藤原定信
藤原 定信 | |
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時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 寛治2年(1088年) |
死没 | 保元元年1月18日[1](1156年2月10日) |
官位 | 従四位下、宮内権大輔 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家世尊寺流 |
父母 | 父:藤原定実、母:源基綱の娘 |
兄弟 | 定信、永意、藤原伊通室 |
妻 | 不明 |
子 | 伊行、定行、信覚、増意 |
藤原 定信︵ふじわら の さだのぶ︶は、平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。官位は従四位下、宮内権大輔。
定信の書
元永2年︵1119年︶32歳の時、父定実が出家すると、能書として様々な書役を務めた。天治元年︵1124年︶摂政の上表文を、大治4年︵1129年︶に法勝寺千僧御読経の願文や、太政大臣の上表を書いた。康治元年︵1142年︶には大嘗会屏風の筆者となるなど、多くの墨跡を今日に伝えている。
大治4年から仁平元年︵1151年︶の23年間をかけて、一切経全5048巻を独力で書写した[2]。書写を終えた後、春日大社でこれを供養し、多武峰で出家、法名を生光とした。この一筆一切経の偉業を成し遂げたのは、日本の歴史上定信と宗像大社の色定法師の二人だけである。﹃本朝世紀﹄によると、院宮諸家がその偉業を讃え、たくさんの贈り物をしたという[3]。翌年、定信が左大臣藤原頼長の家を訪ねた際、頼長は手を洗い、口をすすぎ、衣装を整え、まず定信に礼拝してから談話したという。しかし、奉納した春日大社で起きた火災で全て焼失してしまい、現存しない。
鑑識にも長じており、保延6年︵1140年︶10月22日、小野道風書の﹃屏風土代﹄︵三の丸尚蔵館蔵︶と藤原行成書の﹃白楽天詩巻︵高松宮家本︶﹄︵東京国立博物館蔵︶を入手し、﹃屏風土代﹄は延長6年︵928年︶11月、道風35歳の書であること、﹃白楽天詩巻﹄は寛仁2年8月21日、行成47歳の書であることを鑑定し、それぞれの奥書きに記している。今日、道風や行成の書風が分かるのは、この定信の鑑定によるところが大きい。
書風は祖父・藤原伊房の影響が強いことが、当時から﹃今鏡﹄で指摘されており[4]、代表作の﹁金沢本万葉集﹂も伊房筆﹁藍紙本万葉集﹂の書風に似ている。しかし、定信の方が一筆一切経の経験からか、運筆が早く軽快で緩急抑揚の変化が大きい。強い右肩上がりの書風で、﹁定信様﹂と呼ばれた。定信は西行と和歌の贈答をしたことが﹃山家集﹄に見えはするものの、歌人ではなかった。そのため、定信は当時一流の能書家でありながら、古筆の筆者としては尊重されず、多くは藤原公任の書跡とされて伝来している。
糟色紙 個人蔵 重要美術品
●金沢本万葉集
加賀金沢の前田家に伝来したことから﹁金沢本﹂と呼ばれる﹃万葉集﹄。前田育徳会所蔵の巻第三の断簡2枚と、巻第六の断簡5枚を合わせた1帖は国宝。明治43年︵1910年︶明治天皇が前田邸に行幸した際、同家より巻第二の大部分に当たる58枚と第四の20枚を合綴した1帖が献上され、現在は三の丸尚蔵館所蔵。他に巻第四と第六の断簡が数葉伝存し、﹁金沢切﹂と呼ばれる。書風から、定信30代、元永・保安年間︵1118-23年︶の書写と見られる。
●定信和漢朗詠集切
