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松平 斉善︵まつだいら なりさわ︶は、江戸時代後期の大名。福井藩15代藩主[注釈 1]。官位は正四位下・左近衛権中将。12代将軍・徳川家慶の異母弟。
文政3年︵1820年︶9月24日、11代将軍・徳川家斉の二十二男として江戸城にて誕生。天保6年︵1835年︶閏7月11日、松平斉承の養子となり、従四位上・少将上座に叙任する。8月28日に養父の跡を受けて家督を相続する。同年10月28日、正四位下・少将に叙任する。実父でもある将軍・家斉の偏諱を拝領し斉善、また越前守を名乗る。天保8年︵1837年︶8月25日には左近衛権中将に進む。生来病弱であったと伝わり、天保9年︵1838年︶4月に江戸を出立し、初入国を果たすが、その直後の7月27日[注釈 2]に19歳で急死した。
死去の時点で嗣子がなく、本来ならば断絶するところであったが、兄・家慶の計らいと先代藩主・斉承の正室・松栄院︵浅姫・家慶異母妹︶の働きかけにより、従弟の慶永︵田安徳川家当主徳川斉匡の子︶が継ぐこととなった。この時慶永は他家[注釈 3]への養子縁組が決定していたが、9月4日に急遽福井松平家の養子とされた。この手続きの整合性と正当性のため、越前国許からの斉善死去報告の使者は9月2日には江戸に到着していたが、﹁︵国許での︶斉善死去は8月28日。︵だがそれとは知らないまま︶江戸での養子縁組承認は9月4日。国許よりの使者到着は9月6日︵に急使が到着した、とするなら、死亡日付は逆算して8月28日頃が都合がよいという設定︶﹂とされた。
若年のまま死去し、またほぼ江戸在府であったため、藩政にその直接の足跡は少ないが、治世の期間の天保6年12月︵1836年︶には財政難を理由に領地を増やして欲しい、およそ90万両の赤字があると幕府へ届け、助成を仰いでいる。天保8年︵1837年︶に江戸上屋敷を焼失、再建費用として幕府より2万両を貸与されている。また同年8月には不作を理由に1万両を助成され、天保9年︵1838年︶7月初旬には松栄院︵浅姫︶の住居普請のため1万5000両を拝領している。
領内の凶作や火災被害の困窮者に対し、金銭援助や食料配給を行うなどの福祉策を行っている。変わったところでは天保8年︵1837年︶3月、風病流行のため藩主導で祈祷を行い、御札守を領内領民に配布している。
偏諱を受けた人物[編集]
- ^ 一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第13代となる。
- ^ 8月28日、8月24日説あり。
- ^ 伊予松山藩主松平勝善。
越前松平家 福井藩15代藩主 (1835年 - 1838年) |
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北荘藩 |
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福井藩 |
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