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1
江戸歌舞伎と上方歌舞伎
2
歴史
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2.1
興隆の時代
2.1.1
江戸時代中期
2.1.2
幕末から明治時代
2.1.3
鴈治郎の時代
2.2
凋落の時代
2.2.1
戦前の概況
2.2.2
終戦後の混乱
2.2.3
双壽・扇鶴の時代
2.2.4
終焉
2.3
復興の時代
2.3.1
七人の会
2.3.2
仁左衛門歌舞伎
2.3.3
関西で歌舞伎を育てる会
2.3.4
復興へ
2.4
現況
3
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·
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·
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dlib.jp
·
ジャパンサーチ
·
TWL
(
2013年12月
)
上
方
歌
舞
伎
︵
か
み
が
た
か
ぶ
き
︶
(一)
主
に
江
戸
時
代
の
大
坂
と
京
都
を
中
心
に
発
展
し
た
歌
舞
伎
の
型
・
技
法
・
演
出
・
演
技
法
・
演
目
・
劇
壇
な
ど
の
総
称
。
江
戸
の
江
戸
歌
舞
伎
に
対
比
す
る
上
方
歌
舞
伎
︵
か
み
が
た
か
ぶ
き
︶
の
こ
と
を
い
う
。
(二)
主
に
明
治
以
降
、
関
西
の
大
歌
舞
伎
や
そ
の
一
座
・
劇
壇
な
ど
の
総
称
。
特
に
戦
後
昭
和
に
な
っ
て
上
方
で
活
動
す
る
歌
舞
伎
役
者
の
数
が
著
し
く
減
る
と
、
上
方
で
は
も
は
や
複
数
の
座
を
組
む
こ
と
が
で
き
な
く
な
り
、
必
然
的
に
大
看
板
の
役
者
で
も
一
座
す
る
こ
と
を
余
儀
な
く
さ
れ
た
。
こ
れ
を
東
京
の
菊
五
郎
劇
団
・
吉
右
衛
門
劇
団
・
猿
之
助
劇
団
な
ど
に
対
比
す
る
上
方
歌
舞
伎
と
い
う
。
江
戸
歌
舞
伎
と
上
方
歌
舞
伎
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
上
方
歌
舞
伎
は
江
戸
歌
舞
伎
と
と
も
に
歌
舞
伎
の
両
輪
を
な
し
、
江
戸
歌
舞
伎
が
荒
事
と
言
う
勇
壮
な
芸
を
作
り
出
し
た
の
に
対
し
、
和
事
と
よ
ば
れ
る
柔
ら
か
味
の
あ
る
芸
を
形
成
し
て
い
る
。
廻
り
舞
台
や
セ
リ
上
げ
な
ど
の
舞
台
機
構
も
上
方
で
生
ま
れ
る
な
ど
18
世
紀
こ
ろ
は
上
方
歌
舞
伎
の
方
が
進
ん
で
い
た
。
丸
本
物
と
よ
ば
れ
る
人
形
浄
瑠
璃
の
歌
舞
伎
化
し
た
も
の
や
、
石
川
五
右
衛
門
な
ど
天
下
を
狙
う
悪
人
が
大
活
躍
す
る
お
家
騒
動
物
な
ど
の
脚
本
が
多
い
。
筋
は
複
雑
で
喜
劇
的
要
素
が
見
ら
れ
る
。
全
体
的
に
趣
向
に
富
む
が
独
創
性
に
乏
し
く
、
19
世
紀
後
半
の
並
木
五
瓶
以
後
は
、
江
戸
歌
舞
伎
の
四
代
目
鶴
屋
南
北
や
二
代
目
河
竹
新
七
︵
黙
阿
弥
︶
の
よ
う
な
優
れ
た
作
者
は
出
な
か
っ
た
。
こ
の
た
め
今
日
上
演
さ
れ
る
上
方
系
の
歌
舞
伎
の
う
ち
、
丸
本
物
以
外
の
作
品
は
少
な
い
。
わ
ず
か
に
金
澤
龍
玉
作
﹃
渡
雁
恋
玉
章
﹄
︵
雁
の
た
よ
り
︶
、
近
松
徳
三
作
﹃
伊
勢
音
頭
恋
寝
刃
﹄
︵
伊
勢
音
頭
︶
、
奈
川
亀
輔
作
﹃
敵
討
天
下
茶
屋
聚
﹄
︵
天
下
茶
屋
︶
あ
た
り
が
残
る
く
ら
い
で
あ
る
。
以
後
上
方
歌
舞
伎
は
歌
舞
伎
界
の
中
心
か
ら
外
れ
て
ゆ
く
が
、
こ
れ
は
文
化
の
中
心
が
上
方
か
ら
江
戸
へ
移
り
、
江
戸
歌
舞
伎
が
発
展
し
て
い
く
の
と
符
合
す
る
。
演
出
も
上
方
と
江
戸
で
は
異
な
る
。
今
日
上
演
さ
れ
る
丸
本
物
に
は
上
方
式
と
江
戸
式
の
演
出
が
あ
る
。
一
例
を
﹃
仮
名
手
本
忠
臣
蔵
・
六
段
目
﹄
の
勘
平
で
示
す
と
以
下
の
よ
う
に
な
る
。
●
勘
平
の
衣
装
●
江
戸
‥
勘
平
は
水
色
の
絹
の
紋
服
に
着
替
え
る
。
●
上
方
‥
勘
平
は
終
始
猟
師
の
や
つ
し
姿
で
あ
る
。
幕
切
れ
に
お
か
や
が
紋
服
を
肩
に
か
け
さ
せ
る
。
こ
れ
は
、
江
戸
が
勘
平
の
見
た
目
の
美
し
さ
を
強
調
す
る
に
対
し
、
上
方
は
勘
平
は
あ
く
ま
で
猟
師
と
し
て
で
あ
り
、
死
に
臨
ん
で
武
士
に
戻
る
と
い
う
理
屈
で
あ
る
。
●
勘
平
の
切
腹
●
江
戸
‥
勘
平
は
千
崎
と
原
に
問
い
詰
め
ら
れ
、
割
り
台
詞
の
う
ち
い
き
な
り
切
腹
。
●
上
方
‥
千
崎
と
原
に
問
い
詰
め
ら
れ
た
あ
と
、
二
人
が
与
市
兵
衛
の
傷
跡
を
確
認
し
て
い
る
と
き
に
切
腹
。
上
方
は
浄
瑠
璃
の
文
言
﹁
い
す
か
の
嘴
の
く
い
ち
が
い
﹂
を
活
か
し
て
、
無
罪
が
晴
れ
る
直
前
に
死
ぬ
と
い
う
悲
劇
性
を
強
調
す
る
。
●
幕
切
れ
●
江
戸
‥
勘
平
は
手
を
組
み
お
か
や
に
だ
き
か
か
え
ら
れ
て
落
ち
入
る
。
●
上
方
‥
千
崎
・
原
を
見
送
り
に
這
っ
て
い
き
落
ち
入
る
︵
二
代
目
實
川
延
若
の
演
出
︶
。
二
人
に
平
伏
す
る
や
り
方
︵
初
代
中
村
鴈
治
郎
︶
も
あ
る
。
江
戸
の
は
様
式
性
を
重
視
す
る
幕
切
れ
で
あ
る
が
上
方
は
最
後
は
武
士
と
し
て
礼
を
尽
く
す
と
い
う
理
屈
で
あ
る
。
こ
の
よ
う
に
、
合
理
的
、
論
理
的
な
面
が
目
立
つ
が
、
こ
れ
は
町
人
社
会
が
成
熟
し
て
い
た
大
阪
と
い
う
土
地
の
特
色
も
関
係
が
有
る
と
思
わ
れ
る
。
観
客
を
あ
の
手
こ
の
手
で
喜
ば
せ
る
た
め
、
ケ
レ
ン
や
、
即
興
、
そ
の
他
ア
ク
の
強
い
演
出
が
と
ら
れ
た
り
す
る
の
も
上
方
歌
舞
伎
の
特
色
で
あ
る
。
娯
楽
性
に
つ
い
て
は
、
今
日
の
吉
本
新
喜
劇
や
上
方
落
語
な
ど
に
も
同
様
の
傾
向
が
見
ら
れ
る
。
大
正
時
代
に
﹃
神
明
恵
和
合
取
組
﹄
︵
め
組
の
喧
嘩
︶
が
大
阪
で
上
演
さ
れ
た
と
き
、
鳶
と
力
士
の
双
方
の
訴
え
を
す
る
こ
と
で
幕
切
れ
と
な
っ
た
。
そ
の
と
き
﹁
え
え
っ
、
も
う
終
い
で
っ
か
﹂
﹁
何
じ
ゃ
カ
ス
み
た
い
な
も
ん
や
﹂
と
観
客
か
ら
苦
情
が
出
た
。
こ
の
あ
と
裁
き
の
場
が
続
い
て
出
る
と
期
待
し
て
い
た
の
で
あ
る
。
江
戸
で
は
﹁
粋
﹂
と
み
な
さ
れ
る
演
出
が
上
方
で
は
物
足
ら
な
く
見
え
る
の
で
あ
る
。
逆
に
上
方
風
の
演
出
は
江
戸
で
