神尾光臣
神尾光臣 | |
生誕 |
1855年2月27日(安政2年1月11日) 日本・信濃国諏訪郡岡谷村 |
死没 |
1927年2月6日(71歳没) 日本・東京府東京市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1874年 - 1917年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
東京衛戍総督 青島守備軍司令官 第18師団長 第9師団長 歩兵第22旅団長 近衛歩兵第3連隊長 |
戦闘 |
西南戦争 日露戦争 第一次世界大戦(青島の戦い) |
墓所 | 雑司ヶ谷霊園 |
神尾 光臣︵かみお みつおみ、1855年2月27日︵安政2年1月11日︶ - 1927年︵昭和2年︶2月6日︶は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、青島守備軍司令官、第9師団・第18師団長等を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。第一次世界大戦での青島攻略の指揮を執ったことで有名。
経歴[編集]
信濃国諏訪郡岡谷村︵現・岡谷市︶に諏訪藩士・神尾平三郎の次男として生まれ、1874年︵明治7年︶10月、陸軍教導団に入る。1876年︵明治9年︶2月、教導団を卒業し陸軍歩兵軍曹に任官。1877年︵明治10年︶1月から西南戦争に従軍し、7月曹長、10月少尉試補に進級する。1879年︵明治12年︶2月1日、西南戦争の戦功により陸軍少尉に進み、1882年︵明治15年︶4月には陸軍中尉を命ぜられる。同年7月から参謀本部出仕の身分で清国に渡る。1885年︵明治18年︶8月、陸軍大尉に進級し、1886年︵明治19年︶2月に帰国する。同年4月、歩兵第11連隊中隊長を拝命し、1888年︵明治21年︶5月、参謀本部出仕に移り、1889年︵明治22年︶12月から参謀本部第2局員となる。1891年︵明治24年︶12月、陸軍少佐に昇進し、歩兵第1連隊付となる。 1892年︵明治25年︶4月28日から後の駐在武官にあたる清国公使館付を拝命する。1894年︵明治27年︶8月17日に帰国し同年10月から第2軍情報主任参謀として日清戦争に出征する。1895年︵明治28年︶1月、陸軍中佐に進級し、同年6月2日から再び清国公使館付となる。1897年︵明治30年︶10月11日、陸軍大佐進級と共に近衛歩兵第3連隊長を命ぜられる。 1899年︵明治32年︶2月には参謀本部出仕の身分でヨーロッパに出張する。1900年︵明治33年︶4月、第1師団参謀長に就任し、同年7月の参謀本部付を経て、1901年︵明治34年︶2月、第10師団参謀長を命ぜられる。1902年︵明治35年︶5月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長を命ぜられる。1904年︵明治37年︶8月、遼東守備軍参謀長に就任し、1905年︵明治38年︶6月から大本営附を命ぜられ、同月中に清国駐屯軍司令官を拝命する。1906年︵明治39年︶11月、関東都督府参謀長に移る。1907年︵明治40年︶11月、近衛歩兵第1旅団長を経て、1908年︵明治41年︶12月、陸軍中将に進級、第9師団長に親補される。 1912年︵大正元年︶12月、第18師団長に移り、第一次世界大戦では1914年︵大正3年︶に青島攻略を指揮しこれを攻略、同年11月から青島守備軍司令官となる。1915年︵大正4年︶5月、東京衛戍総督を命ぜられ、1916年︵大正5年︶6月、陸軍大将に進む。同年7月歴戦の功から男爵の爵位を授けられ華族に列せられる。同8月待命となり、1917年︵大正6年︶8月6日依願により予備役編入[1]。1921年︵大正10年︶4月の予備役を経て1925年︵大正14年︶4月に退役する。1927年︵昭和2年︶2月6日薨去。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。栄典[編集]
- 位階
- 1895年(明治28年)6月8日 - 正六位[2]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[3]
