村田渚
本名 | 村田 渚(読み同じ) |
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生年月日 | 1971年7月29日 |
没年月日 | 2006年11月11日(35歳没) |
出身地 | 日本・ 大阪府 |
血液型 | O型 |
身長 | 169cm |
言語 | 日本語 |
最終学歴 | 三重県立上野高等学校卒業 |
コンビ名 |
フォークダンスDE成子坂(1989年 - 1999年) 鼻エンジン(2005年 - 2006年) |
相方 |
桶田敬太郎(フォークダンスDE成子坂) 松丘慎吾(鼻エンジン) |
芸風 | コント、漫才 |
立ち位置 | 右(コンビ時代) |
事務所 |
ホリプロ →フリー →オフィス★怪人社(業務提携) →ホリプロコム →ソニー・ミュージックアーティスツ |
活動時期 | 1991年 - 2006年 |
同期 |
よゐこ ナインティナイン など |
過去の代表番組 |
爆笑オンエアバトル 笑いの金メダル |
配偶者 | 未婚 |
公式サイト | 公式プロフィール |
村田 渚︵むらた なぎさ、男性、1971年︿昭和46年﹀7月29日 - 2006年︿平成18年﹀11月11日︶は、日本のお笑い芸人。血液型O型。身長169cm。体重63kg。大阪府生まれ、三重県鈴鹿郡関町育ち、三重県立上野高等学校卒業。ソニー・ミュージックアーティスツ所属。
かつてはホリプロに所属し、お笑いコンビ﹁フォークダンスDE成子坂﹂としてデビュー間もない頃から注目される。解散後はピン芸人として地道な活動を続け、新コンビ﹁鼻エンジン﹂を結成した翌年の2006年11月に急逝した。
お笑いを追求する姿勢や才能は同業者から高い評価を得ていた。
経歴[編集]
高校2年生の時に、中学校の同級生である桶田敬太郎を誘い、コンビを結成する。二人で話し合いながら短時間でネタを作るという形で、三重のホリプロにネタ見せを行っていた。高校卒業後は、新幹線で東京まで毎月お笑いライブに通い、ホリプロお笑い班の研究生としてホリプロに入る。当初はコントと漫才をやっており、漫才をする時は﹁前三ツ﹂︵まえみつ︶というコンビ名を使っていた。 1991年、﹁フォークダンスDE成子坂﹂のツッコミ担当としてデビュー。テレビ朝日系﹃GAHAHAキング 爆笑王決定戦﹄で第2代チャンピオンになり、当時若手としては珍しいほどのスピードで、全国区に名前を売る。その後、フジテレビ系のバラエティ番組﹃タモリのボキャブラ天国﹄に出演し、爆笑問題や海砂利水魚︵現‥くりぃむしちゅー︶、ネプチューンらと共に人気を博した。 1999年、﹁フォークダンスDE成子坂﹂解散後、ホリプロを離れ、2000年から元ピテカンバブーのコトブキツカサと路上トークライブを行なうなどフリーのピン芸人として活動を開始。 しばらくフリーで活動した後、2002年から約1年ほどオフィス★怪人社と業務提携をしていた[1]。その後、ホリプロ系列会社であるホリプロコムに戻るも、2005年3月31日付で再び契約解消となる。 同年5月、元坂道コロンブスの松丘慎吾と新コンビ﹁鼻エンジン﹂を結成し、ソニー・ミュージックアーティスツに所属。結成から程なくしてM-1グランプリ2005に出場し準決勝まで勝ち残った。翌年のM-1グランプリ2006でも3回戦まで勝ち進んだ。突然の死[編集]
2006年11月12日、東京都品川区の自宅マンションで倒れていた所をコトブキツカサによって発見される。発見時、既に息を引き取っていた。所属事務所によると、数日前より松丘など周囲に頭痛などの体調不良を訴えていた。検死により11日未明にクモ膜下出血のため急死していた事が判明。35歳没。戒名は﹁微笑一道居士﹂。生涯独身だった。当時の相方の松丘や元相方の桶田をはじめとした、多くのお笑い芸人や放送作家がその死を惜しみ、関係者らによる追悼記事が次々と寄せられた[2][3]。
最後の出演は2006年12月15日︵16日午前0時より︶の﹃爆笑オンエアバトル﹄。番組の最初と最後のテロップで﹁鼻エンジンの村田渚さんは11月11日に亡くなられました ご冥福をお祈りします﹂と表示された。収録時は出場10組のうち7位とオンエアを勝ち取ることは出来ず、遺族との相談の結果、本来のルール通り放送には至らなかった。爆笑オンエアバトルの公式サイトにも訃報が表示された。
2007年4月3日、﹃とくダネ!﹄の﹁温故知人﹂のコーナーで取り上げられ、母親や三村マサカズ︵さまぁ〜ず︶らのインタビューで構成された内容が放送された。
