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考古学からみたアイヌ文化を北海道の擦文(さつもん)文化消滅以降と考えると、その成立年代は13世紀末ごろとすることができる。アイヌ文化の成立の基盤となったのは擦文文化であり、その担い手もアイヌであるといえる。そしてその存続年代と文化圏などから考えて、それは「エゾ」(蝦夷)とよばれる人々と結び付けることができる。
アイヌ文化の成立期を13世紀以降から15世紀ころと考えると、その時期になんらかの「アイヌ文化の基本形態の形成」があったとしなければならない。考古学の成果をみると、住居構造の転換に伴う内耳(ないじ)土器そして内耳鉄鍋(てつなべ)の使用がその時期にみられる。それは、壁際に設けられたかまどによる生活から、屋内中央に設けた炉を囲む生活への転換を意味する。火に対する信仰・儀礼形態が確立しつつある時期であり、火と火の神への祈りを生活の中心に置いたアイヌの精神的な変換期でもある。それを推進させた外的要因として、内耳鉄鍋で代表させうる各種の本州産品の北海道への流入がある。外的物質文化による変換である。そしてこのような和産物の流入は、平等、互恵的な交易ではなく、アイヌ地への武力を背景にした和人の侵略を伴うことになる。その結果、アイヌは自己の手になるチャシ(砦(とりで)、柵(さく))を構築し、和人と相対することとなる。ここにアイヌ文化の重要要素の一つであるチャシが登場し、それは16世紀以降にきわめて軍事的色彩を濃くしていき、1789年のクナシリ・メナシの戦いまで続く。
一方、炉と火の神を中心とした精神的変換を契機に諸儀礼の確立がみられる。考古学的には「物送り場」の調査によって証明される。食用動物や日常生活具、祭具などの霊的存在を天上の神々のもとに送り返す儀礼の最終的な場である。その対象がすべてにわたり、かつ送り場の数も増加するということは、擦文文化以降の精神的変革を意味している。この送り儀礼の最高の姿が仔熊(こぐま)飼育型のイオマンテである。また死者に対しては伸展葬の墓制が確立してくる。このように擦文文化を基盤として、一部に骨塚儀礼や動物信仰などのオホーツク文化の精神文化的影響を受けて、アイヌ文化が成立してくるわけである。考古学的には18世紀末までの「原アイヌ文化」とそのあと現代までつながる「新アイヌ文化」に分けられる。
[宇田川洋]
1457年(長禄1)蝦夷(えぞ)地南部で起こったコシャマイン(?―1457)らの一大蜂起(ほうき)は、アイヌ勢有利のうちに戦いを進めながらも、結果的にはアイヌ側の敗北に終わる。こののち、およそ1世紀にわたってアイヌ、和人間の闘争が続けられる。そのおもなものには、1515年(永正12)のショヤコウシ兄弟の蜂起、1529年(享禄2)タナサカシ(?―1529)の蜂起、1536年(天文5)タリコナ(?―1536)の蜂起などがあるが、そのいずれもが謀略をもってアイヌの指導者を殺すことで収拾が図られている。こうしたアイヌ・和人闘争の過程で和人勢力の再編が進み、安東氏一派から蠣崎(かきざき)氏(後の松前氏)への勢力の交代があり、蠣崎氏によって蝦夷地の和人が統一される。1550年(天文19)には、蠣崎氏とセタナイのハシタイン(生没年不詳)、シリウチのチコモタイン(生没年不詳)との間に一種の和平協定(蝦夷商船往還の制)が結ばれ、アイヌ・和人の協調の時代となった。
こののち、松前氏が豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康によって蝦夷地の支配権を認められ、松前藩が成立する。米のとれない蝦夷地では、要所要所に商場(あきないば)(場所)という交易所を設け、そこでの対アイヌ交易権を家臣に知行として与えた。商場は複数のコタン(集落)を含んだり、従来のアイヌの勢力範囲を越えて設けられたり、さらに交易に不正が伴うなど、アイヌの側の不満が高じていき、ついに1669年(寛文9)に大規模なアイヌの蜂起となる。有名な「シャクシャインの蜂起」である。和人がシャクシャイン(?―1669)らを謀殺することで戦いは鎮められるが、この戦争を収拾することで、松前藩は実質的な蝦夷地全域の支配権を確立する。