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東大寺大仏殿の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東大寺大仏殿の戦い

東大寺大仏(大仏、大仏殿ともに江戸時代に修復、再建されたもの)
戦争戦国時代 (日本)
年月日永禄10年(1567年)4月18日-10月11日
場所:東大寺、多聞山城周辺
結果松永久秀軍の勝利
交戦勢力
松永久秀軍
三好義継
三好三人衆
筒井順慶
池田勝正
指導者・指揮官
松永久秀
三好義継
三好長逸
三好政康
岩成友通
篠原長房
池田勝正
別所氏
戦力
不明 三好三人衆、筒井順慶連合軍
20,000
篠原長房、池田勝正増援軍
8,000
損害
不明 300以上

殿1015674181011

[]


7156478156551913

1116

[]


調1118

921715663184463111316

519556

15

61530姿

6861415624
山城、摂津の主な合戦
合戦日付 合戦場所 三好三人衆側勢力 松永久秀側勢力 状況
7月13日 山城小泉城 三好三人衆 松永久秀軍
(城主不明)
占領
7月13日 山城淀城 三好三人衆軍 松永久秀軍
(城主不明)
占領
7月13日 山城勝竜寺城 三好三人衆軍 松永久秀軍
(城主不明)
占領
7月14日 摂津越水城 篠原長房 瓦林三河守 落城
7月25日 摂津伊丹城 篠原長房、池田勝正連合軍 伊丹親興、
塩川満国連合軍
攻囲
8月14日 摂津堀城 篠原長房軍 細川藤賢 落城
8月17日 摂津滝山城 安宅信康、別所連合軍
(別所軍は援軍として到着)
松永久秀軍
(城主不明)
落城
(詳細は滝山城の戦いを参照)
9月5日 摂津伊丹城 篠原長房、池田勝正連合軍 伊丹親興、
塩川満国連合軍
落城

上記2ヶ月に亘る軍事行動によって山城、摂津を統治下に置いた三人衆は、新たな征夷大将軍としようと画策する足利義栄を9月23日に越水城へ入城させ、12月7日には普門寺城へ入城させている。

転機[編集]

翌永禄10年4月6日(1567年5月24日)、松永久秀がいる信貴山城に三好義継が保護を求めてきた。

三好氏の当主という地位は、劣勢下にあった久秀に大義名分を与えるだけの効果を保持していただけに、久秀は当時16歳であった義継を迎え入れた。

戦いの状況[編集]

布陣[編集]


411

41812

424[1]
/60

5211()

5158517西18西

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518宿宿西退使











523524退西退










殿
殿/殿

8259沿退2

[1]500

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61010殿殿()11殿10112殿西()10300宿()殿

1  殿殿殿2[2]

退517殿

[]

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111568629923西93西宿

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[]殿殿[3]( )

11殿141586[4]

1684416872170561709321殿6(1709)殿10(1798)()()殿

10187741915

補説[編集]

木造金剛力士立像(国宝)
延焼を免れた現在の東大寺の鐘楼堂


  • 1988年(昭和63年)から実施された国宝木造金剛力士立像の解体修理で、永禄10年4月24日の夕刻より東大寺の南大門周辺で行われた銃撃戦の物と思われる銃弾が発見された。
  • 松永軍が由緒ある寺院を焼き払っている時、大和は日照りが続いていたようで、これに農家は困惑していた。当時の状況を『多聞院日記』によると、雨が降らないのは「悪業増盛」のためであると記載されている。また、筒井軍の中にも連日の暑さのためか気が緩んだ者がいたらしく、密かに松永軍と通じていた者がおり、順慶自身に断罪される者もいたようである。
  • また久秀が寺院を焼いたのは、陣地として使用されることがないように戦術的な目的で焼き払ったと思われているが、一部松永軍が乱暴した結果焼失した寺もあったようで、これら含め『多聞院日記』の「悪業増盛」との記載に繋がっているとする見方もある。東大寺大仏殿の戦いが続いている中、奈良の各寺社では雨を願う祈祷が行われていたようである。
  • この祈祷降雨の験(げん)があったのか、永禄10年10月8日の夜から9日の朝まで雨が降っていたようで、『多聞院日記』には、後に松永父子が自害する天正5年(1577年)の信貴山城の戦いでは同じ10月10日から翌11日かけて雨が降っていたと記載されているので、「東大寺大仏殿の戦い」も10月8日以後、断続的に雨が降っていたのではないかと思われている。しかし、大和は連日の日照り続き、乾燥していた寺院の火の勢いを弱める程の効果はなかったようである。
  • 阿波公方側史料によると、足利義栄死後の足利義助の上洛行動を小笠原成助に阻止されたことは、三好三人衆にとっては、(成助の義兄弟(姉婿)である)松永久秀に対するこの上ない反発を煽り、その結果南都で戦乱になったとある。

脚注[編集]

  1. ^ a b 戦国合戦史研究会 1989, pp. 167–175.
  2. ^ 今谷 2007, pp. 261–265.
  3. ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
  4. ^ 河内将芳 『秀吉の大仏造立』(法藏館、 2008年) p.19

参考文献[編集]


   19894 

2007338-42 , 99-107 

 200735-10 

 19994104-108 

2004335-37 

 20074 

︿1120097132-142 

[]

外部リンク[編集]