2018年6月20日には、同じくボキャブラ出身のネプチューン司会の日本テレビで放送された特番﹃ザ・発言X あの言葉で人生が劇的に動いた!!﹄にて、生前親交のあった渡辺徹・榊原郁恵夫妻の息子の渡辺裕太が渚役を演じた再現ドラマが放送された。くりぃむしちゅーや三村、土田晃之︵元U-turn︶、古坂大魔王︵元底ぬけAIR-LINE︶、小峠英二︵バイきんぐ︶、コトブキらのインタビューによって構成されているほか、スタジオに当時ボキャ天の司会を務めていたヒロミ、VTRにBOOMER、ナレーターとして石井正則︵元アリtoキリギリス︶など所縁のある人物が出演した[4]。
2007年に東京メトロ有楽町線千川駅近くにソニー・ミュージックアーティスツのお笑い部門常打ちライブハウスとしてオープンした﹃Beach V﹄は、﹁村田の遺志を継いでいこう﹂というコンセプトの元、村田の村=VILLAGEからV、渚=Beachと村田の名前を由来としている。
詳細は「SMA NEET Project#Beach V」を参照
人物・エピソード[編集]
●歌手の平井堅[注 1]、作家の伊藤たかみらとは高校の同級生。また、松本キック︵松本ハウス︶は高校の3学年先輩。しかし芸歴は村田の方が先輩である。 ●﹁いつかは自分の番組の司会をやりたい﹂と考える芸人が多いとされる中で﹁いつまでも漫才︵コント︶をやっていたい﹂と考えていた。 ●テレビ番組﹁とぶくすり﹂の開始前にMCを依頼されていたが、相方の桶田には声が掛からず村田のみの出演オファーであった事からその誘いを断っている[5]。 ●笑いを追求することで知られ、突っ込みの間の入れ方は、芸人仲間の間で﹁天才﹂と称されたほどである。かつての相方の桶田を太田光︵爆笑問題︶は﹁あいつは天才過ぎて売れなかった﹂と評しているが、村田に対しても﹁渚のツッコミは本当に上手かった﹂と語っている。 ●直属の先輩であった三村マサカズ︵さまぁ〜ず︶は、﹁後輩であり、ライバル﹂﹁俺はいつもお前にダメ出しされて、俺もお前にダメ出しする。弟かな﹂と村田の没後に振り返っている[6][7]。 ●テレビ番組﹁ザ・発言Xあの言葉で人生が劇的に動いた!!﹂にくりぃむしちゅーが出演した際、上田晋也は﹁僕ら世代のトップランナーだったし、センセーショナルだった﹂と語り、有田哲平は﹁笑いに飢えているっていうか。24時間笑いのことを考えてないといけないんだなって、すごく学ばせてもらった﹂と、それぞれ振り返っている[8]。 ●フォークダンスDE成子坂を解散しピンで活動していた頃、ほぼ同時期にコンビを解消していた後藤秀樹︵元シェイクダウン︶にコンビ結成を持ち掛けられ、2001年6月にbaseよしもとを舞台に漫才をした事がある。しかし、村田は吉本入りに抵抗があった事から、正式なコンビ結成には至らなかった[9][10]。 ●ピン芸人時代、島根さだよし︵元ツインカム︶とシアターD主催の若手ライブ﹁なりあがり﹂のMCを担当していた。その際に村田は一度だけ島根に正式なコンビ結成の話を持ち掛けたが、その当時新しく役者事務所への所属が決まってしまっていた島根は身動きが取れず、結成は実現しなかった[11]。 ●小峠英二︵バイきんぐ︶は、晩年の村田と接する機会が多かった。村田の逝去後、自身のブログで﹁初めて事務所のネタ見せで︵鼻エンジンを︶見た時、衝撃を受けた。あの人に面白いと認められたかった。俺はあの人に夢中やった﹂と語っている[12]。 ●瀧上伸一郎︵流れ星︶は、自身がホリプロに在籍していた頃からフォークダンスDE成子坂の二人を慕っており、村田の事を﹁ツッコミの師匠であり、お笑いの鬼だった﹂とブログにて振り返っている[13]。 ●鼻エンジンとしてSMA NEET Projectに在籍していた頃、同じく在籍していた酒井健太︵アルコ&ピース︶が当時組んでいたトリオ﹁ホトトギス﹂のネタを見て、その場に居合わせていた平子祐希︵アルコ&ピース︶に﹁天才やん、こいつ﹂と話しかけた事がある[14]。また、元相方の桶田敬太郎も生前自身のツイッターアカウントにて﹁アルコ&ピース、良い﹃間﹄を持ってるね︵二人とも︶﹂と評した事がある[15]。 ●晩年は弁当配達のアルバイトをしていた。 ●ピン芸人時代、バイク事故で足を粉砕骨折し入院していた事がある[16]。 ●中島忠幸︵カンニング︶は、村田と同じく満35歳で亡くなっている[注 2]。 ●麻雀好きで知られ、村上淳は生前の村田とかつて親交があった事を明かしている[17]。出演番組[編集]
テレビ[編集]
