諏訪頼忠
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諏訪 頼忠 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文5年(1536年)[1] |
死没 | 慶長11年8月11日(1606年9月13日)[1] |
別名 | 伊勢宮丸[1]、小太郎[2][1](通称) |
戒名 | 永明院殿光山宗瑚大居士 |
墓所 | 長野県茅野市茅野上原の頼岳寺 |
官位 | 従五位下、安芸守[2][1] |
主君 | 武田信玄→勝頼→徳川家康 |
藩 | 上野総社藩主 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪満隣[1] |
兄弟 | 頼豊、頼清、頼忠 |
妻 | 正室:向山氏 |
子 | 頼水、頼定、頼雄、頼広(大祝家)、頼盛 |
諏訪 頼忠︵すわ よりただ︶は戦国時代から江戸時代初期の武将。信濃諏訪藩の基礎をきずいた。
生涯[編集]
武田家家臣時代[編集]
この節の出典:[3][4] 信濃国諏訪氏の一族。天文11年︵1542年︶6月、諏訪氏の当主で頼忠の従兄にあたる頼重は、甲斐国の武田信玄の諏訪侵攻で自害する。 父・満隣は、高遠頼継・矢島満清らが諏訪大社上社の諏訪大社大祝︵おおほうり︶の簒奪を画策すると、これに対して頼重の遺児・千代宮丸︵虎王丸、又は長岌︶を擁立した。その後、満隣の動向は不明[5]。満隣の子では頼忠のほか頼豊・頼辰もそれぞれ武田家に仕えている[5]。 諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが頼高は天文11年︵1542年︶に殺害され、﹃当社神幸記﹄によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている[1][注釈 1]。﹃当社神幸記﹄によれば、天文16年︵1547年︶1月11日時点で﹁頼忠﹂を名乗っている[1]。永禄7年︵1564年︶7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して信玄から祈祷を依頼されている[1]。永禄8年︵1565年︶12月・永禄9年︵1566年︶には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力している[1]。天正6年︵1578年︶・天正7年︵1579年︶には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている[1]。 天正10年︵1582年︶、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城︵旧城︶に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領を回復した。[2]北条家家臣時代[編集]
信濃の混乱︵天正壬午の乱︶に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[2]北条氏政に接近し、再起を図ろうとした。しかし同年12月、酒井忠次、小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて、和睦[2]の形で臣従する事となる。徳川家家臣時代[編集]
翌天正11年︵1583年︶3月に諏訪郡を所領として安堵された[2]。 天正18年︵1590年︶、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い諏訪を離れ、武蔵国比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2,000石の所領を与えられた。文禄元年︵1592年︶には上野国総社に所領を移された。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いでは、頼水が諏訪勢を率いて出陣し、頼忠は江戸城の留守居役を務めた[2]。 この戦功により、慶長6年︵1601年︶10月に諏訪氏は旧領である信濃国諏訪高島2万7,000石へ移封となり、頼忠は再び諏訪の地を踏んだ。 没年は慶長11年︵1606年︶とされるが、慶長10年︵1605年︶とする説がある。系譜[編集]
父母 ●諏訪満隣︵父︶ 正室 ●理昌院 ー 向山氏 子女
●諏訪頼水 - 長男。生母は理昌院。大名諏訪家を継ぐ。
●諏訪頼定
●諏訪頼雄 - 四男。生母は理昌院。大名諏訪家の家老家となる。
●諏訪頼広 - 諏訪大社大祝家となる。
●諏訪頼盛 - 家臣。
●高梨甚平 - 家臣。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 頼忠は流浪したとする説もある。