正宗白鳥
正宗 白鳥 (まさむね はくちょう) | |
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誕生 |
正宗 忠夫 1879年3月3日 日本・岡山県和気郡穂浪村 (現・備前市穂浪) |
死没 |
1962年10月28日(83歳没) 日本・東京都千代田区飯田橋 |
墓地 | 日本・多磨霊園 |
職業 | 小説家・劇作家・文芸評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
東京専門学校文学科 (現・早稲田大学) |
活動期間 | 1904年 - 1962年 |
ジャンル | 小説・戯曲・文芸評論 |
文学活動 | 自然主義文学 |
代表作 |
『寂寞』(1904年) 『何処へ』(1908年) 『入江のほとり』(1915年) 『牛部屋の臭ひ』(1916年) 『最後の女』(1924年、戯曲) 『自然主義盛衰史』(1948年、評論) 『今年の秋』(1959年) |
主な受賞歴 |
文化勲章(1950年) 菊池寛賞(1957年) 読売文学賞(1960年) |
デビュー作 | 『寂寞』(1904年) |
親族 | 兄弟:正宗敦夫(国文学者)、正宗厳敬(植物学者)、正宗得三郎(画家) |
ウィキポータル 文学 |
正宗 白鳥︵まさむね はくちょう、1879年︵明治12年︶3月3日[1] - 1962年︵昭和37年︶10月28日[1]︶は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫︵まさむね ただお︶。別号は剣菱、影法師[1]。岡山県生まれ[1]。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、﹃塵埃﹄(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。﹃何処へ﹄(1908年)、﹃泥人形﹄(1911年)など否定的人生観を反映した作品が多い。
鋭い批評を行い、晩年は文壇の御意見番的存在であった。評論に﹃作家論﹄(1941年)、戯曲に﹃安土の春﹄(1925年)などがある。
経歴[編集]
岡山県和気郡穂浪村︵現在の備前市穂浪︶に生まれる。江戸時代の正宗家は代々網元であり、高祖父の雅明の代までは材木商も営んだ財産家であった。閑谷黌を卒業し、1896年︵明治29年︶東京専門学校︵後の早稲田大学︶に入学[1]。在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受ける[1][2]。史学科、英語科に在籍し、1901年︵明治34年︶文学科を卒業。﹃読売新聞﹄1901年7月1日に、﹁花袋作﹃野の花﹄﹂を発表し、花袋と間に論争がおこる。早大出版部を経て、1903年︵明治36年︶読売新聞社に入社[1]。文芸・美術・教育を担当し、そこで上司小剣を知った。翌1904年︵明治37年︶からは読売に劇評を寄せ始める。 1904年︵明治37年︶処女作品となる﹃寂寞﹄を発表し文壇デビューする[1]。1908年︵明治41年︶に発表した、日露戦争後の青年像を描いた﹃何処へ﹄は彼の代表作であり[1]、自然主義文学に新分野を開き注目された。読売新聞1909年9月1日-1911年6月12日に﹁落日﹂を連載。1910年︵明治43年︶読売新聞社を退社して作家として自立する[1]。1911年︵明治44年︶甲府市の油商清水徳兵衛の娘・つ禰と結婚。この頃、本間久雄は評論書﹃高台より﹄上で、諸作品から見た正宗の思想は﹁シニシズムの哲学﹂であると評している[3]。 昭和期になると、活動の主点を評論に置く。1936年︵昭和11年︶1月24日-25日の読売新聞に小林秀雄が﹁作家の顔﹂という小論文を掲載した。その中に、﹃読売新聞﹄同年1月11日-12日に正宗がトルストイについて書いた評論﹁トルストイについて﹂に対する非難が掲載されており、﹃中央公論﹄などを舞台に小林と正宗との間に﹁思想と実生活論争﹂が起こった。 