●爆笑オンエアバトル︵NHK︶戦績4勝6敗 最高477KB ●﹁フォークダンスDE成子坂﹂と﹁鼻エンジン﹂としてもオンエアを経験している。3つのユニットで出演し3つ共オンエアを飾っているのは村田が唯一である。 ●100KB台から400KB台まで全て経験しているが、オーバー500とトップ通過は経験できなかった。コンビ時代は両方とも全ての出演がオフエア含めて400KB台である。 ●笑いの金メダルjr. くりぃむ杯︵テレビ朝日系︶ ●さまぁ〜ずと優香の怪しい××貸しちゃうのかよ!!︵テレビ朝日系︶ ●U-CDTV︵TBS系︶ ●笑林寺2︵TBS系︶ ●さまぁ〜ずげりらっパ︵メ〜テレ︶ ●タモリ倶楽部︵テレビ朝日系、2003年2月28日︶ ●﹁俺はあいつと同級生!芸能界同級生ギャップグランプリ!!﹂に出演。 ●イエヤス︵CBCテレビ︶ ●ゼベック・オンライン (TOKYO MX、2004年11月29日)ラジオ[編集]
●木曜Junk さまぁ〜ずの逆にアレだろ︵TBSラジオ、2002年12月26日︶ ●赤坂お笑いD・O・J・O︵TBSラジオ︶ ●BERRY-BOP HIGHSCHOOL︵RADIO BERRY︶ ●コンビで出演していた生放送の番組で、2006年11月10日が最後の番組出演となった。VHS/DVD[編集]
﹁フォークダンスDE成子坂﹂時代 ●フォークダンスDE成子坂LIVE ﹁自縛﹂全6巻︵1 - 5巻と蔵出し︶ ●ボキャブラ天国 公式ビデオ Vol.1〜3 ●ホリプロお笑いライブ芸腕グランプリ1・2 ●ギャグ・ウォーズ2 ピン芸人時代 ホリプロお笑い紅白ネタ合戦 ﹁鼻エンジン﹂時代 ●M-1グランプリ 2005 完全版 〜本命なきクリスマス決戦!“新時代の幕開け”〜 ●群雄割拠!SMAお笑いカーニバル脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ “村田渚”. オフィス★怪人社 旧公式ホームページ (2002年11月5日). 2021年11月6日閲覧。
(二)^ “村田渚さんが作った輪” (2006年11月14日). 2021年5月17日閲覧。
(三)^ “みんなフォークダンスDE成子坂が大好きだった” (2006年11月15日). 2021年5月26日閲覧。
(四)^ “ネプチューンMC特番で村田渚特集、その才能をくりぃむしちゅーや小峠が語る”. お笑いナタリー (2018年6月18日). 2018年12月9日閲覧。
(五)^ “第40回ダイノジ大谷ノブ彦のオールナイトニッポン!”. ダイノジ大谷ノブ彦のオールナイトニッポン 公式サイト (2014年1月9日). 2021年4月20日閲覧。
(六)^ “さまぁ~ず、くりぃむ、ネプが絶賛“伝説の芸人”村田渚さん突然死の新事実とは?”. オリコンニュース (2018年6月18日). 2021年4月13日閲覧。
(七)^ “フォークダンスの村田渚は志半ばで死んだ芸人です。”. 三村マサカズTwitter (2013年11月12日). 2021年4月12日閲覧。
(八)^ “さまぁ~ず、くりぃむ、ネプが絶賛“伝説の芸人”村田渚さん突然死の新事実とは?”. オリコンニュース (2018年6月18日). 2021年4月13日閲覧。
(九)^ “フォークダンスde成子坂の村田渚さんの記事を目にした。”. 後藤秀樹Twitter (2018年6月21日). 2020年8月17日閲覧。
(十)^ “アフターライブ 後藤秀樹と村田渚︵ゲスト︶”. ++むらたや++ (2001年6月9日). 2021年7月13日閲覧。
(11)^ 藤井ペイジ公式YouTubeチャンネル 2021年3月19日配信動画﹁元﹃ツインカム﹄島根さだよしさんに話を聴こう!パート②︻村田渚さんとの約束︼﹂より
(12)^ バイきんぐ小峠の日記﹁見ル前二跳ベ﹂ - 村田渚さん︵2006年11月28日の記事︶
(13)^ 流れ星 瀧上紳一郎オフィシャルブログ﹁イタイのイタイの飛んで行け!!﹂- 11月11日という日︵2008年11月12日の記事︶
(14)^ withnews - ﹁地下ライブ﹂から生まれた芸人たち アルコ&ピースが見つけた境地︵2021年5月13日の記事︶
(15)^ “アルコ&ピース…良い﹃間﹄持ってるね︵二人とも︶”. 桶田敬太郎 Twitter (2014年1月31日). 2021年7月13日閲覧。
(16)^ HEY!たくちゃんオフィシャルブログ﹁ヘイタク﹂ - 村田渚さん。︵2018年6月21日の記事︶
(17)^ “本日の動画アップしたよー!︻相関図︼村上淳プロの交友関係を教えてもらいました!後編”. 麻雀遊戯王イーピンくん 公式Twitterアカウント (2023年5月19日). 2023年5月25日閲覧。
関連項目[編集]
- 実話怪談倶楽部 - フジテレビワンツーネクストで放送されている怪談番組で、「第二十三怪『文字化け』」で、「きつね」の大津が、村田に関する話を放送した。