裲襠
裲襠︵りょうとう、うちかけ︶とは、古来、儀式の時に武官が礼服の上に着用した貫頭衣型の衣服[1]。中央にある穴に頭・首を通す形となり、胸部と背部に当てて着用し、上から帯を締める。類似した衣装を舞楽でも使用し、舞楽装束の一つも指す[1]。
走り舞﹁抜頭﹂での毛縁裲襠︵氷室神社例祭 夕座舞楽︶
舞楽装束で着る裲襠は舞の種類で大別でき、1つは剣や盾、武器類を持って舞う﹁武の舞﹂[3]で着る金襴縁、もう1つは軽快なリズムで走るように舞う﹁走り舞︵走り物︶﹂[4]で着る毛縁の2つが代表的である。
(一)金襴縁︵きんらんべり︶は、錦の生地に縁取りは金襴をほどこす。主に武の舞で使用するが、曲によっては唐獅子などの文様で飾った蛮絵装束となり、裲襠は用いない。
(二)毛縁︵けべり︶は錦か唐織の生地に、縁取りは生糸や麻糸を束ねた房飾りを囲むようにめぐらす。元々は毛皮を縁に付け加えていたが、時代の経過と共に房飾りの装飾が定着したと見られている[2]。主に走り舞で使用する。
概要[編集]
﹃令義解﹄には裲襠について記載があり﹁謂、一片当背、一片当胸、故曰︵ゆえにいう︶裲襠也。﹂と記され、現代の様式と大きくは変わっていない。裲襠はいわゆる貫頭衣で、主に長方形に仕立てた布帛類の中央に空白を作り、そこに頭を通して着る衣服のことである。平安時代中期の漢和辞書である﹃和名類聚抄﹄では訓読みで﹁うちかけ﹂としている。 本来は上半身を保護する目的で着用する衣服、次いで上半身に身に付ける鎧のような防具類であったが、次第に威儀を示す趣向を持ち、刺繍をほどこしたり錦︵にしき︶を用いる衣装に発展したと考えられている[2]。律令[編集]
﹃養老律令﹄の衣服令では﹁衛府の督佐は繍︵ぬいもの︶の裲襠、兵衛督の督佐は雲錦の裲襠を位襖︵いおう︶の上に加える﹂とあり、続いて﹁会集の日などには、衛府の督佐は錦の裲襠を位襖の上に加える﹂といった規定をしている[2]。 天皇行幸の際は、近衛府に属する駕輿丁︵かよちょう、鳳輦を担ぐ役割の者︶も単衣の衣服である布衫︵ふさん︶の上に布製の裲襠を着用した。舞楽[編集]
美術品[編集]
平安時代末期の﹁扇面法華経冊子﹂、鎌倉時代の﹁春日権現験記絵巻﹂には、裲襠装束を身に着け舞に興じる様子が描かれている。 ●紺地二重蔓牡丹唐草模様金襴裲襠︵東京国立博物館蔵︶重要文化財指定 高野山天野社︵現‥丹生都比売神社︶が所有していた裲襠。墨書銘に﹁永和四年︵1378年︶三月十六日﹂とあり、金襴は元 (王朝)後期の品を輸入して製作したと見立てられている。南北朝時代の現存品。 ●紺地金襴牡丹模様裲襠︵東京国立博物館蔵︶ 高野山天野社︵現‥丹生都比売神社︶が所有していた童子用の装束。墨書銘に﹁永和四年︵1378年︶三月十六日﹂とありその年代の裲襠ともされるが、後の享徳3年︵1454年︶に新調した多量品の一つとの見解もある[5]。いずれにしても14世紀 - 15世紀、室町時代の現存品となる。保存状態が良く、工芸や服飾史の資料と価値が高い[5]。 ●還城楽裲襠 舞楽装束︵東京国立博物館蔵︶ 江戸時代の現存品。走り舞の﹁還城楽﹂で使用した裲襠。 ●貴徳裲襠 茶地丸文唐草模様唐織︵東京国立博物館蔵︶ 江戸時代︵19世紀︶の現存品。走り舞の﹁貴徳﹂で使用した裲襠。脚注[編集]
- ^ a b 大辞林 第三版「裲襠(りょうとう)」 三省堂 2015年10月16日閲覧
- ^ a b c 日本大百科全書「裲襠(りょうとう)」 小学館 2015年10月16日閲覧
- ^ デジタル大辞泉「ぶ‐の‐まい(武の舞)」 小学館 2015年10月16日閲覧
- ^ 大辞林 第三版「はしりまい(走り舞)」 三省堂 2015年10月16日閲覧
- ^ a b 「舞楽装束類, 天野社伝来(美術工芸品, 和歌山県)」 国指定文化財データベース 2015年10月17日閲覧
関連項目[編集]
- 納曽利 - 走り舞