1935年︵昭和10年︶、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。1940年︵昭和15年︶、帝国芸術院会員。1943年︵昭和18年︶の秋、それまで別荘として使っていた長野県軽井沢町の家に疎開し、その後1957年︵昭和32年︶に大田区南千束の家に帰るまで居住しつづけた[4]。1943年︵昭和18年︶11月3日から1947年︵昭和22年︶2月12日まで日本ペンクラブの2代目会長。1950年︵昭和25年︶文化勲章受章。1962年︵昭和37年︶膵臓癌による衰弱のため、飯田橋の日本医科大学付属病院で死去︵83歳︶。墓所は多磨霊園にある。 白鳥は6男3女の長男で、弟に画家の正宗得三郎、国文学者の正宗敦夫、植物学者の正宗厳敬が、甥に日本興業銀行第3代頭取となった正宗猪早夫がいる。代表作[編集]
小説[編集]
●﹃寂寞﹄︵1904年︶ ●﹃何処へ﹄︵1908年︶ ●﹃泥人形﹄︵1911年︶ ●﹃入江のほとり﹄︵1915年︶ ●﹃牛部屋の臭ひ﹄︵1916年︶ ●﹃毒婦のやうな女﹄︵1920年︶ ●﹃生まざりしならば﹄︵1923年︶ ●﹃戦災者の悲み﹄︵1946年︶ ●﹃人間嫌ひ﹄︵1949年︶ ●﹃銀座風景﹄︵1950年︶ ●﹃日本脱出﹄︵1949年~1953年︶ ●﹃人生恐怖圖﹄︵1956年︶戯曲[編集]
●﹃白壁﹄︵1912年︶ ●﹃秘密﹄︵1914年︶ ●﹃人生の幸福﹄︵1923年︶ ●﹃影法師﹄︵1923年︶ ●﹃ある心の影﹄︵1923年︶ ●﹃梅雨の頃﹄︵1923年︶ ●﹃ある病室﹄︵1923年︶ ●﹃農村二日の出来事﹄︵1923年︶ ●﹃隣家の夫婦﹄︵1924年︶ ●﹃最後の女﹄︵1924年︶ ●﹃大地震﹄︵1924年︶ ●﹃雲の彼方へ﹄︵1924年︶ ●﹃観劇の後﹄︵1924年︶ ●﹃柿の木﹄︵1924年︶ ●﹃老醜﹄︵1924年︶ ●﹃ある文学者の心﹄︵1925年︶ ●﹃安土の春﹄︵1925年︶ ●﹃勝頼の最後﹄︵1925年︶ ●﹃歓迎されぬ男﹄︵1925年︶ ●﹃光秀と紹巴﹄︵1925年︶評論[編集]
●﹃文壇人物評論﹄︵1932年︶ ●﹃自然主義盛衰史﹄︵1948年︶ ●﹃内村鑑三﹄︵1950年︶ ●﹃文壇五十年﹄︵1954年︶ ●﹃作家論﹄、﹃文壇的自叙伝﹄、﹃読書雑記﹄等多数ある全集[編集]
●﹃正宗白鳥全集﹄全13巻 新潮社、1965-68年 - 代表作を収める ●﹃正宗白鳥全集﹄全30巻 福武書店、1983-86年 - ほぼ全文業を収む伝記[編集]
●後藤亮﹃正宗白鳥 文学と生涯﹄思潮社、1966 ●高橋英夫﹃異郷に死す 正宗白鳥論﹄福武書店、1986 ●大嶋仁﹃正宗白鳥 何云つてやがるんだ﹄ミネルヴァ書房︿日本評伝選﹀、2004脚注[編集]
(一)^ abcdefghij“正宗白鳥|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2022年8月1日閲覧。 (二)^ 中村武羅夫 1909, pp. 206–207. (三)^ 本間久雄 1913, pp. 96–97, 153。同書ではギ・ド・モーパッサンとの比較論も展開されている。 (四)^ ﹃日本文学全集 第12巻﹄︵河出書房, 1967︶345頁参考文献[編集]
●中村武羅夫﹃現代文士二十八人﹄日高有倫堂、1909年。
●本間久雄﹃高台より﹄春陽堂、1913年。
関連項目[編集]
●岡山県出身の人物一覧 ●早稲田大学の人物一覧 ●岩野泡鳴 友人 ●小川未明 友人外部リンク[編集]
- 正宗白鳥 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
- 正宗 白鳥:作家別作品リスト - 青空文庫
- 早稲田と文学(正宗白鳥) - ウェイバックマシン(2015年10月4日アーカイブ分) - 早稲田大学
- 正宗白鳥 - 吉備路文学館
- 正宗白鳥と敦夫(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館