昭和初年、石川家の秘庫から出たもので、その奥書きに﹁同日未刻染筆申時終切定信﹂の自署があるので、定信の真跡と決定された。詩句と和歌を大きく散らし書きにしている。書風は雄健高雅で、連綿も自然で、筆端には才気が溢れており、円熟した晩年の書と推測されている。京都国立博物館の断簡は重要文化財[1][2]。
●西本願寺本三十六人家集のうち﹁貫之集下︵石山切として分割された︶﹂﹁順集︵糟色紙・岡寺切︶﹂﹁中務集﹂
西本願寺他、東京国立博物館[3][4]や根津美術館[5]、細見美術館などに分蔵。和泉市久保惣記念美術館のものは重文。
順集は32頁は西本願寺に残るが、桃山時代から江戸時代初期に一部︵9枚36頁︶が抜き取られ、伝藤原公任﹁岡寺切﹂﹁糟色紙﹂と呼ばれる。両者の違いは、破り継ぎのある断簡を﹁糟色紙﹂、それがなく一紙のものを﹁岡寺切﹂と称し区別することによる。﹁岡寺切﹂の名は飛鳥の岡寺に伝来したことによると言われ、現在9面の伝存が確認されている[5]。
●詩書切[6]︵和漢朗詠集︶
伝藤原行成筆。一巻。東京国立博物館蔵。冷泉為恭旧蔵品で、明治14年︵1881年︶古筆了仲から購入した。伝源俊頼筆の安宅切と同じ巻に組まれている。天仁頃の定信の若書きと見られる。
●戊辰切︵和漢朗詠集のうち上巻﹁女郎花﹂の段と巻下︶
一橋徳川家旧蔵品。﹃和漢朗詠集﹄を上下二巻に書写した巻物を、昭和3年︵1928年︶分割したもの。その年の干支にちなんで﹁戊辰切﹂と名付けられた。筆跡から定信筆との見方が強い。ただ、上巻は息子の伊行の筆だが、当時の慣習では親が上巻を、子が下巻を書くのが普通で、逆になることは異例である。そのため、定信の書に学んだ人物を想定する意見もある。東京国立博物館[7]や五島美術館、徳川美術館などに分蔵。
●砂子切本兼輔集切
上記の西本願寺本とは別の三十六人歌集が書写されており、﹁別本三十六人歌集﹂などと呼ばれている。そのうちの﹁兼輔集﹂は、石山切と同筆であり定信の手と分かる。東京国立博物館[8][9]や根津美術館などに分蔵。西本願寺本より練度が高く、後書きと見られ、およそ大治︵1126年︶頃の作だと推定される。
●法華経︵戸隠切︶
戸隠神社に伝来したことからこの名で呼ばれている法華経の一部。もとは法華経八巻がセットになっていたと推定されるが、現在は戸隠神社に3巻分が巻子本で所蔵され︵重文︶、ほかは断簡として書東京国立博物館[10]などに諸家分蔵。料紙は具引して、一行八基の宝塔を雲母摺りし、その一基一基に経文が書かれている。
●久能寺経の譬喩品︵鉄舟寺︶国宝
●般若理趣経
書芸文化院春敬記念書道文庫蔵。1巻。久安6年︵1150年︶
●金紙金字宝塔経切
など。
経歴[編集]
筆跡[編集]
系譜[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 井垣清明ほか編著 『書の総合事典』 柏書房、2010年 ISBN 978-4-7601-3571-4
- 島谷弘幸 『日本の美術519 和様の書』 ぎょうせい 2009年 ISBN 978-4-324-08728-2
- 『徳川美術館新館開館二十周年記念 秋季特別展 王朝美の精華・石山切 ─かなと料紙の競演─』展図録、徳川美術館、2007年
- 春名好重 『書の古代史』 新人物往来社 1987年 ISBN 4-404-01439-2
- 古谷稔編 『日本の美術180 平安時代の書』 至文堂 1981年
- 春名好重編著 『古筆大辞典』 平凡社、1979年
- 飯島春敬 『書道辞典』 東京堂出版、1975年
- 木村卜堂編著 『日本と中国の書史』 社団法人 日本書作家協会発行 1971年
- 常石英明著 『古書画の鑑定と観賞』 金園社 1970年