浅井美幸
浅井美幸 あさい よしゆき | |
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生年月日 | 1927年8月25日 |
出生地 | 東京都 |
没年月日 | 2009年10月4日(82歳没) |
出身校 |
旧制東京歯科医師専門学校 (現・東京歯科大学) |
所属政党 |
(公明政治連盟→) (公明党→) (公明→) 公明党 |
親族 | 父・浅井亨 |
選挙区 | 大阪府第2区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1967年1月30日 - 1993年6月18日 |
経歴[編集]
1927年8月25日、東京市、現在の東京都新宿区に生まれる[1]。1948年、東京歯科医専︵現・東京歯科大学︶を卒業する。
1967年、公明党の衆議院初進出となる衆院選に旧大阪2区から立候補し、初当選する。国会対策委員長に就任する。
1969年、国対委員長を渡部一郎に譲り退任する。
1970年、公明党委員長の竹入義勝を団長とする第1次公明党中華人民共和国訪問団︵訪中団︶に参加し副団長に就任する。1971年から1972年の田中角栄首相自民党総裁の中国訪問までに第2次、第3次の訪中団として日中間の交渉をおこなう。18年に渡り中央執行副委員長を歴任する。
1989年、リクルート事件に伴う公明党委員長の矢野絢也の明電工事件発覚により、執行部の責任を執って副委員長を辞任し公明党の役職から外れる。
1993年、政界を引退する。
2009年10月4日、肺炎のため死去。82歳没[2]。
人物[編集]
●1998年、竹入が朝日新聞に連載した55年体制の回顧録に対し不満を募らせ、公明党元書記長の市川雄一の主導で二宮、多田、大久保直彦、黒柳明、近江巳記夫、権藤恒夫、長田武士などと竹入批判を行った。
親族[編集]
●父 浅井亨︵歯科医師、参議院議員︶[1]脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
議会 | ||
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先代 正示啓次郎 |
衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長 1972年 - 1973年 |
次代 小濱新次 |