藤原宗能
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藤原宗能 | |
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時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 応徳2年(1085年) |
死没 | 嘉応2年2月11日(1170年2月28日) |
別名 | 宗隆(本名)、中御門内大臣 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原宗忠、母:藤原行房の娘 |
妻 |
藤原為隆の娘、藤原長実の娘 藤原敦雅の娘、藤原仲実の娘 |
子 | 頼衡、宗親、尊誉、玄壽、宗家、成能、光能、頼輔、宗命、宗縁、宗隆、宗覚、寛宗、玄修、能忠、藤原季行室 |
藤原 宗能︵ふじわら の むねよし︶は、平安時代後期の公卿。本名は宗隆。藤原北家中御門流、右大臣・藤原宗忠の長男。官位は正二位・内大臣。中御門内大臣と号した。
経歴[編集]
永長2年︵1097年︶叙爵。左兵衛佐・近衛少/中将等の武官や、堀河・鳥羽両天皇の蔵人を経て、大治5年︵1130年︶蔵人頭に任ぜられる。天承元年︵1131年︶参議に任ぜられ公卿に列す。天承2年︵1132年︶従三位、長承3年︵1134年︶権中納言、保延5年︵1139年︶正三位次いで従二位に叙される。崇徳朝において、極官は権中納言かつ天皇の外戚でもないにもかかわらず、政治に強い影響力を持ち﹁わきの関白﹂の異名で呼ばれた[1]。 康治2年︵1143年︶正二位、久安5年︵1149年︶権大納言。保元元年︵1156年︶には、重篤となっていた鳥羽法皇に対し、その死後予想される兵乱に備えるよう奏上した[2]。実際に、同年7月の鳥羽法皇崩御後まもなく保元の乱が発生している。同年9月大納言に昇進したのちは、摂関家の近衛基実・松殿基房兄弟や閑院流の三条公教・徳大寺公能らに大臣の座を巡って次々と先を越されるが、応保元年︵1161年︶77歳にして内大臣に任ぜられる。長寛2年︵1164年︶子息の宗家の正三位叙位と引き替えに内大臣を辞任する。 仁安3年︵1168年︶6月12日出家。人物[編集]
有職故実に明るく、その教えを受けていた九条兼実は日記﹃玉葉﹄の中でに宗能の死を惜しんでいる[3]。また、催馬楽の名手でもあり、声が非常に美しかったという[1]。日記に﹃中内記﹄がある。 物事の道理に明るく、はっきりした性格であったという[1]。逸話[編集]
﹃今鏡﹄に宗能が有職故実に詳しかったことを示す逸話がある。
●崇徳天皇が成人して、初めて五節の帳台の試みに出御する際、出御自体が非常にまれであったことから、その際に着る指貫の模様が何であるか、蔵人がはっきりわからず不安に思っていたところ、当時蔵人頭であった宗能は﹁霰地に窠の文﹂であると滞りなく答えたという[1]。
系譜[編集]
●父‥藤原宗忠 ●母‥藤原行房の女 ●妻‥藤原為隆の女 ●男子‥藤原頼衡 ●男子‥藤原宗親 ●男子‥尊誉︵?-?︶ ●男子‥玄壽 ●妻‥藤原長実の女 ●男子‥藤原宗家︵1139-1189︶ ●男子‥藤原成能 ●妻‥藤原敦雅の女 ●男子‥藤原光能 ●男子‥藤原頼輔 ●妻‥藤原仲実の女 ●男子‥宗命 ●男子‥宗縁 ●生母不明 ●男子‥宗隆 ●男子‥宗覚 ●男子‥寛宗 ●男子‥玄修 ●男子‥能忠︵?-1169︶ ●女子‥藤原季行室︵?-1193︶脚注[編集]
参考文献[編集]
- 竹鼻績『今鏡 (中)』講談社学術文庫、1984年
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