渡部温
渡部 温 | |
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誕生 |
渡部 銈一郎 1837年7月22日(天保8年6月20日) 江戸 |
別名 | 一郎 |
死没 | 1898年8月7日(61歳没) |
墓地 | 谷中霊園(東京都台東区) |
職業 | 英学者、教育者、実業家 |
国籍 | 日本 |
代表作 |
『通俗 伊蘇普物語』(1873年) 『標註 訂正康煕字典』(1887年) |
子供 | 朔(長男)、康三(次男) |
渡部 温 | |
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選挙区 | 牛込区 |
在任期間 | 1882年11月 - 1896年11月 |
選挙区 | 牛込区 |
在任期間 | 1889年6月 - 1892年6月 |
在任期間 |
1889年 - 1892年 1895年 - 1896年 |
牛込区会議員[4] | |
在任期間 | 1889年11月 - 1896年11月28日 |
渡部 温︵わたなべ おん、天保8年6月20日︵1837年7月22日︶ - 明治31年︵1898年︶8月7日︶は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の英学者、教育者、実業家。旧名一郎。姓は渡辺とも表記される[5]。
経歴・人物[編集]
幕臣で漢学者の渡部重三郎の子として江戸に生まれた。銈一郎と名づけられたが、元服時に一郎と改めた。幕臣の父の転勤に従って長崎と下田に住み、洋学を学んだ[6]。幕府の洋書調所︵後に開成所︶で英語を教え、大政奉還の後は幕臣を中心として開かれ、西周を頭取︵校長︶とする沼津兵学校の教授となった︵この頃までは旧名﹁一郎﹂を用い、維新後に﹁温﹂を名乗る︶。 廃藩置県後に東京に戻り、新政府に出仕、大蔵省などを経て東京外国語学校校長などを務めた後、漢学の世界に戻って﹁康煕字典﹂の校訂をほとんど独力で成し遂げた。 その後、実業界に転じ、渋沢栄一等と共に東京製綱株式会社の設立に参画、同社の初代社長となる。また東京瓦斯︵都市ガス普及以前の時代であるが、ガス灯の需要が大きかった︶や横浜船渠の開業にも関係している。 生涯に一度も欧米の土を踏んだことがないにもかかわらず、その語学力は群を抜いており、多くの分野での翻訳実績を作った。地学、軍事、経済︵アダム・スミスに最初に言及した一人と言われる︶などの多方面に及んでいるが、もっとも知られているのが、イソップ物語を翻訳した﹁通俗伊蘇普物語﹂であり、これがベストセラーとなり、修身の教育にも採り上げられたために、﹁イソップで蔵が建った﹂と噂されるほどの財を築いた。多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈[編集]
●明治初年の実質4年足らずの短期間であったが、渡部温は沼津兵学校の教授として幕臣人脈の中心にいた。この時、彼は妻の貞︵旧姓・成澤︶の一家を沼津に呼び寄せ、自邸に住まわせて、自らの長男渡部朔と併せて学問の手ほどきをした。沼津に帯同したのは、貞の父、成澤良作︵知恒、元幕府の工兵指図役︶、良作の長男︵貞の弟︶の成澤知行︵甚平︶︵成沢知行)、その弟の鋠︵しん︶(後の山口鋠︶であった。 ●年長の知行︵甚平、1848-1929 維新時20歳︶は慶應年間に柳河春三の﹁中外新聞﹂のスタッフの一人として活動した後、沼津兵学校に学び、後に陸軍中佐となった。 ●児童であった渡部朔は兵学校の付属小学校に学び、まず農芸化学者としてドイツ留学、お雇い外国人マックス・フェスカの﹁肥培論﹂を翻訳の傍ら欧州の農協・信用組合の金融機能︵ライファイゼン型︶に注目し、政府への提言なども行なうが、後に父を継いで東京瓦斯の役員となり、資産家として名高い。 ●最年少の鋠は沼津時代は学齢以前だったが、後に東京外国語学校︵フランス語︶から陸軍士官学校、陸軍戸山学校に学び、陸軍少佐。養子に出たため姓が﹁山口﹂となる。1902年の﹁八甲田雪中行軍遭難事件﹂の大隊長として責任を問われた﹁山口少佐﹂とは、この山口鋠のことである。 ●渡部・成澤両家が東京に戻った後に生れた温の次男、渡部康三は、東京音楽学校に学び、1901年3月の、瀧廉太郎留学の送別演奏会で、当日唯一人の管楽器奏者としてコルネットを演奏した。また1903年にケーベル博士らの指導で行なわれた日本人最初のオペラ公演、グルック作曲﹁オルフェウス﹂の実現を、主に裏方から支えた。この上演の費用は、実際にはほとんど渡部朔︵温の没後、康三にとっては父親代りの存在︶が出している。さらに台本の翻訳スタッフだった乙骨三郎は、渡部温の沼津での同僚、乙骨太郎乙の息子であり、二代にわたっての幕臣人脈のつながりが見られる。しかし康三は音楽家としては大成せず、後に造船業に転じている。なお卒業演奏でヴィクトル・ネスラーのオペラ﹁ゼッキンゲンの喇叭手﹂からの一部を採り上げているが、その全幕上演は2006年の瀧井敬子企画による山形県長井市まで実現されなかった。(→cf.瀧井敬子﹁漱石が聴いたベートーヴェン﹂中公新書1735) ●なお、渡部温の妻・貞の妹を通じての義兄弟に羽賀可伝︵前島密の助手として国際郵便制度に貢献するも夭折︶、娘婿には高松豊吉︵化学︶、野坂嘗治︵経済学・貿易論︶などがいる。著作[編集]