は
く
ど
い
と
み
な
さ
れ
﹁
野
暮
﹂
に
見
え
た
。
三
代
目
中
村
歌
右
衛
門
や
四
代
目
市
川
小
團
次
が
江
戸
の
一
部
の
観
客
に
受
け
入
れ
ら
れ
な
か
っ
た
の
も
こ
の
点
に
あ
っ
た
。
上
方
歌
舞
伎
の
演
出
は
戦
後
衰
亡
し
た
が
、
近
年
、
三
代
目
市
川
猿
之
助
や
四
代
目
坂
田
藤
十
郎
ら
の
努
力
で
再
評
価
さ
れ
て
い
る
。
江
戸
時
代
は
東
西
の
歌
舞
伎
交
流
が
盛
ん
に
行
わ
れ
、
上
方
風
の
演
出
が
数
多
く
江
戸
に
も
た
ら
さ
れ
江
戸
歌
舞
伎
の
栄
養
源
と
も
な
っ
た
。
竹
本
と
呼
ば
れ
る
義
太
夫
の
使
用
、
早
変
わ
り
な
ど
の
ケ
レ
ン
、
現
実
的
な
演
技
な
ど
で
あ
る
。
こ
れ
ら
は
四
代
目
鶴
屋
南
北
、
河
竹
黙
阿
弥
ら
に
よ
り
江
戸
風
の
演
出
が
加
え
ら
れ
た
。
ま
た
、
東
西
の
歌
舞
伎
俳
優
も
し
の
ぎ
を
削
り
合
う
相
手
と
し
て
芸
の
研
鑽
に
勤
め
双
方
の
芸
の
向
上
に
つ
な
が
っ
た
の
で
あ
る
。
上
方
で
は
、
﹁
型
﹂
を
重
視
せ
ず
、
や
り
方
は
自
分
自
身
で
創
意
工
夫
す
る
こ
と
が
大
事
と
い
わ
れ
た
。
江
戸
で
は
様
式
美
の
継
承
が
重
ん
じ
ら
れ
、
教
え
ら
れ
た
と
お
り
に
し
な
い
と
非
難
さ
れ
る
が
、
上
方
で
は
教
え
ら
れ
た
と
お
り
に
す
る
と
工
夫
が
足
ら
な
い
と
非
難
さ
れ
た
。
初
代
中
村
鴈
治
郎
が
同
じ
狂
言
を
毎
日
違
う
形
で
勤
め
る
な
か
、
子
の
二
代
目
鴈
治
郎
︵
当
時
は
初
代
扇
雀
︶
が
父
か
ら
教
え
ら
れ
た
と
お
り
に
﹃
心
中
天
網
島
・
河
庄
﹄
を
勤
め
た
と
き
﹁
何
で
教
わ
っ
た
ま
ま
に
す
る
ん
や
、
お
前
の
工
夫
は
な
い
や
な
い
か
﹂
と
叱
っ
た
事
な
ど
は
、
そ
の
好
例
で
あ
る
。
ゆ
え
に
代
々
の
家
の
芸
は
作
ら
れ
な
か
っ
た
り
途
絶
え
た
り
し
た
。
そ
の
せ
い
か
、
上
方
歌
舞
伎
役
者
の
代
数
も
江
戸
の
そ
れ
に
比
べ
る
と
極
め
て
少
な
い
。
一
方
で
は
、
門
閥
外
か
ら
実
力
で
名
題
に
な
る
例
が
上
方
で
は
多
か
っ
た
。
こ
れ
は
、
﹁
家
﹂
と
格
式
を
重
ん
じ
る
武
士
の
都
の
江
戸
と
実
力
本
位
の
町
人
の
都
大
阪
と
の
違
い
が
影
響
し
て
い
る
と
考
え
ら
れ
る
。
歴
史
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
興
隆
の
時
代
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
江
戸
時
代
中
期
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
八
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
演
じ
る
大
星
由
良
之
助
元
禄
時
代
︵
17
世
紀
後
半
︶
近
松
門
左
衛
門
が
大
阪
道
頓
堀
の
竹
本
座
で
﹃
出
世
景
清
﹄
﹃
曽
根
崎
心
中
﹄
﹃
平
家
女
護
島
﹄
﹃
女
殺
油
地
獄
﹄
な
ど
を
人
形
浄
瑠
璃
と
し
て
発
表
す
る
が
、
そ
れ
ら
は
す
ぐ
歌
舞
伎
化
さ
れ
る
。
初
代
坂
田
藤
十
郎
が
近
松
門
左
衛
門
と
提
携
し
て
和
事
の
芸
を
完
成
さ
せ
た
。
貴
人
が
粗
末
な
町
人
姿
で
馴
染
み
の
遊
女
に
逢
う
と
い
う
﹁
や
つ
し
﹂
が
お
決
ま
り
の
展
開
だ
っ
た
。
ほ
か
、
初
代
嵐
三
右
衛
門
、
女
形
の
心
が
け
を
説
い
た
初
代
芳
澤
あ
や
め
、
大
和
屋
甚
左
衛
門
、
水
木
辰
之
助
な
ど
の
名
優
が
同
時
期
に
活
躍
し
た
。
歌
舞
伎
の
劇
場
は
京
は
四
條
河
原
の
南
座
が
中
心
で
、
大
阪
は
道
頓
堀
に
官
許
の
芝
居
小
屋
が
集
ま
り
大
西
・
中
・
角
・
角
丸
・
若
太
夫
・
竹
田
の
芝
居
小
屋
が
軒
を
並
べ
て
い
た
。
こ
の
う
ち
中
と
角
が
格
の
高
い
大
芝
居
で
、
他
は
そ
れ
よ
り
廉
価
な
値
段
で
見
ら
れ
る
浜
芝
居
︵
中
ゥ
芝
居
︶
だ
っ
た
。
四
條
河
原
、
道
頓
堀
と
も
に
上
方
歌
舞
伎
の
中
心
だ
っ
た
。
18
世
紀
に
入
る
と
歌
舞
伎
は
人
形
浄
瑠
璃
に
人
気
を
奪
わ
れ
る
が
、
そ
の
間
に
﹃
仮
名
手
本
忠
臣
蔵
﹄
、
﹃
菅
原
伝
授
手
習
鑑
﹄
、
﹃
義
経
千
本
桜
﹄
、
﹃
け
い
せ
い
恋
飛
脚
﹄
な
ど
の
人
形
浄
瑠
璃
の
作
品
が
歌
舞
伎
化
さ
れ
た
。
こ
れ
ら
は
義
太
夫
狂
言
あ
る
い
は
新
し
い
表
現
で
は
丸
本
物
と
呼
ば
れ
、
歌
舞
伎
の
重
要
な
演
目
と
し
て
後
世
に
大
き
な
影
響
を
与
え
て
い
る
。
18
世
紀
中
頃
に
は
初
代
瀬
川
菊
之
丞
や
初
代
中
村
富
十
郎
ら
名
女
形
が
所
作
事
を
大
成
し
、
初
代
小
川
吉
太
郎
は
絶
え
て
い
た
和
事
芸
を
再
興
さ
せ
た
。
初
代
並
木
正
三
は
初
代
中
村
歌
右
衛
門
と
提
携
し
て
﹃
宿
無
団
七
時
雨
傘
﹄
﹃
け
い
せ
い
天
羽
衣
﹄
﹃
三
十
石
艠
始
﹄
﹃
桑
名
屋
徳
蔵
入
船
物
語
﹄
な
ど
の
優
れ
た
脚
本
を
作
り
、
舞
台
面
で
は
能
舞
台
同
様
だ
っ
た
破
風
や
大
臣
柱
を
取
り
払
っ
て
舞
台
を
広
げ
、
強
盗
返
、
奈
落
を
活
用
し
た
廻
り
舞
台
や
せ
り
・
宙
乗
り
な
ど
を
編
み
出
し
て
ス
ペ
ク
タ
ク
ル
性
を
強
め
、
演
出
面
で
は
義
太
夫
を
台
本
に
入
れ
る
チ
ョ
ボ
の
採
用
な
ど
の
功
績
を
あ
げ
、
歌
舞
伎
は
息
を
吹
き
返
し
た
。
18
世
紀
後
半
に
は
狂
言
作
者
初
代
並
木
五
瓶
、
役
者
で
は
初
代
嵐
雛
助
の
ほ
か
、
初
代
尾
上
菊
五
郎
や
初
代
澤
村
宗
十
郎
ら
が
江
戸
に
下
り
江
戸
歌
舞
伎
に
大
き
な
影
響
を
与
え
て
い
る
。
三
代
目
中
村
歌
右
衛
門
の
﹁
武
部
源
蔵
﹂
︵
19
世
紀
初
め
︶
幕
末
か
ら
明
治
時
代
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
二
代
目
尾
上
多
見
蔵
﹁
玉
屋
新
兵
衛
﹂
︵
1
8
4
9
年
︶
19
世
紀
か
ら
幕
末
に
か
け
て
、
﹁
兼
ね
る
﹂
役
者
と
呼
ば
れ
た
万
能
選
手
の
名
人
三
代
目
中
村
歌
右
衛
門
や
七
代
目
・
八
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
、
二
代
目
嵐
吉
三
郎
、
ケ
レ
ン
で
売
り
出
し
た
二
代
目
尾
上
多
見
蔵
、
和