この前後から知行地である商場の経営を、運上金を収めることで商人にゆだねるようになる。「場所請負制」である。これによってアイヌは、和人による蝦夷地支配という枠のなかに組み込まれ、従属を余儀なくされる。商人は利潤をあげるためにアイヌを酷使し、また、梅毒などの伝染病を持ち込むなどの無理無体を重ねた。そうした不満が高じて、1789年(寛政1)にはクナシリ、メナシなど東部のアイヌが蜂起した。このクナシリ・メナシの戦いでは松前藩の正規兵は直接戦闘を行わず、むしろ、和人の意向をくんだイコトイ(?―1820)、ツキノエ(生没年不詳)らの同胞の説得によって蜂起を収拾した。この蜂起を最後として、大規模なアイヌ・和人闘争は終わりを告げる。アイヌは完全に和人の支配下に入るのである。
この間のアイヌと和人の勢力関係は、1550年の協定までをアイヌ和人拮抗(きっこう)期、シャクシャインの蜂起前後までを和人優位期、それ以後を和人支配期とそれぞれ性格づけることができよう。
[佐々木利和]
明治維新以降のアイヌは、幕末以来急速に進められていた内民化政策をいっそう受けることとなった。まず、それまで「異域」を意味した呼称方式「蝦夷地」が、古代以来の国家領域の理念といえる北海道と改称され、明治国家の行政区画割が導入されるに至り事実上消滅する。それとともに、もともとその土地に居住していたアイヌは、戸籍法の施行に基づき平民籍に編入され、日本式姓名をもって戸籍簿に登載される一方、「旧土人」といった新式呼称方式の創出によって「新平民」同様、別の差別を受けることとなる。
こうして外面的に明治国家の構成員に加えられたアイヌは、明治政府によって一貫して「内地人民と同一」になること、すなわち「同化」政策(勧農と教育をセットにした統合)を受けることとなる。具体的には、男子の耳環(みみわ)、女子のいれずみの禁止などをはじめ、アイヌ固有の生産様式である狩猟、漁労法の禁止などが、アイヌ側の抵抗にもかかわらず強引に実行され、あわせて勧農や日本語、日本文字使用が奨励された。またアイヌの子弟多数が東京の開拓使仮学校に送られ、そこで日本式教育を受けたのをはじめ、樺太(からふと)(サハリン)と千島の領土の交換(1875)によって両地方から強制移住させられたアイヌへも勧農と日本式教育が実行された。それらは急激な生活環境の変化をもたらし、アイヌをいっそう衰微させるのみであった。
1899年(明治32)「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌの農耕民化と日本式教育の徹底を通して「皇国臣民」化の完成が意図された。施行後17年を経過した1916年(大正5)では、アイヌのうち農業従事者は52%に達したが、年間の収入は一般農家の4分の1程度にすぎず、格差は歴然としていた。教育においても、アイヌの子弟のみを教育する「旧土人学校」が1901年(明治34)から1916年(大正5)までに21校(うち2校はすでに廃校)開校され、アイヌの子弟の就学率も1901年に45%弱(全道平均77%)であったものが、15年後の1916年には94%弱(同99%)と著しく高まった。しかしこの数字の裏には、アイヌの統合に対するとまどいや不信感を読み取らねばならない。
そういう過程でアイヌの自発性を引き出し、主体性をある程度認める小組織集団づくりが官主導のもとに進められた。すなわち青年団、処女会などの名称をもって、知徳の啓発、生活改善、貯蓄奨励、飲酒矯正など、いわば「臣民」としての要素の修養を等しく掲げた「地方改良運動」の展開である。
やがて昭和初期に入ると、これらの運動が発火剤となってアイヌ自身による二つの動向を生み出した。一つは、近代におけるアイヌの苦悩はまさしく北海道開拓にあると糾弾する個性の形成と、一つは、自主的に自民族の生活改善と「同化」を高めようとする運動の出現である。前者が違星北斗(いぼしほくと)による短歌運動(同人誌『コタン』)であり、後者が北海道アイヌ協会の運動(機関誌『蝦夷の光』)である。満州事変が契機となった「国民自力更生運動」は、アイヌの居住する村々へも浸透し、チン青年団(『ウタリ之光り』)や北海小群更生団(『アイヌの同化と先蹤(せんしょう)』)などの運動となって現れた。そしてアジア太平洋戦争ではアイヌも出征兵士として多数戦場に送られ、中国や沖縄で「皇軍アイヌ兵」として戦った事実が明らかにされている。
