浅田信興
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浅田 信興 | |
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生誕 |
1851年11月5日 武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市) |
死没 | 1927年4月27日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1872 - 1921 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
軍事参議官兼東京衛戍総督 教育総監 第4師団長 第12師団長 |
戦闘 |
西南戦争 日露戦争 |
墓所 | 青山霊園 |
浅田 信興︵あさだ のぶおき、嘉永4年10月12日[1][2]︵1851年11月5日︶ - 1927年︵昭和2年︶4月27日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍大将。男爵。
経歴[編集]
武蔵国入間郡で、川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる[1]。江川英龍の塾にて砲術を学ぶ[1]。明治3年12月︵1871年︶、陸軍兵学寮生徒となる[1]。明治5年︵1872年︶3月、陸軍少尉に任官し歩兵5番大隊付となる[1]。1877年︵明治10年︶、第4旅団に編入し西南戦争に出征[1]。1878年︵明治11年︶10月、陸軍士官学校教官となり、熊本鎮台参謀などを経て、1884年︵明治17年︶3月、陸軍少佐に進級し歩兵第2連隊大隊長に就任[1]。 1885年︵明治18年︶5月、陸軍教導団歩兵大隊長となり、参謀本部陸軍部第2局第2課長、参謀本部第2局員を経て、1888年︵明治21年︶6月から9月まで清国に派遣された[1]。1889年︵明治22年︶5月、歩兵第21連隊第1大隊長となり、1891年︵明治24年︶6月、陸軍中佐に昇進し第3師団参謀となる[1]。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長を歴任し、1894年︵明治27年︶11月、陸軍大佐に進級した[1][3]。 日清戦争には臨時第7師団参謀長[1][2]として動員されたが、戦争終結のため現地に赴くことはなく復員した[要出典]。1896年︵明治29年︶5月、第7師団が編成され初代参謀長に就任[1][3]。東部都督部参謀長を経て、1897年︵明治30年︶9月、陸軍少将に昇進[1][3]。1898年︵明治31年︶10月、歩兵第20旅団長に就任し、歩兵第5旅団長を経て、日露戦争に近衛歩兵第1旅団長として出征[1][2][3][注 1]。激戦の末分水嶺の占領に成功した。1904年︵明治37年︶9月、陸軍中将に進級し近衛師団長に親補され、沙河会戦以降の緒戦に従軍した[1][2][3]。 1906年︵明治39年︶7月6日に久留米第12師団長に転じる[1][2][3]。1907年︵明治40年︶9月、日露戦争の功績により男爵を授けられ華族に列せられる[1][3]。1910年︵明治43年︶8月26日に大阪第4師団長となり、1911年︵明治44年︶9月に教育総監に就任︵~1914年︶[1][2][3]。1912年︵大正元年︶8月、陸軍大将に親任される[1][2][3]。軍事参議官兼東京衛戍総督を経て、最終官職は軍事参議官[3]。1916年︵大正5年︶10月12日、後備役に編入され[5]、1921年︵大正10年︶4月に退役[1]し、1927年︵昭和2年︶に77歳で死去。墓所は青山霊園。 1918年︵大正7年︶から1923年︵大正12年︶、大日本武徳会第7代会長。[要出典]栄典[編集]