事
芸
の
名
人
二
代
目
實
川
額
十
郎
な
ど
の
名
優
が
活
躍
し
た
。
一
方
、
四
代
目
市
川
小
團
次
、
四
代
目
中
村
歌
右
衛
門
、
四
代
目
中
村
芝
翫
の
よ
う
に
江
戸
に
下
っ
て
活
躍
す
る
者
も
多
く
、
役
者
の
質
は
江
戸
に
ひ
け
を
と
ら
な
か
っ
た
。
た
だ
大
芝
居
の
役
者
が
格
下
の
浜
芝
居
に
出
る
よ
う
に
な
っ
て
芝
居
の
品
格
が
低
下
し
た
り
、
有
能
な
狂
言
作
者
が
出
ず
、
演
目
の
内
容
が
同
じ
種
目
の
書
き
換
え
や
浜
芝
居
の
人
気
狂
言
の
上
演
な
ど
で
独
創
性
に
欠
け
、
江
戸
歌
舞
伎
と
の
質
の
差
が
逆
転
す
る
。
歌
舞
伎
評
論
家
の
権
藤
芳
一
は
そ
の
著
書
﹃
上
方
歌
舞
伎
の
風
景
﹄
︵
2
0
0
5
年
、
和
泉
書
院
︶
の
中
で
当
時
の
状
況
を
﹁
安
く
て
面
白
け
れ
ば
よ
い
と
す
る
観
客
、
そ
し
て
狂
言
作
者
、
役
者
、
劇
場
の
い
ず
れ
も
が
、
歌
舞
伎
と
い
う
ド
ラ
マ
に
対
し
て
節
度
を
喪
失
し
た
こ
と
、
上
方
歌
舞
伎
衰
退
の
原
因
で
は
な
か
っ
た
か
﹂
と
分
析
し
て
い
る
。
そ
れ
で
も
明
治
に
入
る
と
名
興
行
師
の
三
栄
と
大
清
が
道
頓
堀
の
芝
居
を
盛
り
た
て
た
。
こ
こ
の
芝
居
小
屋
は
﹁
道
頓
堀
五
座
﹂
と
呼
ば
れ
、
東
側
の
堺
筋
方
面
か
ら
西
に
向
か
っ
て
、
弁
天
座
、
朝
日
座
、
中
座
、
浪
花
座
と
五
つ
並
び
、
歌
舞
伎
や
新
派
、
五
郎
劇
な
ど
が
上
演
さ
れ
て
い
た
。
向
か
い
側
に
は
芝
居
茶
屋
が
軒
を
並
べ
賑
わ
っ
て
い
た
。
役
者
も
名
優
が
集
ま
り
、
上
方
和
事
の
第
一
人
者
初
代
實
川
延
若
は
こ
っ
て
り
と
し
た
芸
風
で
、
ケ
レ
ン
を
得
意
と
し
た
初
代
市
川
右
團
次
は
体
を
張
っ
た
高
度
な
技
芸
を
見
せ
、
新
し
い
歌
舞
伎
を
目
指
し
た
中
村
宗
十
郎
は
東
京
の
舞
台
に
進
出
す
る
な
ど
、
お
の
お
の
大
活
躍
し
て
﹁
延
宗
右
﹂
の
時
代
と
呼
ば
れ
る
空
前
の
繁
栄
を
も
た
ら
し
た
。
そ
し
て
明
治
末
に
関
西
歌
舞
伎
の
真
髄
と
も
い
う
べ
き
初
代
中
村
鴈
治
郎
が
登
場
す
る
。
鴈
治
郎
の
時
代
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
初
代
中
村
鴈
治
郎
明
治
か
ら
大
正
に
か
け
、
中
村
鴈
治
郎
に
よ
っ
て
和
事
の
芸
が
極
限
に
ま
で
洗
練
さ
れ
た
。
生
来
の
美
貌
に
加
え
、
初
代
延
若
、
九
代
目
市
川
團
十
郎
な
ど
の
東
西
の
役
者
の
芸
を
学
ぶ
な
ど
の
旺
盛
な
研
究
心
、
そ
し
て
華
や
か
で
見
せ
場
に
満
ち
た
演
技
な
ど
が
鴈
治
郎
を
し
て
関
西
歌
舞
伎
の
王
者
た
ら
し
め
た
の
で
あ
る
。
同
時
に
興
業
会
社
松
竹
の
白
井
松
次
郎
・
大
谷
竹
次
郎
兄
弟
は
鴈
治
郎
と
提
携
し
て
勢
力
を
伸
ば
し
、
東
西
の
歌
舞
伎
の
興
行
権
を
独
占
す
る
こ
と
と
な
り
、
鴈
治
郎
の
存
在
は
そ
の
後
の
歌
舞
伎
の
歴
史
を
も
変
え
て
し
ま
っ
た
の
で
あ
る
。
現
代
の
人
気
歌
手
の
よ
う
に
、
若
い
女
性
が
﹁
ガ
ン
ジ
ロ
ハ
ン
﹂
と
嬌
声
を
あ
げ
て
舞
台
に
殺
到
し
、
定
紋
の
イ
菱
を
あ
し
ら
っ
た
土
産
物
は
飛
ぶ
よ
う
に
売
れ
た
の
で
あ
る
。
た
だ
彼
が
単
な
る
人
気
者
で
終
わ
ら
な
か
っ
た
の
は
、
そ
の
数
多
い
素
晴
ら
し
い
舞
台
は
伝
説
と
な
り
今
日
の
関
西
歌
舞
伎
に
大
き
な
影
響
を
与
え
続
け
て
い
る
と
い
う
こ
と
で
あ
る
。
今
日
上
演
さ
れ
る
﹃
心
中
天
網
島
・
河
庄
﹄
、
﹃
双
蝶
々
曲
輪
日
記
・
引
窓
﹄
、
﹃
土
屋
主
税
﹄
、
﹃
藤
十
郎
の
恋
﹄
な
ど
の
人
気
狂
言
は
鴈
治
郎
に
よ
っ
て
作
ら
れ
た
も
の
で
あ
る
。
そ
し
て
彼
の
芸
は
大
阪
京
都
だ
け
で
な
く
東
京
の
観
客
に
も
認
め
ら
れ
、
関
西
歌
舞
伎
=
中
村
鴈
治
郎
と
い
う
現
象
が
生
ま
れ
る
。
ほ
か
の
歌
舞
伎
役
者
に
は
、
二
代
目
實
川
延
若
・
十
一
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
・
二
代
目
中
村
梅
玉
・
三
代
目
中
村
雀
右
衛
門
・
二
代
目
尾
上
卯
三
郎
・
三
代
目
尾
上
多
見
蔵
・
嵐
巌
笑
・
四
代
目
嵐
璃
寛
・
二
代
目
嵐
璃
珏
な
ど
が
活
躍
し
た
。
い
ず
れ
も
一
家
を
な
す
力
を
有
し
て
は
い
た
が
、
如
何
せ
ん
人
気
度
、
知
名
度
と
も
に
鴈
治
郎
に
食
わ
れ
て
い
た
。
そ
れ
ほ
ど
彼
の
影
響
力
は
巨
大
だ
っ
た
。
だ
が
、
興
行
会
社
松
竹
の
鴈
治
郎
中
心
の
興
行
形
態
は
さ
ま
ざ
ま
な
歪
み
を
生
ん
で
い
く
。
十
一
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
、
二
代
目
實
川
延
若
と
い
っ
た
有
能
な
役
者
は
冷
遇
さ
れ
、
東
京
に
活
躍
の
場
を
移
し
て
い
か
ざ
る
を
得
な
く
な
る
。
そ
れ
に
家
の
芸
と
い
う
意
識
の
低
い
関
西
歌
舞
伎
の
風
土
は
後
継
者
作
成
に
積
極
的
で
な
く
、
鴈
治
郎
一
人
舞
台
の
状
態
が
続
く
中
、
関
係
者
は
鴈
治
郎
後
に
つ
い
て
は
何
ら
対
策
を
講
じ
る
事
な
く
、
1
9
3
5
年
︵
昭
和
10
年
︶
の
鴈
治
郎
の
死
を
迎
え
る
。
凋
落
の
時
代
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
戦
前
の
概
況
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
千
日
前
大
阪
歌
舞
伎
座
︵
1
9
3
4
年
︶
絵
は
が
き
よ
り
鴈
治
郎
の
死
後
は
、
二
代
目
延
若
と
、
中
村
魁
車
、
三
代
目
中
村
梅
玉
の
三
者
が
上
方
歌
舞
伎
を
牽
引
す
る
。
ま
だ
、
歌
舞
伎
興
行
自
体
も
人
気
が
あ
り
、
昭
和
に
入
っ
て
、
最
新
の
設
備
を
ほ
こ
る
大
阪
歌
舞
伎
座
が
千
日
前
に
作
ら
れ
る
な
ど
環
境
面
が
整
備
さ
れ
た
。
立
女
形
に
関
し
て
は
関
西
の
ほ
う
が
充
実
し
て
い
た
。
梅
玉
は
し
ば
し
ば
上
京
し
て
は
﹃
妹
背
山
婦
女
庭
訓
・
吉
野
川
﹄
の
定
高
や
﹃
攝
州
合
邦
辻
・
合
邦
庵
室
﹄
の
玉
手
御
前
な
ど
の
至
芸
を
見
せ