- 1902年(明治35年)9月20日 - 正五位[4]
- 1907年(明治40年)10月11日 - 従四位[5]
- 1909年(明治42年)11月30日 - 正四位[6]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 従三位[7]
- 1916年(大正5年)7月10日 - 正三位[8]
- 1927年(昭和2年)2月6日 - 従二位[9]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1904年(明治37年)11月29日 - 勲三等瑞宝章 [13]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功二級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[14]
- 1912年(明治45年)5月24日 - 勲一等瑞宝章[15]
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)7月14日 - 男爵[18]
- 1919年(大正8年)12月15日 - 戦捷記章[19]
- 外国勲章佩用允許
- 二等赤鷲勲章[20]
- 1908年(明治41年)10月30日 - 頭等第三品御賜双竜宝星[21]
- 1909年(明治42年)
- 10月26日 - フランツ・ヨーゼフ勲章大十字章[22]
- 12月15日 - 一等聖スタニスラウス勲章[23]
- 1915年(大正4年)9月30日 - 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス[24]
親族[編集]
- 妻のまつ(1863年生)は江崎政国(元松本藩士、のち会計局役人)の長女
- 長女の愛(1887年生)は八十島樹次郎の妻。
- 次女安子(1889年生)は作家の有島武郎に嫁ぐ。
- 長男神尾毅一(1892年生)が1931年(昭和6年)死去したため、神尾家は有島武郎の三男行三が継いだ。
- 三女龍子(1904年生)は多湖實夫の妻。
脚注[編集]
(一)^ ﹃官報﹄第1505号、大正6年8月7日。
(二)^ ﹃官報﹄第3582号﹁叙任及辞令﹂1895年6月10日。
(三)^ ﹃官報﹄第4302号﹁叙任及辞令﹂1897年11月1日。
(四)^ ﹃官報﹄第5767号﹁叙任及辞令﹂1902年9月22日。
(五)^ ﹃官報﹄第7288号﹁叙任及辞令﹂1907年10月12日。
(六)^ ﹃官報﹄第7932号﹁叙任及辞令﹂1909年12月1日。
(七)^ ﹃官報﹄第126号﹁叙任及辞令﹂1912年12月29日。
(八)^ ﹃官報﹄第1183号﹁叙任及辞令﹂1916年7月11日。
(九)^ ﹃官報﹄第33号﹁叙任及辞令﹂1927年2月10日。
(十)^ ﹃官報﹄第3578号﹁叙任及辞令﹂1895年6月5日。
(11)^ ﹃官報﹄第3671号﹁叙任及辞令﹂1895年9月21日。
(12)^ ﹃官報﹄第3824号・付録﹁辞令﹂1896年4月1日。
(13)^ ﹃官報﹄第6426号﹁敍任及辞令﹂1904年11月30日。
(14)^ ﹃官報﹄号外﹁叙任及辞令﹂1906年12月30日。
(15)^ ﹃官報﹄第8679号﹁叙任及辞令﹂1912年5月27日。
(16)^ ﹃官報﹄第1067号﹁叙任及辞令﹂1916年2月24日。
(17)^ ﹃官報﹄第1310号・付録﹁辞令﹂1916年12月13日。
(18)^ ﹃官報﹄第1187号﹁叙任及辞令﹂1916年7月15日。
(19)^ ﹃官報﹄第2903号﹁叙任及辞令﹂1922年4月10日。
(20)^ ﹃陸軍現役将校同相当官実役停年名簿﹄︵明治45年7月1日調︶11コマに記載
(21)^ ﹃官報﹄第7607号﹁叙任及辞令﹂1908年11月2日。
(22)^ ﹃官報﹄第7906号﹁叙任及辞令﹂1909年10月26日。
(23)^ ﹃官報﹄第7950号﹁叙任及辞令﹂1909年12月22日。
(24)^ ﹃官報﹄第950号﹁叙任及辞令﹂1915年10月1日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 神尾(光臣)家初代 1916年 - 1927年 |
次代 神尾毅一 |