、予選リーグで日本人陣営は馬場と猪木、外国人陣営はザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーがそれぞれ同点で並んだが、決勝進出者決定戦は馬場対ブッチャー、猪木対デストロイヤーの対戦となり、仮にいずれの試合も︵無得点試合などの︶引き分けになった場合は、馬場対デストロイヤー、猪木対ブッチャーと対戦相手を変えて組まれる事となっていた。馬場対猪木の対決はこれらでも決着が付かなかった場合の最終的な決定手段とされていた。
(39)^ この12月2日に行われたインターナショナル選手権のあと、力道山は12月6日に名古屋市金山体育館にて、豊登と保持したアジアタッグ選手権の防衛戦を行っている︵vsザ・デストロイヤー&バディ・オースチン︶。このアジアタッグ防衛戦は金曜20時の枠で生中継され、ゆえにこの中継に制作協力した名古屋テレビ放送は、社史に一貫して﹁力道山最後のテレビ中継は名古屋テレビが担当した﹂という旨を記している。ただし実際には、翌週12月13日にも金曜22時30分の枠で力道山出場の6人タッグマッチが放送され︵力道山&グレート東郷&吉村道明vsイリオ・デ・パオロ&バディ・オースチン&ザ・デストロイヤー︶、12月20日は力道山追善興行︵豊登vsバディ・オースチン︶が生中継されたものの、12月27日は﹁力道山想い出の奮戦集﹂、そして明けて1964年1月3日に、前出の12月2日のインターナショナル選手権試合が、関係者︵豊登・松尾和子・川島正二郎︶による座談会も交えて録画放送されたことから、放映順としては12月2日のインターナショナル選手権の方が﹁力道山最後のテレビ中継﹂ということになる。
出典[編集]
- ^ ホワイティング『東京アンダーワールド』角川書店 P101
- ^ ホワイティング『東京アンダーワールド』角川書店
- ^ 元プロレスラー・坂口征二(4)ジャイアント馬場との対抗戦実現 社長として東京ドーム満員に
- ^ 『日本プロレス事件史 Vol.12』P72
- ^ a b c d e 『日本プロレス事件史 Vol.12』P70
- ^ 『日本プロレス70年史 昭和編』P90・94より。
- ^ 『日本プロレス70年史 昭和編』95より。
- ^ 『日本プロレス事件史 Vol.12』P73
- ^ 『日本プロレス事件史 Vol.18』P45 - P50
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P70-71より。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P72-73より。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P76-77より。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P74-75より。
- ^ 『日本プロレス事件史 Vol.8』P39
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P68-69より。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P82-85より。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P92より。
- ^ 『プロレス醜聞100連発!!』P98 - P99
- ^ 『昭和40年男10月号増刊昭和プロレス大全』P22
- ^ ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.12 P10より。
- ^ 『新日本プロレス30年史 闘魂伝証』P6・7より。
- ^ 「小鹿さんが日本刀をコートの懐に忍ばせて…」アントニオ猪木の付き人だった藤波辰爾が明かした、新日本旗揚げの“壮絶な舞台裏 - Number Web 2022年3月1日
- ^ ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.12 P6-P7より。
- ^ a b 『日本プロレス事件史 Vol.2』P18
- ^ 《日プロ崩壊への序章》「会社が決めたことだ」ジャイアント馬場が迫られた“苦渋の選択”…最古参プロレスジャーナリストがみた“独立決意”の瞬間 - 文春オンライン 2021年11月4日
- ^ 『日本プロレス70年史 昭和編』P125より。
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- ^ 日本テレビぶちぎれ!日プロの裏切り行為でプロレス中継打ち切り【坂口征二連載#20】 - 東スポnote 2022年12月21日
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