て
東
京
の
歌
舞
伎
愛
好
者
か
ら
高
く
評
価
さ
れ
て
い
た
し
、
十
二
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
が
東
京
に
移
っ
た
の
も
、
東
京
の
立
女
形
不
足
を
補
強
す
る
た
め
で
も
あ
っ
た
。
﹁
毛
谷
村
﹂
初
代
中
村
魁
車
の
お
園
と
二
代
目
実
川
延
若
の
六
助
色
気
の
あ
る
立
役
の
延
若
、
古
風
な
立
女
形
の
梅
玉
、
技
巧
派
の
魁
車
と
、
三
者
の
芸
は
独
特
の
個
性
が
あ
り
初
代
鴈
治
郎
と
な
ら
ぶ
ほ
ど
質
の
高
い
も
の
だ
っ
た
。
脇
も
四
代
目
市
川
市
蔵
、
初
代
市
川
箱
登
羅
、
七
代
目
嵐
吉
三
郎
、
初
代
市
川
筵
女
、
四
代
目
浅
尾
奥
山
、
二
代
目
中
村
霞
仙
ら
芸
達
者
が
な
ら
び
、
そ
こ
に
五
代
目
我
富
、
六
代
目
蓑
助
、
中
村
も
し
ほ
︵
の
ち
の
十
七
代
目
中
村
勘
三
郎
︶
、
二
代
目
市
川
小
太
夫
な
ど
の
東
京
か
ら
の
移
籍
組
、
そ
し
て
、
扇
雀
、
長
三
郎
、
福
助
な
ど
の
有
望
な
若
手
が
加
わ
り
、
顔
ぶ
れ
は
充
実
し
て
い
た
。
三
代
目
阪
東
壽
三
郎
に
よ
る
新
派
と
の
合
同
公
演
な
ど
の
新
し
い
試
み
も
行
わ
れ
た
り
、
村
田
嘉
久
子
、
梅
村
蓉
子
、
な
ど
の
新
劇
、
映
画
女
優
の
参
加
が
さ
か
ん
で
あ
っ
た
。
劇
場
で
は
京
都
で
南
座
、
大
阪
で
中
座
・
浪
花
座
・
大
阪
歌
舞
伎
座
・
角
座
が
歌
舞
伎
を
上
演
。
関
西
歌
舞
伎
は
、
そ
の
内
容
面
、
施
設
面
と
も
に
問
題
は
な
か
っ
た
。
だ
が
、
興
行
側
も
観
客
も
初
代
中
村
鴈
治
郎
の
幻
影
を
追
い
求
め
、
延
若
に
鴈
治
郎
の
当
り
役
を
勤
め
さ
せ
る
な
ど
的
外
れ
の
興
行
が
お
こ
な
わ
れ
、
役
者
の
持
ち
味
を
活
か
せ
ぬ
弊
害
を
も
た
ら
し
て
い
た
。
太
平
洋
戦
争
後
は
、
歌
舞
伎
座
な
ど
の
劇
場
の
閉
鎖
や
芝
居
茶
屋
の
廃
業
な
ど
の
き
び
し
い
状
況
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
三
者
を
中
心
に
歌
舞
伎
は
関
西
の
歌
舞
伎
愛
好
者
の
人
気
を
集
め
、
大
戦
末
期
の
空
襲
に
も
屈
せ
ず
興
行
が
行
わ
れ
た
。
終
戦
後
の
混
乱
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
戦
後
に
な
る
と
、
関
西
歌
舞
伎
の
凋
落
が
急
速
に
進
ん
だ
。
京
都
南
座
・
大
阪
歌
舞
伎
座
を
の
ぞ
く
、
主
要
劇
場
の
空
襲
に
よ
る
焼
失
は
大
き
な
痛
手
だ
っ
た
。
そ
れ
に
、
1
9
4
5
年
︵
昭
和
20
年
︶
3
月
の
中
村
魁
車
の
戦
災
死
、
1
9
4
6
年
︵
昭
和
21
年
︶
の
十
二
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
の
不
慮
の
死
に
続
い
て
、
1
9
4
8
年
︵
昭
和
23
年
︶
に
は
三
代
目
中
村
梅
玉
が
、
そ
し
て
1
9
5
1
年
︵
昭
和
26
年
︶
に
﹁
最
後
の
上
方
役
者
﹂
と
呼
ば
れ
た
二
代
目
延
若
が
、
そ
れ
ぞ
れ
死
去
し
た
。
初
代
鴈
治
郎
の
死
後
わ
ず
か
十
五
年
で
、
牽
引
者
を
四
人
も
失
っ
た
の
で
あ
る
。
1
9
4
8
年
︵
昭
和
23
年
︶
中
座
が
復
興
し
た
。
だ
が
、
角
座
、
浪
花
座
は
映
画
館
に
な
り
、
大
阪
の
道
頓
堀
か
ら
歴
史
あ
る
歌
舞
伎
の
劇
場
が
相
次
い
で
消
え
て
行
っ
た
。
三
代
目
中
村
梅
玉
︵
1
9
4
7
︶
こ
の
時
点
で
残
さ
れ
た
関
西
歌
舞
伎
の
後
継
者
は
、
二
代
目
中
村
鴈
治
郎
・
四
代
目
片
岡
我
當
・
三
代
目
市
川
壽
海
・
三
代
目
阪
東
壽
三
郎
・
四
代
目
中
村
富
十
郎
・
六
代
目
坂
東
蓑
助
︵
の
ち
八
代
目
坂
東
三
津
五
郎
︶
・
二
代
目
林
又
一
郎
・
五
代
目
片
岡
芦
燕
︵
の
ち
十
三
代
目
片
岡
我
童
。
死
後
、
十
四
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
を
追
贈
︶
・
五
代
目
中
村
福
助
︵
高
砂
屋
︶
・
二
代
目
實
川
延
二
郎
︵
の
ち
三
代
目
実
川
延
若
︶
・
二
代
目
中
村
成
太
郎
。
そ
し
て
若
手
に
四
代
目
坂
東
鶴
之
助
︵
の
ち
五
代
目
中
村
富
十
郎
︶
・
二
代
目
中
村
扇
雀
︵
の
ち
四
代
目
坂
田
藤
十
郎
︶
・
初
代
中
村
太
郎
・
嵐
鱗
昇
︵
の
ち
八
代
目
嵐
吉
三
郎
︶
ら
。
ほ
か
に
戦
前
か
ら
の
二
代
目
中
村
霞
仙
を
は
じ
め
と
し
て
、
中
村
松
若
、
七
代
目
嵐
吉
三
郎
、
十
一
代
目
嵐
三
右
衛
門
、
十
代
目
嵐
雛
助
、
五
代
目
片
岡
愛
之
助
、
四
代
目
尾
上
菊
次
郎
、
五
代
目
嵐
璃
珏
、
三
代
目
市
川
九
團
次
な
ど
脇
役
が
揃
っ
て
い
た
。
こ
の
う
ち
、
壽
海
・
蓑
助
・
富
十
郎
は
東
京
の
生
ま
れ
、
我
當
は
1
9
5
1
年
︵
昭
和
26
年
︶
3
月
に
亡
父
の
名
跡
を
継
ぎ
十
三
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
と
な
る
が
、
芸
風
が
地
味
で
あ
り
純
然
た
る
大
阪
の
俳
優
で
は
な
い
︵
彼
自
身
東
京
生
ま
れ
︶
。
ま
た
壽
三
郎
は
大
阪
生
ま
れ
だ
が
芸
質
が
和
事
に
適
し
て
い
な
い
。
延
二
郎
、
扇
雀
、
鶴
之
助
は
経
験
不
足
、
と
な
る
と
、
純
然
た
る
上
方
役
者
は
、
鴈
治
郎
と
又
一
郎
兄
弟
の
み
と
い
う
こ
と
に
な
る
。
そ
し
て
又
一
郎
は
身
体
が
弱
く
、
次
の
世
代
を
引
っ
張
る
の
は
鴈
治
郎
の
み
で
、
人
材
面
に
不
安
が
あ
っ
た
。
武
智
歌
舞
伎
時
代
の
八
代
目
市
川
雷
蔵
﹁
野
崎
村
﹂
の
久
松
︵
1
9
4
9
︶
双
壽
・
扇
鶴
の
時
代
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
﹁
仮
名
手
本
忠
臣
蔵
﹂
六
段
目
左
か
ら
八
代
目
雷
蔵
雷
蔵
の
千
崎
弥
五
郎
、
三
代
目
市
川
寿
海
の
早
野
勘
平
、
八
代
目
市
川
中
車
の
不
破
数
右
衛
門
︵
1
9
5
3
年
︶
鴈
治
郎
自
身
は
、
周
囲
の
期
待
の
中
で
偉
大
な
父
を
意
識
す
る
あ
ま
り
に
、
極
度
の
不
振
に
陥
っ
て
い
た
。
年
齢
か
ら
行
く
と
壽
海
と
壽
三
郎
が
主
導
者
格
と
な
る
。
た
だ
し