敗戦後、民主化の動きとともにアイヌ問題への新たな取組みが活発化し、『アイヌ新聞』(アイヌ問題研究所)や『北の光』(北海道アイヌ協会)などが発刊された。
その後1970年代以降、民族問題としてアイヌ民族をはじめ民族を超えた幅広い層の人々によって民族差別、教育、民族文化保存の問題など、民族の誇りと人権の復権を目ざした粘り強い闘いが展開されるに至った。そのような活動とともに1980年代にははじめて『アイヌ資料集』全15巻(1980~1985年)が刊行され、アイヌ史研究の基本文献が復刻されたり、北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会による『アイヌ史』資料編1~4、活動編(1988~1994年)が刊行されるなど、アイヌ民族独自の歴史編纂(へんさん)活動が活発化した。
これらを受けて1994年(平成6)6月に北海道立アイヌ民族文化研究センターが札幌に開設され、全国初のアイヌ民族文化の総合的な研究機関が誕生した。それとともに同年7月には萱野茂(かやのしげる)(1926―2006)参議院議員が繰上げ当選を果たし、アイヌ民族では初の国会議員の誕生となった。そして懸案だったところの「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ新法」の立法化を積極的に働きかけ、1997年5月「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化法)を公布、同年7月施行となった。これに伴い、「北海道旧土人保護法」「旭川市旧土人保護地処分法」は廃止された。また、アイヌ文化法に基づき同年7月、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」が設立され、アイヌ民族の誇りが尊重される社会を目ざして大きな第一歩を踏み出した。しかし、いまなおアイヌ民族問題はさまざまな面で多くの課題を残している。
[海保洋子]
アイヌの伝統文化とその技術は、狭義の意味では経験豊かな古老たちが少なくなり、社会的条件も重なって、学習し次世代に継承していくことの困難な状況にあるといえよう。しかし、近年、若い世代を中心に、自分たちの民族的なアイデンティティを確かめ、父祖伝来の文化の継承可能な部分を現在に生かしながら、新たな伝統を構築し裾野を広げていこうとする大きな動きがあることは注目される。ことに1997年7月施行の「アイヌ新法」に基づく文化振興のための「機構」の設置による事業展開が新しい状況をつくりだしている。つぎに記述するアイヌの伝統文化は、17~19世紀半ばごろまでに展開されたもので、アイヌ自身の体験や見聞、口誦伝承、和人の記録などによって再構成されたものである。これらの伝統文化のなかから、現代に再生し、持続させていく試みや実現したものも少なくない。そうした意味で、伝統文化のかなりの部分は時代の状況に応じて変容しながら継承されつつある。
[大塚和義]
ずっと昔はアイヌが住居を構える場合いちばん重要なことは、近くで食糧を入手できること、次はチセ(家)の近くに寒中でも凍らない湧水(わきみず)があることであった。家はたいていの場合一部屋で仕切りがなく、夫婦の寝床は蒲(がま)草で編んだ茣蓙(ござ)を垂らしてあった。建て方は、大地に穴を掘り直接柱を立て、柱は腐食しにくいドスナラかエンジュを使った。旭川(あさひかわ)地方は屋根や囲いは笹(ささ)だが、沙流川地方は萱(かや)が主で、その場で手に入れやすい材料を用いる。屋外にはルカリウシ(男女別々の便所)があり、ほかにクマの檻(おり)がある場合もあるが、仔熊(こぐま)を生け捕ったときのみのもので、かならずあるというものではなかった。プ(倉)は干肉や干魚を貯蔵し、ときにはヒエやアワなどを穂のままトッタという大袋に詰めて入れて置き、必要のない場合は梯子(はしご)を外し、ネズミが倉へ入ることを防いだ。仮小屋は、山猟や川漁に行き野宿あるいは数日滞在するときに、フキの葉、青草、松葉などその場で手に入るものを材料にしてつくる。
