諏訪忠誠
諏訪 忠誠 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政4年5月8日(1821年6月7日) |
死没 | 明治31年(1898年)2月19日 |
改名 | 鍈太郎(幼名)→忠誠 |
墓所 | 東京都文京区本駒込の吉祥寺 |
官位 | 従五位下、因幡守、従四位下、侍従兼因幡守、従三位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府若年寄、寺社奉行、老中 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜 |
藩 | 信濃諏訪藩主 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 |
父:諏訪忠恕 母:烈(清昌院、松平定信の娘) |
兄弟 | 忠誠、頼図、頼威 |
妻 |
正室:侃(貞鏡院、松平乗寛の娘) 継室:達(松平康任の娘) 継々室:雄(瓊芳院、朽木綱条の娘) |
子 |
直子(諏訪忠礼正室)、娘(鳥居成善室)、晴子(諏訪忠元正室) 養子:忠礼、忠元 |
諏訪 忠誠︵すわ ただまさ︶は、江戸時代末期の譜代大名、老中。信濃諏訪藩第9代藩主[1]。
諏訪忠誠
生涯[編集]
文政4年︵1821年︶、諏訪忠恕の長男に生まれる。天保11年︵1840年︶、父の隠居に伴い家督を相続した。外祖父の松平定信は忠誠の人となりを見て、将来有望であると太鼓判を押した。その予想通り万延元年︵1860年︶に若年寄、文久2年︵1862年︶に寺社奉行、元治元年︵1864年︶には老中に就任する。 同年、武田耕雲斎率いる水戸天狗党︵総勢1000人の浪士︶は京を目指し、10月20日には諏訪藩領内の和田峠を越えようとさしかかった。幕府は諏訪藩と隣の松本藩に出兵を命じ、諏訪・松本両藩2000人は和田峠で迎撃をしたが、藩兵は6名の犠牲者を出し、突破されている。 老中在任中の慶応元年︵1865年︶、将軍・徳川家茂が長州征討のため出陣するのに強く反対し、同じ立場だった長岡藩主の牧野忠恭とともに老中職を罷免された。 慶応4年︵1868年︶5月24日に隠居し、養嗣子とした甥の忠礼に家督を譲った。同年の戊辰戦争では諏訪高島藩は新政府方に加わり、幕府方と交戦している。 明治4年︵1871年︶4月、東京に移住した。明治11年︵1878年︶10月、忠礼の死去により家督を再び相続した。明治17年︵1884年︶7月、子爵の爵位を授かった。 明治31年︵1898年︶に死去した。家督は娘婿の忠元︵溝口直溥の十四男︶が継いだ。その後、忠元の娘千賀子の婿に仙石政固の五男︵庶子)を迎えて諏訪忠久として襲爵し、娘広子は商人植村伝助︵植村秀の父︶の妻となった[2]。年譜[編集]
※日付=旧暦。但し、明治6年以降は新暦。 ●1821年︵文政4年︶、誕生。 ●1835年︵天保6年︶12月15日、従五位下因幡守に叙任。 ●1840年︵天保11年︶11月5日、家督相続し、高島藩主継承。 ●1860年︵万延年︶6月1日、若年寄就任。 ●1861年︵文久元年︶8月11日、若年寄辞職。 ●1862年︵文久2年︶10月9日、寺社奉行就任︵時に奏者番廃止により兼務無し︶。11月11日、若年寄に異動再任。 12月18日、勝手掛及び外国御用取扱兼務。 ●1864年︵元治元年︶6月18日、若年寄御役御免。6月29日、老中格に異動。 7月23日、老中に異動。 9月1日、従四位下に昇叙。因幡守如元。 10月13日、外国御用取扱兼務。 11月10日、侍従兼任。 ●1865年︵慶応元年︶4月19日、老中免職。 ●1868年︵慶応4年︶5月、隠居。 ●1874年︵明治7年︶、東京都港区芝公園鎮座の芝東照宮祠官就任。 ●1878年︵明治11年︶7月、東京都港区芝大門鎮座の芝大神宮祠官就任。 ●1879年︵明治12年︶6月、芝大神宮祠官辞任。 ●1882年︵明治15年︶4月、芝大神宮祠官再任。 ●1884年︵明治17年︶7月8日、子爵授爵。 ●1889年︵明治22年︶11月、芝大神宮祠官辞任。 ●1891年︵明治24年︶2月、長野県諏訪市鎮座の諏訪神社︵現今の諏訪大社︶宮司就任。 ●1893年︵明治26年︶12月、諏訪神社宮司辞任。 ●1895年︵明治28年︶8月、芝大神宮社司就任。 ●1897年︵明治30年︶5月、芝大神宮社司辞任。 ●1898年︵明治31年︶、死去、享年77。家族[編集]
父母 ●諏訪忠恕︵父︶ ●烈、清昌院 ー 陸奥国白川藩主松平定信の娘︵母︶ 妻 ●侃、貞鏡院 ー 三河国西尾藩主松平乗寛の娘︵1番目の妻︶ ●達 ー 石見国浜田藩主松平康任の娘︵2番目の妻︶ ●雄、瓊芳院 ー 丹波国福知山藩主朽木綱条の娘︵3番目の妻︶ 子女 ●諏訪直子︵直姫︶ ー 諏訪忠礼正室 ●諏訪延子 ー 鳥居成善[3]室 ●諏訪晴子 ー 諏訪忠元正室 養子栄典[編集]
脚注[編集]
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (高島)諏訪家初代 1884年 - 1898年 |
次代 諏訪忠元 |