、
両
者
と
も
役
者
と
し
て
は
優
秀
だ
っ
た
が
、
業
界
を
牽
引
す
る
と
い
う
指
導
力
に
は
欠
け
て
い
た
。
興
行
側
の
松
竹
で
も
同
じ
こ
と
が
見
ら
れ
た
。
白
井
松
次
郎
の
死
後
、
弟
の
白
井
信
太
郎
に
経
営
が
移
る
が
、
す
で
に
凋
落
期
に
あ
る
関
西
歌
舞
伎
を
立
て
な
お
す
に
は
あ
ま
り
に
も
力
量
不
足
だ
っ
た
。
ま
た
、
戦
後
大
阪
の
経
済
が
衰
退
し
そ
れ
ま
で
歌
舞
伎
を
贔
屓
し
て
い
た
後
援
者
が
東
京
に
相
次
い
で
移
っ
て
し
ま
っ
た
。
終
戦
後
の
関
西
歌
舞
伎
は
、
強
力
な
主
導
者
も
後
援
者
も
な
く
、
い
つ
終
焉
に
向
か
っ
て
も
お
か
し
く
な
い
状
態
だ
っ
た
。
た
だ
、
延
若
の
死
の
前
後
、
関
西
歌
舞
伎
が
一
時
的
に
活
況
を
呈
し
た
。
ま
ず
、
壽
海
、
壽
三
郎
に
よ
る
﹁
双
壽
時
代
﹂
が
始
ま
る
。
壽
海
は
﹃
鳥
辺
山
心
中
﹄
の
菊
池
半
九
郎
、
﹃
次
郎
吉
懺
悔
﹄
の
次
郎
吉
、
﹃
石
切
梶
原
﹄
の
梶
原
平
三
な
ど
の
若
若
し
い
演
技
で
そ
れ
ま
で
大
阪
の
歌
舞
伎
に
な
か
っ
た
新
し
い
芸
を
確
立
し
た
。
壽
三
郎
も
﹁
関
西
の
左
團
次
﹂
と
呼
ば
れ
る
よ
う
に
新
歌
舞
伎
で
本
領
を
発
揮
し
て
い
た
が
、
﹃
熊
谷
陣
屋
﹄
の
熊
谷
直
実
な
ど
に
お
い
て
、
不
得
手
だ
っ
た
丸
本
物
で
も
演
技
が
上
達
し
始
め
、
壽
三
郎
こ
そ
次
代
の
関
西
歌
舞
伎
の
主
導
者
と
認
め
ら
れ
始
め
た
。
1
9
4
9
年
︵
昭
和
24
年
︶
4
月
四
ツ
橋
文
楽
座
で
武
智
鉄
二
に
よ
る
﹁
武
智
歌
舞
伎
﹂
が
始
ま
る
。
武
智
は
、
扇
雀
・
鶴
之
助
・
鱗
昇
・
太
郎
・
延
二
郎
・
筵
蔵
ら
関
西
歌
舞
伎
の
若
手
役
者
を
、
原
作
重
視
の
演
出
中
心
の
や
り
方
を
も
と
に
、
発
声
法
、
演
技
法
な
ど
を
、
歌
舞
伎
か
ら
は
簔
助
が
指
導
。
ほ
か
、
文
楽
の
豊
竹
山
城
少
橡
、
京
舞
の
井
上
八
千
代
、
能
楽
の
片
山
九
郎
右
衛
門
ら
一
流
の
講
師
に
よ
る
指
導
で
徹
底
的
に
鍛
え
上
げ
、
﹃
熊
谷
陣
屋
﹄
﹃
平
家
女
護
島
・
俊
寛
﹄
﹃
摂
州
合
邦
辻
﹄
﹃
妹
背
山
婦
女
庭
訓
・
道
行
﹄
な
ど
の
丸
本
物
、
﹃
勧
進
帳
﹄
な
ど
の
古
典
や
﹃
恐
怖
時
代
﹄
﹃
修
善
寺
物
語
﹄
な
ど
の
新
作
を
精
力
的
に
上
演
し
好
評
を
博
し
松
竹
側
も
積
極
的
に
後
援
す
る
ま
で
に
至
っ
た
。
こ
の
動
き
は
沈
滞
化
し
て
い
た
関
西
歌
舞
伎
に
新
風
を
送
り
込
み
、
若
手
の
中
か
ら
扇
雀
・
鶴
之
助
が
頭
角
を
表
し
﹁
扇
鶴
時
代
﹂
を
生
み
出
す
。
扇
雀
は
二
代
目
鴈
治
郎
の
子
と
し
て
、
毛
並
み
の
良
さ
と
美
貌
で
将
来
を
嘱
望
さ
れ
な
が
ら
伸
び
悩
ん
で
い
た
が
、
武
智
に
よ
る
指
導
で
飛
躍
的
に
向
上
し
﹁
醜
い
毛
虫
が
一
瞬
に
し
て
美
し
い
蝶
に
生
ま
れ
変
わ
っ
た
よ
う
な
﹂
[
1
]
驚
き
を
周
囲
に
与
え
た
。
ま
た
、
四
代
目
富
十
郎
の
子
の
鶴
之
助
は
、
女
形
と
し
て
評
価
さ
れ
て
い
た
が
、
武
智
は
あ
え
て
﹃
勧
進
帳
﹄
の
弁
慶
を
演
じ
さ
せ
、
立
役
と
し
て
育
て
て
い
く
。
特
に
﹃
曾
根
崎
心
中
﹄
で
大
当
た
り
を
と
っ
た
扇
雀
の
人
気
は
凄
ま
じ
く
︵
扇
雀
ブ
ー
ム
︶
、
歌
舞
伎
の
枠
を
超
え
て
全
国
的
知
名
度
を
得
た
。
1
9
5
3
年
︵
昭
和
28
年
︶
に
は
壽
海
、
壽
三
郎
ら
オ
ー
ル
関
西
歌
舞
伎
総
出
演
に
よ
る
﹃
仮
名
手
本
忠
臣
蔵
﹄
の
通
し
が
東
京
の
帝
国
劇
場
で
上
演
さ
れ
た
り
、
同
年
12
月
の
京
都
南
座
顔
見
世
が
関
西
勢
中
心
で
行
わ
れ
る
な
ど
、
陣
容
も
整
い
、
若
い
力
が
よ
う
や
く
育
っ
て
き
た
か
に
見
え
た
が
、
そ
れ
は
燃
え
つ
き
よ
う
と
す
る
蝋
燭
の
最
後
の
輝
き
で
も
あ
っ
た
。
終
焉
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
1
9
5
4
年
︵
昭
和
29
年
︶
9
月
24
日
、
三
代
目
阪
東
壽
三
郎
が
死
ん
だ
。
こ
の
時
点
で
関
西
歌
舞
伎
は
終
焉
し
た
と
い
う
見
方
が
あ
る
。
す
で
に
﹁
双
壽
﹂
﹁
扇
鶴
﹂
の
人
気
の
影
で
、
重
い
役
を
も
ら
え
ず
冷
や
飯
を
食
べ
る
か
た
ち
と
な
っ
て
い
た
鴈
治
郎
、
富
十
郎
ら
の
不
満
が
く
す
ぶ
っ
て
い
た
。
例
え
ば
、
松
竹
は
壽
海
に
初
代
鴈
治
郎
の
当
り
役
を
勤
め
さ
せ
鴈
治
郎
を
憤
慨
さ
せ
る
な
ど
、
興
行
面
重
視
に
よ
る
そ
の
場
し
の
ぎ
の
対
応
ば
か
り
で
、
関
西
歌
舞
伎
の
正
当
な
後
継
者
に
対
す
る
考
慮
が
欠
け
て
い
た
。
そ
ん
な
時
、
ど
う
に
か
ま
と
め
役
を
務
め
て
き
た
壽
三
郎
が
い
な
く
な
っ
た
。
す
で
に
壽
三
郎
の
死
ぬ
前
の
9
月
1
日
に
鶴
之
助
の
松
竹
脱
退
が
お
こ
っ
て
い
た
が
、
翌
1
9
5
5
年
︵
昭
和
30
年
︶
4
月
、
蓑
助
が
、
鶴
之
助
の
も
め
ご
と
が
人
権
侵
害
に
あ
た
る
と
し
て
松
竹
幹
部
を
法
務
局
に
訴
え
る
騒
動
。
さ
ら
に
鴈
治
郎
、
扇
雀
親
子
の
映
画
界
入
り
と
、
わ
ず
か
半
年
余
り
で
連
続
し
て
騒
動
が
続
く
。
こ
の
よ
う
な
状
況
下
、
当
然
な
が
ら
観
客
動
員
も
激
減
し
て
ゆ
く
。
こ
こ
に
、
関
西
歌
舞
伎
の
凋
落
と
終
焉
は
誰
の
目
に
も
明
ら
か
な
事
態
と
な
っ
た
。
壽
三
郎
と
な
ら
ぶ
壽
海
は
関
西
歌
舞
伎
俳
優
協
会
会
長
の
要
職
に
あ
り
、
人
格
も
よ
く
芸
格
も
向
上
し
て
名
実
と
も
当
代
一
流
の
歌
舞
伎
役
者
と
な
っ
て
い
た
が
、
東
京
生
ま
れ
で
あ
り
、
先
述
し
た
松
竹
の
壽
海
偏
重
方
針
も
災
い
し
て
反
発
を
買
い
誰
に
も
支
持
さ
れ
て
い
な
か
っ
た
。
大
看
板
を
失
い
興
行
も
減
少
す
る
と
、
興
行
側
も
歌
舞
伎
に
見
切
り
を
つ
け
る
よ
う
に
な
り
1
9
5
8
年
︵
昭
和
33
年
︶
に
大
阪
歌
舞
伎
座
が
閉
場
す
る
。
こ
の
よ
う
な
状
況
に
、
将
来
に
不
安
を
募
ら
せ
た
歌
舞
伎
関
係
者
は
や
る
気
を
失
っ
て
行
っ
た
。
関
西
歌
舞
伎
に
対
し