[萱野 茂]
アイヌには「ユカラ(ユーカラ)」とよばれる吟誦(ぎんしょう)形式の叙事詩がある。このユカラには鳥獣などの自然のカムイ(神)が自らの身上を叙する「カムイ・ユカラ」(神謡)、アイヌの始祖神の功業を内容とする(日高地方の)「オイナ」(聖伝)、さらに人間の英雄を主人公とし、その武勲、遍歴を物語る狭義の「ユカラ」(英雄詞曲)などがある。そのうち、重要な神話的内容をもっているのは「カムイ・ユカラ」と「オイナ」であるが、その他にも各地の伝説などに断片的ながら神話的説話や観念がみられる。
この世の初め大地の創造にあたった神はコタンカルカムイ(国造神(くにつくりがみ))とよばれているが、この神は妹神とともに大海の中に陸地を築き、草木のない荒涼たる国土に山や川、島をつくり、そこに住む人間、動物、植物などを創造した。この国造神は鯨を串(くし)刺しにしてあぶったり、湖に入っても膝(ひざ)までしかぬれないというほどの巨人の神である。地上世界の創造が終わると、この神は妹神とともに天上の世界に帰ったが、その際、妹神が脱ぎ捨てたものが蛸(たこ)や亀(かめ)に、妹神の涙や洟(はな)が萱(かや)や他の雑草になったと伝えられている。
天上世界にはカントコルカムイ(天をつかさどる神)があり、その命によって地上世界の造化がなされたことになっている。カントコルカムイをカンナカムイ(雷神)と同一視する伝承もある。天上世界は多数の神々の世界であり、アイヌの主要な食糧であった鹿や魚を地上の山野や川に下す神々も天上にいる。
コタンカルカムイによって国土がつくられたが、その人間世界(アイヌモシリ)に降下してアイヌに生活の知恵を授けた、いわゆる文化英雄は、アイヌラックルもしくは、オキクルミであるが、またの名をアエオイナカムイ、オイナカムイなどといい、アイヌ始祖神として尊崇され、その功績は「オイナ」に語り伝えらている。一説ではアイヌラックルは大雪山に美しく立っていたハルニレの木を母神とし、父神は天神とも、雷神とも伝えられ、地上と天上世界を縦横に駆け巡って地上の魔神を征伐して、地下世界へ撃退する。ついで、生活の基盤となる狩猟、漁労、耕作の方法、食用・薬用の植物のこと、彫り物や機織り、刺しゅうなどの男女の手仕事、家や舟のつくり方、着物を仕立てることなどを教えた。さらに、イナウ(木幣)や酒を捧(ささ)げてカムイを敬い祀(まつ)ること、祈り詞(ことば)、さまざまな信仰儀礼の由来ややり方、争いの解決や調停の仕方、男女が各々に伝えるべき伝承に至るまですべての生活習慣がアイヌラックルもしくはオキクルミによって創始されたと語り伝えられている。また、天下る際に自分の脛(すね)のなかにヒエの種を隠し持ち、人間に穀物をもたらしたのはオキクルミである。オキクルミの説話にはサマイクルという兄弟が登場し、愚者、滑稽(こっけい)者の役を演ずることも、文化英雄の性格を知るうえでは留意すべきである。
以上は創世神話であるが、日常、イナウや酒を捧げて祀られるのはアイヌの生活に直接かかわりのある自然――太陽、月、風、雨、雪や山、川、湖、そこにすむ鳥、獣、魚、昆虫、草や木――のカムイ、さらには火や船、疱瘡(ほうそう)などのカムイである。このような自然のカムイの素性、尊崇し祀られるべきゆえんを明らかにしているのが「カムイ・ユカラ」である。この「カムイ・ユカラ」の特徴は「サケヘ」という繰り返しの句をつけて、一人称形式で謡われることにある。その内容はカムイと人間との相互関係、すなわち、動物や自然そのものと人間とがお互いにどのようにかかわるべきであるかという行動や倫理的規範のわかりやすい説明である。この「カムイ・ユカラ」は、アイヌの口承文芸のもっとも大きな特徴であり、近隣の諸民族に類例のない特異なジャンルといえよう。
