賀陽親王
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賀陽親王 | |
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賀陽親王(『前賢故実』より) | |
時代 | 平安時代初期 |
生誕 | 延暦13年(794年) |
薨去 | 貞観13年10月8日(871年11月23日) |
別名 | 高陽親王 |
官位 | 二品大宰帥 |
父母 | 父:桓武天皇、母:多治比真宗 |
兄弟 | 平城天皇、朝原内親王、長岡岡成、伊予親王、良岑安世、嵯峨天皇、淳和天皇、葛原親王、大宅内親王、高津内親王、万多親王、高志内親王、明日香親王、仲野親王、佐味親王、坂本親王、賀陽親王、布勢内親王、葛井親王、安勅内親王、賀楽内親王、菅原内親王、甘南美内親王、伊都内親王、他 |
子 | 道野王、忠貞王、利基王、忠範王 |
賀陽親王︵かやしんのう︶は、桓武天皇の第十皇子。官位は二品・大宰帥。高陽親王とも記される。
経歴[編集]
嵯峨朝末の弘仁12年︵821年︶四品に叙せられる。淳和朝では弘仁14年︵823年︶治部卿、天長3年︵826年︶中務卿を歴任。天長10年︵833年︶仁明天皇の即位後まもなく三品に叙せられ、承和7年︵840年︶大宰帥、承和15年︵848年︶治部卿に任ぜられる。 嘉祥3年︵850年︶文徳天皇の即位後まもなく弾正尹に任ぜられ、斉衡2年︵855年︶二品に至る。また、同年に大破した東大寺大仏の修造に当たり、貞観3年︵861年︶3月には東大寺大仏修理落成供養会を監修している[1]。 清和朝の貞観2年︵860年︶治部卿に任ぜられる。貞観5年︵863年︶体力の衰えを理由に致仕を願い出るが許されなかった。貞観13年︵871年︶正月に大宰帥を兼ねるが、2月に抗表を行い長く務めていた治部卿を辞す。同年10月8日薨去。享年78。最終官位は二品行大宰帥。逸話[編集]
﹃今昔物語集﹄24巻2話に﹁高陽親王︵かやしんのう︶﹂という名で登場する。高陽親王が建てた京極寺の付近の田は、日照りになると水枯れとなり、農民を悩ませていたため、両手に器をもち、水で器が一杯になると顔に水がかかる仕掛けを細工した身長4尺︵約120cm︶の子どものからくり人形を親王が田に設置したところ、大勢の人が面白がって水を掛けたため、その田は日照りの最中でも水不足になることはなかったとある。官歴[編集]
注記のないものは﹃六国史﹄による。
●時期不詳‥正六位上
●弘仁12年︵821年︶ 正月7日‥四品
●弘仁14年︵823年︶11月13日‥治部卿
●天長3年︵826年︶7月15日‥中務卿。9月‥常陸太守[2]
●天長10年︵833年︶3月6日‥三品
●承和7年︵840年︶ 正月30日‥大宰帥
●承和15年︵848年︶2月14日‥治部卿
●嘉祥3年︵850年︶5月17日‥弾正尹
●斉衡2年︵855年︶ 正月7日‥二品
●貞観2年︵860年︶ 正月16日‥兼常陸太守。2月14日‥治部卿、常陸太守如故
●貞観9年︵867年︶ 正月12日‥兼上野太守
●貞観13年︵871年︶ 正月29日‥兼大宰帥。2月9日‥辞治部卿。10月8日‥薨去︵二品行大宰帥︶
系譜[編集]
●父‥桓武天皇 ●母‥多治比真宗 ●同母兄‥葛原親王 - 子孫は桓武平氏 ●同母兄‥佐味親王 ●生母不詳の子女 ●長男‥道野王︵? - 855年︶[3] ●男子‥忠貞王︵820年 - 884年︶[4] ●六男‥利基王︵822年 - 866年︶[5] ●男子‥忠範王︵? - 880年︶[6]脚注[編集]
参考文献[編集]
- 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
- 森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
- 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年
外部リンク[編集]
- 高陽親王造人形立田中語今昔物語集. 巻第24