て
あ
る
者
は
見
切
り
を
つ
け
、
ま
た
あ
る
者
は
失
望
し
、
役
者
稼
業
を
続
け
る
に
せ
よ
、
以
下
の
よ
う
な
形
で
離
れ
て
ゆ
く
者
が
続
出
す
る
。
●
映
画
俳
優
へ
の
転
身
-
鴈
治
郎
、
扇
雀
、
八
代
目
市
川
雷
蔵
、
鱗
昇
な
ど
●
大
衆
演
劇
の
舞
台
に
活
路
を
求
め
る
-
十
一
代
目
嵐
三
右
衛
門
な
ど
●
活
躍
の
場
と
機
会
を
求
め
て
、
東
京
の
歌
舞
伎
興
行
に
本
拠
を
移
す
-
鶴
之
助
、
蓑
助
こ
う
し
て
各
自
が
勝
手
な
方
向
に
向
か
い
、
関
西
歌
舞
伎
は
事
実
上
の
空
中
分
解
状
態
に
な
っ
た
。
そ
の
後
、
扇
雀
は
8
年
、
鴈
治
郎
は
10
年
の
長
き
に
渡
り
歌
舞
伎
の
表
舞
台
と
い
え
る
場
へ
戻
る
事
は
な
く
、
東
京
に
活
路
を
求
め
た
鶴
之
助
や
蓑
助
も
そ
の
後
関
西
に
本
拠
を
戻
す
事
は
な
か
っ
た
。
ま
た
、
七
代
目
大
谷
友
右
衛
門
な
ど
、
映
画
俳
優
な
ど
と
の
兼
業
を
行
っ
た
者
は
数
多
い
。
い
ず
れ
に
し
て
も
、
大
半
の
役
者
が
歌
舞
伎
一
本
で
食
べ
て
ゆ
く
こ
と
す
ら
ま
ま
な
ら
な
い
状
況
に
追
い
込
ま
れ
た
の
で
あ
る
。
安
易
な
興
行
を
繰
り
返
し
、
関
係
者
が
後
継
者
育
成
の
努
力
を
怠
っ
た
こ
と
が
、
大
き
な
ツ
ケ
と
な
っ
て
こ
こ
に
跳
ね
返
っ
て
き
た
の
で
あ
る
。
ま
た
、
特
に
八
代
目
市
川
雷
蔵
に
つ
い
て
は
、
そ
の
後
の
映
画
界
で
の
大
活
躍
を
鑑
み
た
場
合
、
歌
舞
伎
界
と
の
血
縁
の
薄
さ
、
当
初
の
養
父
が
脇
役
役
者
と
い
う
境
遇
ゆ
え
に
、
歌
舞
伎
界
が
そ
の
才
能
を
伸
ば
す
事
が
で
き
ず
映
画
界
へ
と
流
出
さ
せ
て
し
ま
っ
た
事
が
、
興
行
と
い
う
意
味
に
お
い
て
当
時
の
歌
舞
伎
と
映
画
は
競
合
す
る
関
係
に
あ
っ
た
以
上
、
関
西
歌
舞
伎
に
と
っ
て
は
後
年
さ
ら
に
大
き
な
痛
手
と
な
っ
て
ゆ
く
。
戦
後
は
、
東
京
の
歌
舞
伎
界
も
七
代
目
松
本
幸
四
郎
、
六
代
目
尾
上
菊
五
郎
、
初
代
中
村
吉
右
衛
門
な
ど
の
名
優
が
相
次
い
で
死
去
す
る
な
ど
、
大
阪
と
似
た
よ
う
な
衰
退
に
向
か
い
掛
け
た
が
、
六
代
目
中
村
歌
右
衛
門
、
二
代
目
尾
上
松
緑
、
三
代
目
市
川
左
團
次
ら
幹
部
俳
優
の
活
躍
で
踏
み
と
ど
ま
り
、
他
方
で
は
九
代
目
市
川
團
十
郎
以
来
の
政
財
界
の
繋
が
り
が
功
を
奏
し
て
、
そ
の
方
面
か
ら
の
援
助
が
大
き
な
支
え
と
な
っ
て
い
た
。
や
が
て
歌
右
衛
門
の
ア
メ
リ
カ
興
行
、
十
一
代
目
市
川
團
十
郎
襲
名
披
露
興
行
な
ど
を
起
爆
剤
と
し
て
見
事
に
立
ち
直
っ
て
い
く
の
で
あ
る
。
そ
の
点
、
俳
優
興
行
共
に
ま
と
ま
り
を
欠
き
、
大
阪
の
経
済
の
地
盤
沈
下
に
よ
る
後
援
者
の
減
少
な
ど
マ
イ
ナ
ス
の
要
件
ば
か
り
が
重
な
り
、
さ
し
た
る
後
ろ
盾
も
持
つ
こ
と
が
で
き
な
か
っ
た
関
西
歌
舞
伎
は
不
運
だ
っ
た
。
髙
砂
屋
五
代
目
中
村
福
助
復
興
の
時
代
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
七
人
の
会
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
新
歌
舞
伎
座
1
9
5
8
年
︵
昭
和
33
年
︶
8
月
大
阪
毎
日
ホ
ー
ル
で
、
山
口
廣
一
主
催
[
2
]
の
も
と
﹁
七
人
の
会
﹂
が
開
催
さ
れ
る
。
顔
ぶ
れ
は
鴈
治
郎
、
仁
左
衛
門
、
十
三
代
目
片
岡
我
童
、
又
一
郎
、
高
砂
屋
五
代
目
中
村
福
助
、
延
若
、
扇
雀
の
七
人
の
歌
舞
伎
役
者
に
よ
る
自
主
公
演
だ
っ
た
。
会
は
1
9
6
1
年
︵
昭
和
36
年
︶
ま
で
3
回
行
わ
れ
採
算
面
の
問
題
で
消
滅
し
た
が
、
公
演
自
体
は
成
功
裏
に
終
わ
り
、
関
西
歌
舞
伎
の
復
興
の
き
っ
か
け
と
な
っ
た
。
こ
う
し
た
関
係
者
の
努
力
に
も
か
か
わ
ら
ず
、
1
9
5
0
年
代
後
半
、
大
阪
で
は
歌
舞
伎
公
演
が
ま
っ
た
く
行
わ
れ
て
い
な
か
っ
た
。
大
阪
の
観
客
も
内
紛
つ
づ
き
の
歌
舞
伎
に
そ
っ
ぽ
を
向
い
て
し
ま
い
、
映
画
や
新
喜
劇
、
漫
才
や
歌
謡
シ
ョ
ー
に
足
を
運
ん
で
い
た
。
1
9
5
8
年
︵
昭
和
33
年
︶
松
竹
か
ら
経
営
権
を
譲
り
受
け
た
千
土
地
興
業
は
難
波
に
新
歌
舞
伎
座
を
開
場
さ
せ
る
が
、
オ
ー
ナ
ー
の
松
尾
國
三
の
方
針
に
よ
り
、
こ
け
ら
落
と
し
こ
そ
歌
舞
伎
が
行
わ
れ
た
も
の
の
、
女
優
や
タ
レ
ン
ト
興
行
中
心
に
行
わ
れ
る
よ
う
に
な
り
、
年
に
一
回
あ
る
か
な
い
か
の
状
態
と
な
っ
た
。
さ
ら
に
1
9
6
0
年
代
後
半
に
は
襲
名
興
行
や
追
善
興
行
の
み
に
な
っ
た
。
一
方
、
京
都
で
歳
末
に
行
わ
れ
る
顔
見
世
興
行
は
、
市
民
に
季
節
の
風
物
と
し
て
根
付
い
て
お
り
客
足
が
途
絶
え
る
事
は
な
か
っ
た
。
し
か
し
、
い
つ
し
か
東
西
合
同
と
銘
打
た
れ
る
よ
う
に
な
り
、
東
京
風
歌
舞
伎
の
上
演
頻
度
が
高
ま
っ
て
い
っ
た
。
関
西
歌
舞
伎
の
冬
の
時
代
は
ま
だ
ま
だ
続
く
。
仁
左
衛
門
歌
舞
伎
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
1
9
6
2
年
︵
昭
和
37
年
︶
8
月
19
日
、
十
三
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
に
よ
っ
て
自
主
公
演
﹁
仁
左
衛
門
歌
舞
伎
﹂
が
始
ま
っ
た
。
こ
の
年
の
4
月
東
京
歌
舞
伎
座
で
の
華
や
か
な
十
一
代
目
市
川
團
十
郎
襲
名
披
露
に
出
演
し
、
つ
づ
く
南
座
公
演
で
逆
に
不
入
り
を
経
験
し
た
仁
左
衛
門
は
、
関
西
歌
舞
伎
の
暗
澹
た
る
現
状
に
衝
撃
を
受
け
て
い
た
。
自
伝
に
あ
る
よ
う
に
、
彼
自
身
東
京
移
住
を
勧
め
ら
れ
、
関
西
に
見
切
り
を
つ
け
て
東
京
に
移
籍
す
る
こ
と
も
考
え
て
い
た
。
だ
が
﹁
現
在
こ
の
有
様
上
方
を
捨
て
て
は
、
片
岡
家
の
先
祖
は
言
う
に
及
ば
ず
、
何
代
か
か
っ
て
上
方
の
芝
居
を
こ
こ
ま
で
築
き
上
げ
て
き
た
先
