京極高厚
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京極高厚 | |
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京極高厚像 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政12年5月29日(1829年6月30日) |
死没 | 明治38年(1905年)12月27日[1] |
改名 | 錦三郎、鑑三郎、鑑吉郎(幼名)、高厚 |
諡号 | 蕉窓 |
官位 | 従五位下・飛騨守、正五位、従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 但馬豊岡藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高行、母:古山氏 |
妻 |
島津忠徹の娘・艶 勝田良彊の養女・登喜 |
子 | 高義ら2男2女 |
京極 高厚︵きょうごく たかあつ︶は、但馬国豊岡藩の第9代︵最後︶の藩主。豊岡藩京極家11代。
略歴[編集]
文政12年︵1829年︶5月29日、第8代藩主・京極高行の長男として江戸麹町邸で生まれる。弘化4年︵1847年︶、父の死去により家督を継ぎ、同時に従五位下、飛騨守に叙任する。嘉永2年︵1849年︶、駿府加番となり、嘉永4年︵1851年︶に大坂加番になった。なお、翌年の嘉永5年︵1852年︶7月まで、泊園書院︵現・ 関西大学︶の藤沢東畡を大坂城に招き、﹃論語﹄の講義を受けた[2]。 文久2年︵1862年︶、幕末の海防政策として、津居山港に御台場を築き、11インチ砲や10貫砲を備えた。文久3年︵1863年︶の生野の変では幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げている。 明治2年︵1869年︶6月23日、版籍奉還により豊岡藩知事となる。 明治3年︵1870年︶、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に努めた[3]。明治4年︵1871年︶7月15日、廃藩置県により知藩事を廃されて東京へ移った。明治17年︵1884年︶、華族令によって子爵となる。明治18年︵1885年︶に正五位に叙され、その後も従三位、勲四等に叙された。明治30年︵1897年︶7月10日、貴族院子爵議員に選出され[4]、明治37年︵1904年︶7月9日まで在任した[1]。 明治38年︵1905年︶12月27日、東京本所邸にて死去した。享年77。 俳人としても優れていたと言われている。系譜[編集]
子女は2男2女- 父:京極高行(1794年 - 1847年)
- 母:古山氏
- 先妻:艶 - 島津忠徹の娘
- 後妻:登喜(1852年 - 1923年) - 勝田良彊の養女、小林文次郎長女
- 次男:京極高義(1874年 - 1923年)
脚注[編集]
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』41頁。
- ^ 京極高厚(きょうごく・たかあつ 1829-1905)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、321頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
参考文献[編集]
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 千田稔『華族総覧』講談社〈講談社現代新書〉、2009年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (豊岡)京極家初代 1884年 - 1905年 |
次代 京極高義 |