位階 ●1891年︵明治24年︶12月28日 - 正六位[6] ●1894年︵明治27年︶12月18日 - 従五位[7] ●1897年︵明治30年︶10月30日 - 正五位[8] ●1902年︵明治35年︶12月10日 - 従四位[9] ●1904年︵明治37年︶12月16日 - 正四位[10] ●1907年︵明治40年︶12月27日 - 従三位[11] ●1912年︵大正元年︶9月10日 - 正三位[12] 勲章等 ●1889年︵明治22年︶11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[13] ●1893年︵明治26年︶11月29日 - 勲三等瑞宝章[14] ●1903年︵明治36年︶5月16日 - 勲二等瑞宝章[15] ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 功二級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章[16] ●1907年︵明治40年︶9月21日 - 男爵 [17] ●1915年︵大正4年︶ ●11月7日 - 金杯一組・大正三四年従軍記章[18] ●11月10日 - 大礼記念章[19] ●1927年︵昭和2年︶4月27日 - 旭日桐花大綬章[20]親族[編集]
●妻 浅田きの 斎藤伊三郎の娘[1] ●養嗣子 浅田良逸︵陸軍中将︶[1] ●娘 中島幸子 中島正武︵陸軍中将︶の妻[1]逸話[編集]
●第5師団歩兵大隊長時代、一戸兵衛、上原勇作と同僚であり、彼らとは気さくに話し合う関係であった。上原が次の教育総監に決まると、引き継ぎの際に大勢の前で﹁次が誰になるか不安だったが、和尚が来たので安心した。﹂と言って周囲を笑わせている。以後、上原の渾名は﹁和尚﹂になってしまった。[要出典] ●森於菟︵森鷗外長男︶の随筆﹃鴎外の母﹄︵﹃父親としての森鴎外﹄所収︶に、 千葉県夷隅郡東海村字日在にあった鴎外の別荘﹁鴎荘﹂に、﹁ある夏祖母︵峰子︶叔父︵潤三郎︶と私、それに小金井家の叔母︵小金井喜美子︶とその長女︵田鶴子︶の居るところへ浅田信興大将が浴衣がけで訪ねられて、しばらく縁に腰かけて祖母と話して行かれた事もあった。﹂とある。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrstuvwx﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、7-8頁。
(二)^ abcdefgh﹃日本陸軍将官辞典﹄24頁。
(三)^ abcdefghij﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄30-31頁。
(四)^ 平塚柾緒﹃写真が記録した日露戦争 日本海海戦﹄学研プラス、2009年10月14日、103頁
(五)^ ﹃官報﹄第1262号、大正5年10月13日。
(六)^ ﹃官報﹄第2551号﹁叙任及辞令﹂1892年1月4日。
(七)^ ﹃官報﹄第3444号﹁叙任及辞令﹂1894年12月19日。
(八)^ ﹃官報﹄第4302号﹁叙任及辞令﹂1897年11月1日。
(九)^ ﹃官報﹄第5833号﹁叙任及辞令﹂1902年12月11日。
(十)^ ﹃官報﹄第6445号﹁叙任及辞令﹂1904年12月22日。
(11)^ ﹃官報﹄第7352号﹁叙任及辞令﹂1907年12月28日。
(12)^ ﹃官報﹄第37号﹁叙任及辞令﹂1912年9月11日。
(13)^ ﹃官報﹄第1938号﹁叙任及辞令﹂1889年12月12日。
(14)^ ﹃官報﹄第3131号﹁叙任及辞令﹂1893年12月5日。
(15)^ ﹃官報﹄第5960号﹁叙任及辞令﹂1903年5月18日。
(16)^ ﹃官報﹄号外﹁叙任及辞令﹂1906年12月30日。
(17)^ ﹃官報﹄第7272号﹁授爵敍任及辞令﹂1907年9月23日。
(18)^ ﹃官報﹄第1187号﹁叙任及辞令﹂1916年7月15日。
(19)^ ﹃官報﹄第1310号・付録﹁辞令﹂1916年12月13日。
(20)^ ﹃官報﹄第99号﹁叙任及辞令﹂1927年5月2日。
参考文献[編集]
●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、東京大学出版会、2005年。 ●福川秀樹﹃日本陸軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2001年。 ●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。関連作品[編集]
●翔ぶが如く︵1990年、演‥小田島隆︶軍職 | ||
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先代 大島久直 |
教育総監 第6代:1911年 - 1914年 |
次代 上原勇作 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 浅田(信興)家初代 1907年 - 1927年 |
次代 浅田良逸 |