輩
た
ち
に
こ
れ
ほ
ど
申
し
訳
な
い
こ
と
は
な
い
で
は
な
い
か
。
何
と
し
て
も
上
方
の
灯
は
守
ら
な
け
れ
ば
﹂
[
3
]
と
あ
る
よ
う
に
、
切
実
な
関
西
歌
舞
伎
の
愛
惜
と
先
祖
へ
の
思
い
と
が
﹁
そ
れ
で
も
駄
目
な
ら
歌
舞
伎
と
心
中
し
よ
う
﹂
︵
同
上
︶
と
い
う
悲
壮
な
決
心
に
向
か
っ
た
の
で
あ
る
。
幸
い
家
族
ら
や
松
下
幸
之
助
ら
関
西
財
界
な
ど
関
係
者
の
理
解
と
を
得
て
、
仁
左
衛
門
は
自
主
公
演
に
む
け
て
の
動
き
を
始
め
た
。
彼
自
身
が
記
者
会
見
を
し
て
思
い
を
訴
え
、
精
力
的
に
後
援
を
依
頼
し
て
回
っ
た
結
果
、
文
楽
座
で
行
わ
れ
た
公
演
は
大
盛
況
だ
っ
た
。
安
価
な
料
金
、
上
方
狂
言
と
通
し
の
基
本
方
針
で
、
1
9
6
7
年
︵
昭
和
42
年
︶
ま
で
計
5
回
。
い
ず
れ
も
成
功
裏
に
終
わ
っ
た
。
大
阪
で
も
歌
舞
伎
は
で
き
る
と
い
う
こ
と
が
立
証
さ
れ
、
関
西
歌
舞
伎
の
最
後
の
灯
が
守
ら
れ
た
。
そ
の
後
、
仁
左
衛
門
は
、
終
生
に
渡
っ
て
フ
ァ
ン
の
開
拓
に
努
め
続
け
た
。
1
9
7
6
年
︵
昭
和
51
年
︶
に
は
、
子
息
と
と
も
に
近
畿
地
方
の
高
校
生
を
対
象
と
す
る
﹁
高
校
生
の
た
め
の
歌
舞
伎
教
室
﹂
を
開
催
し
た
が
、
仁
左
衛
門
の
死
後
も
長
男
の
五
代
目
片
岡
我
當
に
引
き
継
が
れ
、
36
年
の
長
き
に
わ
た
っ
て
実
施
さ
れ
た
。
我
當
自
身
﹁
私
の
ラ
イ
フ
ワ
ー
ク
で
す
。
﹂
と
語
る
ほ
ど
で
あ
り
[
4
]
、
そ
れ
ま
で
歌
舞
伎
の
興
味
の
な
か
っ
た
若
者
を
呼
び
寄
せ
る
大
き
な
成
果
を
上
げ
た
。
今
日
の
歌
舞
伎
界
で
活
躍
し
て
い
る
役
者
の
中
に
も
、
仁
左
衛
門
の
歌
舞
伎
教
室
を
き
っ
か
け
に
歌
舞
伎
に
興
味
を
持
ち
、
歌
舞
伎
の
門
を
叩
い
た
者
が
少
な
く
な
い
。
関
西
歌
舞
伎
の
長
い
歴
史
の
な
か
で
も
、
十
三
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
の
果
た
し
た
役
割
は
あ
ま
り
に
も
大
き
い
。
関
西
で
歌
舞
伎
を
育
て
る
会
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
仁
左
衛
門
歌
舞
伎
に
よ
っ
て
、
と
り
あ
え
ず
滅
亡
の
危
機
は
脱
し
た
も
の
の
、
昭
和
40
年
代
か
ら
50
年
代
に
か
け
て
、
関
西
歌
舞
伎
の
不
振
は
終
焉
が
見
え
ず
、
青
息
吐
息
の
状
態
が
続
い
て
い
た
。
道
頓
堀
中
座
、
朝
日
座
や
新
歌
舞
伎
座
で
散
発
的
に
歌
舞
伎
の
興
行
が
行
わ
れ
る
の
だ
が
、
観
客
の
嗜
好
は
依
然
と
し
て
漫
才
な
ど
の
演
芸
や
、
美
空
ひ
ば
り
、
三
波
春
夫
な
ど
流
行
歌
手
の
歌
謡
シ
ョ
ー
、
あ
る
い
は
渋
谷
天
外
、
藤
山
寛
美
ら
の
松
竹
新
喜
劇
、
映
画
な
ど
に
向
け
ら
れ
て
お
り
、
継
続
し
な
い
の
で
あ
る
。
関
係
者
も
無
力
感
に
苛
ま
れ
な
が
ら
も
、
何
の
手
も
打
つ
こ
と
が
出
来
な
か
っ
た
。
一
方
で
は
、
映
画
俳
優
と
し
て
大
成
し
た
長
谷
川
一
夫
︵
初
代
鴈
治
郎
門
下
︶
や
市
川
雷
蔵
の
歌
舞
伎
復
帰
企
画
な
ど
の
噂
も
あ
っ
た
も
の
の
、
噂
は
噂
の
域
を
出
る
こ
と
の
な
い
ま
ま
諸
事
情
で
実
現
に
至
ら
な
か
っ
た
。
特
に
雷
蔵
は
、
歌
舞
伎
界
復
帰
を
望
ん
で
い
た
と
さ
れ
る
が
、
1
9
6
9
年
︵
昭
和
44
年
︶
夏
に
37
歳
で
病
没
し
て
い
る
。
ま
た
、
同
じ
よ
う
に
戦
後
不
振
だ
っ
た
上
方
落
語
が
1
9
7
0
年
頃
に
復
興
し
、
1
9
8
0
年
頃
か
ら
は
漫
才
に
史
上
空
前
の
大
ブ
ー
ム
が
始
ま
っ
た
が
、
対
照
的
に
関
西
で
は
歌
舞
伎
は
相
変
わ
ら
ず
時
代
後
れ
の
も
の
と
さ
れ
て
、
新
た
な
フ
ァ
ン
層
の
拡
大
さ
え
も
ま
ま
な
ら
な
い
状
態
が
続
い
て
い
た
。
そ
ん
な
中
で
、
東
京
の
二
代
目
澤
村
藤
十
郎
が
自
主
公
演
﹁
関
西
で
歌
舞
伎
を
育
て
る
会
﹂
を
立
ち
上
げ
る
。
1
9
7
7
年
︵
昭
和
52
年
︶
、
歌
舞
伎
興
行
の
低
迷
ゆ
え
に
大
阪
の
新
歌
舞
伎
座
が
、
藤
十
郎
と
兄
九
代
目
宗
十
郎
の
襲
名
披
露
を
最
後
と
し
て
、
つ
い
に
歌
舞
伎
公
演
か
ら
手
を
引
く
こ
と
に
な
り
、
こ
れ
に
責
任
を
感
じ
て
の
奮
起
だ
っ
た
と
言
う
。
東
京
の
歌
舞
伎
関
係
者
も
、
関
西
歌
舞
伎
の
凋
落
は
歌
舞
伎
界
全
体
の
衰
退
に
繋
が
り
か
ね
な
い
と
、
相
当
の
危
機
感
を
抱
い
て
い
た
の
で
あ
る
。
そ
ん
な
関
西
歌
舞
伎
の
復
興
を
目
指
す
人
々
の
熱
意
と
大
阪
市
の
助
成
金
や
民
労
協
の
協
力
も
あ
り
、
興
行
側
も
重
い
腰
を
上
げ
た
。
1
9
7
9
年
︵
昭
和
54
年
︶
5
月
に
朝
日
座
で
第
1
回
公
演
が
行
わ
れ
、
実
に
52
年
ぶ
り
と
な
る
船
乗
り
込
み
も
行
わ
れ
た
。
こ
の
公
演
は
1
9
8
9
年
︵
平
成
元
年
︶
ま
で
十
回
続
く
。
東
京
か
ら
は
宗
十
郎
、
藤
十
郎
兄
弟
の
ほ
か
、
十
七
代
目
中
村
勘
三
郎
・
五
代
目
中
村
勘
九
郎
親
子
、
七
代
目
尾
上
梅
幸
、
十
代
目
市
川
海
老
蔵
、
七
代
目
尾
上
菊
五
郎
、
二
代
目
中
村
吉
右
衛
門
、
九
代
目
松
本
幸
四
郎
、
五
代
目
中
村
富
十
郎
。
地
元
は
十
三
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
、
十
三
代
目
片
岡
我
童
、
二
代
目
中
村
鴈
治
郎
、
片
岡
孝
夫
、
五
代
目
片
岡
我
當
、
二
代
目
片
岡
秀
太
郎
、
三
代
目
實
川
延
若
、
七
代
目
嵐
徳
三
郎
、
二
代
目
中
村
扇
雀
な
ど
が
参
加
。
人
気
の
あ
る
古
典
と
分
か
り
や
す
い
狂
言
を
巧
み
に
並
べ
た
り
、
藤
十
郎
主
催
の
イ
ベ
ン
ト
﹁
歌
舞
伎
の
見
か
た
﹂
で
、
観
客
を
芝
居
に
出
て
く
る
馬
に
乗
せ
る
な
ど
の
趣
向
が
大
い
に
話
題
を
呼
び
、
場
所
も
第
2
回
か
ら
中
座
で
行
わ
れ
る
よ
う
に
な
っ
た
。
こ
の
時
の
熱
気
は
十
五
代
目
仁
左
衛
門
が
﹁
・
・
・
お
客
様
が
あ
ふ
れ
て
、
二
階
の