訳書 ●﹃陸軍 士官必携﹄ 無尽蔵、1867年︵慶応3年・全10冊︶ Patrick Leonard MacDougall. The Theory of War. の翻訳。 ●Aesop, James Thomas, 渡部温﹃通俗伊蘇普物語﹄渡部温、1875年。 NCID BN08347200。全国書誌番号:41015688。 Thomas James. Aesop's Fables, 1848. および George Fyler Townsend. Aesop's Fables, 1868. の抄訳。 ●﹃改正増補 通俗伊蘇普物語﹄ 渡部温、1888年12月 ●吉野作造編輯代表 ﹃明治文化全集 第十四巻 翻訳文芸篇﹄ 日本評論社、1927年10月 / 明治文化研究会編 ﹃明治文化全集 第二十二巻 翻訳文芸篇﹄ 日本評論社、1967年11月 / 明治文化研究会編 ﹃明治文化全集 第十五巻 翻訳文芸篇﹄ 日本評論社、1992年10月、ISBN 4-535-04255-1 ●海後宗臣編纂 ﹃日本教科書大系 近代編第一巻 修身︵一︶﹄ 講談社、1961年11月 ●谷川恵一解説 ﹃通俗伊蘇普物語﹄ 平凡社︿東洋文庫693﹀、2001年9月、ISBN 4-582-80693-7 編書 ●﹃標註 訂正康煕字典﹄ 無尽蔵書房、1887年4月︵全17冊︶ ●﹃標註訂正 康煕字典﹄ 講談社、1977年11月、ISBN 4061210335 ●﹃康煕字典考異正誤﹄ 渡部温、1887年9月︵上下巻︶ ●﹃康煕字典考異正誤﹄ 井田書店、1943年7月脚注[編集]
(一)^ ﹃東京府史 府会篇 第一巻﹄ 東京府、1929年7月、184頁。
(二)^ 東京市会事務局編輯 ﹃東京市会史 第一巻﹄ 東京市会事務局、1932年8月、131-133頁、343-344頁。
(三)^ ﹃牛込区史﹄ 東京市牛込区役所、1930年3月、214頁。
(四)^ 前掲東京市牛込区役所、214-217頁。
(五)^ 戸籍および谷中霊園の墓碑銘は﹁渡部﹂だが、沼津時代のいくつかの記録、また次男康三の東京音楽学校関連の資料のかなりの部分が﹁渡部﹂ではなく﹁渡邊﹂と表記されている。この﹁渡邊﹂表記を踏襲している研究文献も見られるが︵例えば山川出版社刊﹃日本史小辞典﹄の中外新聞の項には、執筆者の一人として﹁渡辺一郎﹂と表記されている︶、実際に通称として通っていたものかどうかは不明である。
(六)^ 戸塚武比古、﹁渡部温略伝 -初期一英学者の歩んだ道﹂﹃英学史研究﹄ 1983年 1984巻16号 p.33-50, doi:10.5024/jeigakushi.1984.33, 日本英学史学会。
参考文献[編集]
●片桐芳雄﹁幕末明治の洋学者・渡部温(一郎)覚え書(1)﹂﹃愛知教育大学研究報告 教育科学﹄第32号、愛知教育大学、1983年1月、61-79頁、ISSN 0587260X、NAID 120002381633。 ●片桐芳雄﹁幕末明治の洋学者・渡部温(一郎)覚え書(2)﹂﹃愛知教育大学研究報告 教育科学﹄第33号、愛知教育大学、1984年1月、41-54頁、ISSN 0587260X、NAID 120002381635。 ●片桐芳雄﹁幕末明治の洋学者・渡部温(一郎)覚え書(3)﹂﹃愛知教育大学研究報告 教育科学﹄第34号、愛知教育大学、1985年2月、33-47頁、ISSN 0587260X、NAID 120002381636。 ●樋口雄彦著 ﹃沼津兵学校の研究﹄ 吉川弘文館、2007年10月、ISBN 978-4-642-037808関連文献[編集]
●松崎実 ﹁通俗伊蘇普物語解題﹂︵前掲 ﹃明治文化全集 第十四巻 翻訳文芸篇﹄︶ ●堤美智子 ﹁旧幕府御家人渡部温の出版 : 英文及び和訳﹃伊蘇普物語﹄について﹂﹃花園大学文学部研究紀要﹄第45号、2013年3月、p.69-87, NAID 110009574879︶外部リンク[編集]
公職 | ||
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先代 広運学校長 植村長 |
長崎英語学校長 1874年 - 1875年 長崎外国語学校長 1874年 広運学校長 1874年 |
次代 水野遵 |
先代 (新設) |
長崎師範学校長 1874年 - 1875年 |
次代 小川駒橘 |