浅井得一
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生誕 |
1913年 日本・東京府 |
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死没 | 2003年 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
出身校 | 京都帝国大学文学部卒業 |
浅井 得一︵あさい とくいち、1913年 - 2003年[1]︶は、日本の地理学者︵地理教育︶・軍人。
経歴[編集]
東京生まれ。旧制武蔵高等学校文科甲類を経て、1936年︵昭和11年︶京都帝国大学文学部地理学専攻卒。大学卒業後、すぐに旧制立教中学校の専任教員となり、1941年︵昭和16年︶まで地理と歴史を教えた[2]。 小牧実繁らの大東亜地理学派の一人。戦時下の1942年︵昭和17年︶12月、南方軍情報官としてビルマに赴任、陸軍司政官となる。1944年︵昭和19年︶4月25日、南方軍ビルマ方面軍・磯村武亮参謀副長の示唆を受け、ビルマ国国家主席・バー・モウの暗殺を企てるが、ビルマ兵の警戒により失敗[3]、逮捕されるも日本へ帰される。逃亡中、長く豚小屋に潜んでいたため豚コレラに感染。終生、右腕が不自由で、黒板の板書は利き腕ではない左手で書くので板書には苦労した。 その後、京都大学人文科学研究所嘱託研究員、1960年︵昭和35年︶、﹁日本の都市の人口地理学的研究﹂で、日本大学より文学博士の学位を取得[4]。明治大学農学部講師、日本大学文学部教授、玉川大学文学部教授、国士舘大学文学部教授、日本地理教育学会会長を歴任する。立教大学でも非常勤講師として教え、一般教育の地理学として、﹁人間の地理学﹂というテーマのもと、﹁ヒトとサルはどう違うか﹂から始まり、﹁地球を守ろう﹂で終わる、あえて地理学だけに拘らない、学際的な講義を行った。約2,500名の聴講者がある人気講義となり、これを2回に分けて講義したが、当時の立教大学の全5学部︵法・文・経・社会・理︶の1年生のおよそ5/6が受講する規模であった[5]。著書[編集]
- 『世界地理政治大系 印度』白揚社 1942
- 『印度洋』朝日新聞社・朝日時局新輯 1942
- 『ラングーン・カルカッタ』目黒書店・新世界叢書 1943
- 『首都東京』筑摩書房・中学生全集 1953
- 『日本の国土と生活』岩崎書店・社会科全集 1954
- 『日本地理ものがたり』筑摩書房・小学生全集 1957
- 『世界風俗めぐり』偕成社・絵とき百科 1958
- 『世界の産業 自然を利用する人間』大日本図書・ワールド・ブック 1970
- 『人間の地理学』玉川大学出版部 1972
- 『世界ふしぎ探検』全6巻 小峰書店 1973-1974
- 『たべものの地理』玉川大学出版部 1975
- 『資源の地理』玉川大学出版部 1978 玉川選書
- 『東京地名風土記』産業能率短期大学出版部 1978
- 『ビルマ戦線風土記』玉川大学出版部 1980 玉川選書
- 『わたしたちの日本』全16巻 小峰書店、1984-1985
- 1(ふるさとの山や川)
- 2(ふるさとの海と海岸)
- 3(ふるさとの湖と池)
- 4(ふるさとの気候)
- 5-6(ふるさとの農業と牧畜)
- 7-8(ふるさとの鉱業と工業)
- 9 (ふるさとの林業と水産業)
- 10(ふるさとの商業と交通)
- 11(ふるさとの文化財)
- 12-13(ふるさとの動物)
- 14(ふるさとの植物)
- 15(ふるさとの公害)
- 16(ふるさとの調べかた)
編著[編集]
- 『総合地理事典』編著 明治図書出版 1957
- 『玉川こども百科 66 かんとう』玉川大学出版部共編 誠文堂新光社 1957
- 『玉川こども百科 94 東南アジア』玉川大学出版部共編 誠文堂新光社 1960
- 『玉川児童百科大辞典 18 世界地理』玉川大学出版部共編 誠文堂新光社 1967
- 『郷土の研究事典』編著 小峰書店 1968
脚注[編集]
(一)^ 柴田陽一﹁アジア・太平洋戦争期の戦略研究における地理学者の役割 : 綜合地理研究会と陸軍参謀本部﹂﹃歴史地理学﹄第49巻第5号、歴史地理学会、2007年12月、1-31頁、CRID 1050282810705996672、hdl:2433/154846、ISSN 0388-7464。
(二)^ 浅井 得一﹁50周年記念号﹁日本地理教育学会の歴史と展望﹂﹂﹃新地理﹄第47巻第3-4号、日本地理教育学会、2000年3月、3-43頁、ISSN 1884-7072。
(三)^ ﹃ビルマの夜明け - バー・モウ︵元国家元首︶独立運動回想録﹄p.373
(四)^ 浅井得一﹃日本の都市の人口地理学的研究﹄日本大学︿文学博士 ,報告番号不明﹀、1960年。 NAID 500000446553。
(五)^ 浅井 得一﹁私の地理教育﹂﹃新地理﹄第27巻第4号、日本地理教育学会、1980年3月、1-5頁、ISSN 1884-7072。