客
席
の
階
段
に
ま
で
座
っ
て
見
て
く
だ
さ
い
ま
し
た
。
当
時
の
中
座
の
支
配
人
が
お
尻
に
敷
く
の
に
古
い
芝
居
の
ポ
ス
タ
ー
を
出
し
て
き
ま
し
て
ね
。
﹃
そ
れ
は
い
か
ん
や
ろ
﹄
と
い
う
こ
と
で
座
布
団
を
お
出
し
し
た
こ
と
も
あ
り
ま
し
た
。
﹂
[
5
]
と
述
懐
し
て
い
る
。
関
西
歌
舞
伎
の
聖
地
で
あ
る
道
頓
堀
に
歌
舞
伎
役
者
の
幟
が
立
ち
な
ら
び
、
大
阪
の
夏
の
年
中
行
事
と
な
っ
た
。
﹁
関
西
で
歌
舞
伎
を
育
て
る
会
﹂
は
、
1
9
9
2
年
︵
平
成
4
年
︶
﹁
関
西
・
歌
舞
伎
を
愛
す
る
会
﹂
と
改
称
し
て
今
日
に
至
っ
て
い
る
。
南
座
︵
京
都
市
︶
復
興
へ
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
1
9
7
0
年
代
後
半
期
、
東
京
で
、
仁
左
衛
門
演
じ
る
﹃
菅
原
伝
授
手
習
鑑
・
道
明
寺
﹄
の
菅
丞
相
、
鴈
治
郎
の
﹃
心
中
天
網
島
・
河
庄
﹄
の
治
兵
衛
な
ど
の
名
演
技
が
評
価
さ
れ
、
両
優
の
実
力
が
開
花
し
た
。
若
手
で
は
、
片
岡
孝
夫
が
東
京
の
五
代
目
坂
東
玉
三
郎
と
共
演
し
た
﹃
桜
姫
東
文
章
﹄
が
若
い
観
客
の
人
気
を
集
め
、
関
西
勢
か
ら
ス
タ
ー
が
久
し
ぶ
り
に
誕
生
し
た
。
ま
た
、
三
代
目
市
川
猿
之
助
は
三
代
目
延
若
よ
り
宙
乗
り
や
早
替
わ
り
な
ど
の
演
出
を
受
け
継
ぎ
、
一
連
の
猿
之
助
歌
舞
伎
に
多
用
し
て
人
気
を
集
め
、
道
頓
堀
中
座
の
公
演
が
成
功
。
そ
れ
ま
で
邪
道
扱
い
を
受
け
て
い
た
上
方
仕
込
み
の
ケ
レ
ン
が
改
め
て
見
直
さ
れ
た
。
1
9
8
4
年
︵
昭
和
59
年
︶
に
、
国
立
文
楽
劇
場
が
開
場
、
人
形
浄
瑠
璃
専
門
劇
場
だ
が
歌
舞
伎
公
演
も
積
極
的
に
行
わ
れ
る
な
ど
、
関
西
歌
舞
伎
に
も
明
る
い
ニ
ュ
ー
ス
が
相
次
ぎ
、
よ
う
や
く
復
興
へ
進
む
こ
と
に
な
っ
た
。
国
立
文
楽
劇
場
︵
大
阪
市
︶
多
く
の
人
々
の
努
力
に
よ
り
、
昭
和
か
ら
平
成
に
変
わ
る
頃
に
は
東
西
と
も
に
歌
舞
伎
が
ブ
ー
ム
と
な
り
、
1
9
9
1
年
︵
平
成
3
年
︶
二
代
目
中
村
扇
雀
が
三
代
目
中
村
鴈
治
郎
を
襲
名
す
る
こ
ろ
に
な
る
と
大
阪
で
も
若
い
歌
舞
伎
フ
ァ
ン
が
増
え
た
。
た
だ
同
年
に
延
若
が
関
西
歌
舞
伎
の
再
建
を
目
前
に
死
去
し
た
の
は
一
大
痛
恨
事
だ
っ
た
。
ほ
か
1
9
8
3
年
︵
昭
和
58
年
︶
に
二
代
目
中
村
鴈
治
郎
が
、
1
9
9
3
年
︵
平
成
5
年
︶
に
は
十
三
代
目
片
岡
我
童
が
、
1
9
9
4
年
︵
平
成
6
年
︶
に
は
関
西
歌
舞
伎
復
興
に
多
大
の
貢
献
を
し
た
十
三
代
目
片
岡
仁
左
衛
門
が
そ
れ
ぞ
れ
死
去
し
た
。
こ
こ
に
も
世
代
交
代
の
波
が
押
し
寄
せ
て
い
た
。
現
況
[
ソ
ー
ス
を
編
集
]
現
在
は
、
松
竹
に
よ
る
﹁
上
方
歌
舞
伎
塾
﹂
の
開
催
、
若
手
俳
優
の
自
主
公
演
﹁
若
鮎
の
会
﹂
な
ど
大
阪
京
都
に
根
付
い
た
歌
舞
伎
復
興
が
行
わ
れ
て
い
る
。
四
代
目
中
村
鴈
治
郎
、
三
代
目
中
村
扇
雀
、
六
代
目
片
岡
愛
之
助
、
六
代
目
上
村
吉
彌
な
ど
の
関
西
歌
舞
伎
ゆ
か
り
の
名
跡
が
若
手
に
よ
り
継
が
れ
た
り
、
上
方
演
出
に
よ
る
﹃
仮
名
手
本
忠
臣
蔵
﹄
な
ど
の
上
演
も
行
わ
れ
、
1
9
9
7
年
︵
平
成
9
年
︶
に
は
大
阪
松
竹
座
が
演
劇
専
門
の
劇
場
と
し
て
落
成
し
た
。
2
0
0
5
年
︵
平
成
17
年
︶
に
は
三
代
目
中
村
鴈
治
郎
が
上
方
に
お
け
る
伝
説
的
名
跡
の
坂
田
藤
十
郎
を
四
代
目
と
し
て
襲
名
、
近
松
門
左
衛
門
を
は
じ
め
と
す
る
埋
も
れ
た
狂
言
の
復
活
上
演
や
従
来
の
狂
言
に
お
け
る
上
方
式
演
出
の
再
現
な
ど
で
話
題
を
呼
ぶ
こ
と
も
多
く
な
っ
た
。
大
阪
松
竹
座
︵
2
0
0
9
年
︶
当
代
坂
田
藤
十
郎
は
、
﹁
や
は
り
上
方
歌
舞
伎
と
い
う
の
は
、
さ
き
ほ
ど
か
ら
い
ろ
い
ろ
申
し
上
げ
ま
し
た
が
、
多
く
の
方
に
演
じ
て
い
た
だ
く
、
見
て
い
た
だ
く
こ
と
が
ま
ず
第
一
だ
と
思
い
ま
す
。
で
す
か
ら
そ
う
い
う
こ
と
に
な
る
よ
う
に
い
ろ
い
ろ
な
意
味
で
頑
張
ら
な
い
と
い
け
ま
せ
ん
ね
。
…
…
今
度
は
そ
れ
を
や
る
よ
う
に
な
る
だ
け
の
歌
舞
伎
役
者
を
つ
く
っ
て
い
か
な
け
れ
ば
い
け
な
い
と
思
い
ま
す
。
じ
ゃ
、
ど
う
や
っ
て
つ
く
っ
て
い
く
か
と
言
っ
た
ら
、
ま
ず
上
方
歌
舞
伎
を
好
き
だ
、
や
ろ
う
と
い
う
人
間
が
多
く
な
ら
な
い
と
い
け
ま
せ
ん
。
そ
う
い
う
人
た
ち
に
は
い
わ
ゆ
る
上
方
歌
舞
伎
は
こ
う
い
う
も
の
で
あ
る
こ
と
を
理
解
し
て
も
ら
う
、
浸
透
さ
せ
て
い
く
と
い
う
こ
と
で
す
ね
。
こ
れ
が
ま
ず
一
番
大
事
だ
と
思
い
ま
す
﹂
と
語
っ
て
い
る
[
6
]
。
一
時
期
と
比
べ
る
と
、
関
西
歌
舞
伎
も
公
演
が
増
え
、
上
方
風
の
演
出
と
埋
も
れ
た
作
品
の
紹
介
の
ほ
か
人
材
育
成
や
施
設
面
の
充
実
な
ど
か
な
り
復
活
し
て
お
り
、
歌
舞
伎
全
体
の
上
演
も
現
在
で
は
大
阪
松
竹
座
・
京
都
南
座
な
ど
で
一
年
の
う
ち
数
カ
月
お
き
に
歌
舞
伎
公
演
が
観
ら
れ
る
よ
う
に
な
っ
て
い
る
[
7
]
。
脚注
[
ソースを編集
]
^
山田庄一『上方芸能今昔がたり』P・122
^
権藤芳一『上方歌舞伎の風景』2005年 和泉書院
^
片岡仁左衛門『役者七十年』1976年 朝日新聞社
^
関西・歌舞伎を愛する会 結成四十周年記念七月大歌舞伎パンフレット 「昭和・平成・関西歌舞伎の復興の篝火」
. 大阪松竹座. (2019年7月20日)
^
関西・歌舞伎を愛する会結成四十周年記念七月大歌舞伎パンフレットp・37
. 大阪松竹座. (2019年7月20日)
^
『歌舞伎 研究と批評 15』 歌舞伎学会 雄山閣出版 1995年
^
東京では歌舞伎座が通年、国立劇場が半年以上の公演。その他の上演も活発。
カテゴリ
:
歌舞伎
初代坂田藤十郎
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出典を必要とする記事/2013年12月
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