杉原長房
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杉原長房 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正2年(1574年) |
死没 | 寛永6年2月4日(1629年2月26日) |
別名 | 弥兵衛、伯耆守(通称) |
戒名 | 花岳院殿心達道無大居士 |
墓所 | 林泉寺(東京都港区三田) |
官位 | 従五位下伯耆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼→徳川家康、秀忠、家光 |
藩 | 但馬豊岡藩主 |
氏族 | 杉原氏 |
父母 | 父:杉原家次、養父:浅野長政 |
兄弟 | 雲照院(木下家定室)、長房 |
妻 | 正室:栄雲院(浅野長政娘) |
子 | 重長、長俊[1]、女(北条氏重正室)、女[2](船越永景正室)、女(松平忠晴正室)、女(堀親昌正室)、女[3](浅野高英室)、女(竹中重常正室)、女(青山幸通[4]継室)、女(上田重安[5]正室) |
杉原 長房︵すぎはら ながふさ︶は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣秀吉の一門衆。豊後国杵築城主から但馬国豊岡亀城主に転じて、豊岡藩初代藩主となった。
経歴[編集]
天正2年︵1574年︶、羽柴秀吉︵豊臣秀吉︶の家老・杉原家次の長男として近江国小谷で生まれた[6]。秀吉の妻・北政所︵高台院︶の従弟にあたる。姉に木下延俊や小早川秀秋らを生んだ雲照院がいる。 幼くして両親とは離れ浅野長政に育てられており[6]、のち長政の娘を娶る。天正12年︵1584年︶の父・家次の死去により、家督を継いだと思われるが、定かではない[7]。家次が預かっていた坂本城主には長政がなっている。 天正14年︵1586年︶より秀吉に仕えて、摂津の西代・尻池の地[8]を与えられた[6][7]。 天正17年︵1589年︶、従五位下伯耆守に叙任された[6][7]。文禄元年︵1592年︶の文禄の役では肥前名護屋城に駐屯した[7]。文禄2年︵1593年︶閏9月12日、3,000石を加増される[7]。 慶長元年︵1596年︶、坂本[9]から豊後国速見郡へ移封されて、杵築城︵木付城︶主とされた[7]。 慶長2年︵1597年︶には但馬国豊岡城︵亀城︶へ移封され、播磨三木城の城代を兼ね、知行は3万石︵城崎郡2万石、美含郡内1,000石、気多郡内1,000石、常陸小栗庄5,000石、近江内1,000石︶[7]。慶長3年︵1598年︶8月の主君・秀吉が死去すると、遺物金15枚を受領した。 慶長4年︵1599年︶正月、秀吉の子・豊臣秀頼に伺候[7]。同年2月、播磨三木郡の代官を務めた[7]。 慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、細川幽斎が守る丹後田辺城を攻めたが、東軍に内通し[6]、浅野長政の婿かつ北政所の従弟にあたることからか、戦後も所領を安堵された[7]。詳細は「田辺城の戦い」を参照
慶長16年︵1611年︶に舅の長政が死去すると、遺言によって常陸小栗庄5,000石を分与された[6]。
慶長19年︵1614年︶の大坂冬の陣では酒井忠世の組︵徳川秀忠旗本衆︶に属して従軍。翌慶長20年︵1615年︶の夏の陣でも同じ組で、首級19を挙げた[6]。
寛永6年︵1629年︶、56歳で死去、跡を長男の重長が継いだ。