コンテンツにスキップ

高屋城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
高屋城
大阪府
本丸跡(高屋築山古墳を流用している)
本丸跡(高屋築山古墳を流用している)
別名 城山、畠山城
城郭構造 連郭式平山城、台地城
天守構造 なし
築城主 畠山基国畠山義就
築城年 文明 - 明応年間(1469年 - 1501年
主な改修者 三好康長
主な城主 畠山氏安見宗房三好氏
廃城年 天正3年(1575年
遺構 空堀土塁
指定文化財 高屋築山古墳部分が「古市高屋丘陵」として宮内庁治定
再建造物 なし
位置 北緯34度32分56秒 東経135度36分34.621秒 / 北緯34.54889度 東経135.60961694度 / 34.54889; 135.60961694
地図
高屋城の位置(大阪府内)
高屋城

高屋城

テンプレートを表示


[]


31575800m西450m

調[]


301955調100

沿[]


1394 - 1428111479

10305045退

15582155931560

4156151562101567殿111568928

8156541573

2157442[1]3157548[1]

以後、城としては利用されなかったようで、この時に廃城になったと思われる。

高屋城の略年表[編集]

和暦 西暦 高屋城城主 主な出来事
文明11年 1479年 畠山義就 高屋城築城
明応2年 1493年 畠山基家 高屋城の西の口で合戦がおこる
明応6年 1497年 畠山義豊 畠山尚順が高屋城を落城させる
明応9年 1500年 畠山義英 畠山尚順が高屋城を攻城するが、敗退し紀伊国に落ち延びる
永正元年 1504年 畠山尚順 畠山尚順と畠山義英が和睦。高屋城に畠山尚順が入城する
永正3年 1506年 畠山義英 赤沢朝経が高屋城を落城させる
永正4年 1507年 細川政元 永正の錯乱で細川政元が暗殺されると畠山義英が高屋城に入城する
永正5年 1508年 畠山尚順 赤沢長経が高屋城を攻城するが、畠山尚順が撃退する
永正17年 1520年 畠山稙長 畠山義英が高屋城を落城するが、この年再び畠山稙長に落城する
大永2年 1522年 畠山稙長 高屋城が大火によって消失する
享禄元年 1528年 畠山稙長 畠山稙長は柳本賢治と和睦、金胎寺に退く
天文元年 1532年 畠山義堯 飯盛城の戦いで勝利した山科本願寺衆が高屋城も攻め落とす
天文11年 1542年 畠山政国 畠山稙長が攻城し、畠山政国は大和国に落ち延びる(太平寺の戦い
天文16年 1547年 畠山政国 三好実休が高屋城を攻める
天文17年 1548年 畠山政国 舎利寺の戦い三好長慶が高屋城を攻め、畠山政国と和睦する
天文21年 1552年 畠山高政 畠山高政が高屋城の城主となる
永禄2年 1559年 安見宗房 三好長慶が高屋城を落城させ河内国を平定し守護となる
永禄5年 1562年 三好実休 久米田の戦いで畠山高政が三好実休を討ち取り高屋城に入城するが、
教興寺の戦いで敗れると三好康長が高屋城に入城する
永禄11年 1568年 畠山秋高 畠山秋高が河内半国守護となり、高屋城に入城する
天正元年 1573年 畠山秋高 遊佐信教が畠山秋高を殺害し、三好康長も高屋城に入城する
天正3年 1575年 三好康長、遊佐信教 織田信長軍が高屋城を攻城、三好康長が降伏。そして廃城となる。


[]

/49

47m321522()180

[]


7使



[2]

[]


739m調

使

現在の櫓台跡地
高屋築山古墳の北側、不動坂付近にある土塁跡

三の丸、櫓台、土塁、堀[編集]


10西15m30m8m1980調





城跡へのアクセス[編集]

諸国古城古市城絵図/浅野文庫所蔵

脚注[編集]

  1. ^ a b 谷口克広:織田信長家臣人名辞典第2版p477
  2. ^ 竹井英文『戦国の城の一生―つくる・壊す・蘇る―』(吉川弘文館、2018年)48-49頁

参考文献[編集]

  • 『図説中世城郭事典』第二巻、新人物往来社、1987年6月、23頁。
  • 『高屋城とその周辺-羽曳野市の中世を考える-』羽曳野市教育委員会、1995年11月、2頁-7頁。
  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、120頁-123頁。
  • 前田航二郎『大阪府の古城砦-藤井寺市・羽曳野市編-』城郭文庫、1974年7月、10頁-15頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]