渡辺規綱
渡辺規綱 | |
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守綱寺所蔵 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 寛政4年1月8日(1792年2月1日) |
死没 | 明治4年1月18日(1871年3月8日) |
改名 | 豊吉(幼名)→松平乗詮(初名)→渡辺綱久→規綱→兵庫入道 |
別名 | 又日庵中斎(号)、通称:半蔵 |
戒名 | 規綱院殿兵庫入道釈道翁居士 |
墓所 | 愛知県豊田市寺部町の守綱寺 |
官位 | 従五位下、飛騨守、兵庫頭 |
主君 | 徳川斉朝 |
藩 | 尾張藩家老 |
氏族 | 大給松平家→三河渡辺氏 |
父母 | 父:松平乗友、養父:渡辺綱光 |
兄弟 |
松平乗羨、規綱、精中宗室、 畠山国祥正室、筧正隅養女(筧正陽室)、 馬場某室、小野某室 養兄弟:乗尹 |
妻 | 正室:渡辺綱通娘 |
子 | 寧綱、迪綱、益綱、嚴綱 |
渡辺 規綱︵わたなべ のりつな︶は、江戸時代後期の尾張藩家老、茶人。渡辺半蔵家10代当主。
渡辺規綱の墓(豊田市守綱寺)
明治元年︵1868年︶、兵庫頭を辞す。明治4年︵1871年︶1月18日死去、享年80。
生涯[編集]
寛政4年︵1792年︶、三河国奥殿藩4代藩主・松平乗友の次男として江戸で誕生した。享和2年︵1802年︶、叔父で三河寺部領主である渡辺綱光の養子となり名古屋に移る。 文化元年︵1804年︶、養父の隠居により家督を相続。文化5年︵1808年︶、江戸に下って尾張藩10代藩主・徳川斉朝に拝謁し、同年江戸城で11代将軍・徳川家斉に拝謁する。文化14年︵1817年︶加判の列に加わる。同年、従五位下・兵庫頭に叙任。文政元年︵1818年︶、加判を免じられ、差控の処分を受ける。 文政2年︵1819年︶、隠居して家督を嫡男の寧綱に譲った。天保6年︵1835年︶、出家して兵庫入道と名乗る。又日庵と号し、茶道等、風流に生きた。実弟の裏千家11代玄々斎精中宗室は、規綱の仲介で尾張藩に出仕し、12代藩主・徳川斉荘の師となった。斉荘は歴代の藩主の中でも特に茶道に熱心で、規綱や玄々斎の影響もあり、それまで有楽流であった尾張家の茶道を裏千家に改めた。 元治元年︵1864年︶、家督を継いでいた孫の綱倫が急死し、生まれたばかりの綱聡が家督相続することなり、曽祖父としてその後見を勤めた。出典[編集]
- 『名古屋市史』