アイヌの伝承では天上と地上の世界のほかに、地下世界が語られているが、この死後の世界については異なる二つの観念がみられる。「オイナ」ではアイヌラックルに滅ぼされた悪神や魔物が轟音(ごうおん)とともに地下世界に墜落していくさまが謡われているが、そこは湿った魔神の国である。それとは別に、人間が死後に赴く下の世界は、地上のアイヌの村と同じ様相を呈し、そこでは地上と同じ生活が営まれている。この世との違いは昼夜や夏冬が逆である点で、このような観念は北方の諸民族にも広く共通している。神話や伝説にみる限り、アイヌの人格神の世界を構成しているのは、天上の神々と文化英雄であり、地上のカムイは人格的であるよりは自然そのものの観念化である。そして、地下世界に君臨する神は明確でない。また、諸神の間にはより「重い」神、すなわち、だいじな尊い神という序列はあっても、上下関係がみられないことは、アイヌの社会との関連で留意すべきであろう。
[荻原眞子]
古くはアイヌの子供の遊びは、大人になってから生活に必要なことを練習する場面が多く、蔓(つる)でつくった輪を転がし、横から突いて止め、槍(やり)の腕を競った。弓矢をもって小魚をとらえるのも、食物を手に入れると同時に弓が上達し、棒高跳びは身軽になるために役だった。アイヌ語だけで生活をしていた時代は遊戯など特別なものはなかったが、遊びの種類は約50種ほどあった。いずれも、狩猟民族としての心得を教えるものが多いように思われる。
[萱野 茂]
歌はさまざまな儀礼のときに、神と人間とが交歓するためのものであり、善神に対してはその加護を願い、悪神に対しては威嚇して災いを排除するためのものである。旋律は単純なものが多く、これに掛け声や手拍子や行器の蓋(ふた)をたたいて拍子音を加えることが多い。楽器の種類はごく少なく、ムックリ(口琴(こうきん))やトンコリ(五弦琴)などが知られているにすぎない。
舞踏は、呪術(じゅじゅつ)的行為としてなされるものと、儀礼のあとの余興的性格のものとしてなされるものの2種に分けられよう。前者のおもなものはタプカラ(踏舞)といわれ、長老が刀を振りかざして悪霊を払いながら足を踏みならして示威行動するものである。後者は主として女たちが楽しむ踊りで、ホリッパ(輪舞)、ウポポ(神歌)、ハララキ(鶴(つる)の舞)などがある。
[大塚和義]
アイヌに関する調査、研究は、16世紀中葉、耶蘇(やそ)会(イエズス会)の外国人宣教師たちによって始まった。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの手紙(1565)やイグナシオ・モレイラIgnacio Moreira(1538―?)の記録(1591)にアイヌに関する記載がある。ついで17世紀に入ると、ポルトガルの宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスやディオゴ・カルワーリュ(カルバリヨ)は北海道でアイヌと接触し、その風俗習慣を記録にとどめた。
1669年(寛文9)シャクシャインの蜂起(ほうき)によって人々の北方への関心は高まり、水戸藩では探検船を北海道に派遣し、実地調査を行うほどであった。新井白石の『蝦夷志(えぞし)』(1720)にはアイヌに関する詳細な記事があり、日本人による最初の研究書といえよう。18世紀末、北方からのロシアの南下によって、人々の北方への関心はさらに高まり、幕府自体も、たびたび北海道、千島、樺太(からふと)方面の調査を行った。その結果、北方に関する情報とともに、最上徳内(もがみとくない)の『蝦夷草紙』(1790)、村上島之丞(しまのじょう)(1760―1808)の『蝦夷島奇観』(1800)、村上島之丞・間宮林蔵(まみやりんぞう)の『蝦夷生計図説』(1823)、上原熊次郎(くまじろう)(生没年不詳)の『蝦夷方言藻汐草(えぞほうげんもしおぐさ)』(1804)など、アイヌに関する諸記録、図鑑、アイヌ語辞典が刊行された。
その後、欧米における近代の学問を身につけて来日した学者たちの間で、アイヌの人種論、起源論が日本人種論とともに論争された。ドイツ人学者シーボルト父子は日本石器時代人アイヌ説を、アメリカ人学者モースは、日本石器時代人はアイヌ以前に住んでいたというプレ・アイヌ説を唱え、やがて坪井正五郎(つぼいしょうごろう)をはじめとする日本人学者もこの論争に加わった。一方、バチェラー、金田一京助、知里真志保(ちりましほ)らによるアイヌ語、ユーカラの研究を母体として、風俗、習慣、歴史の研究も広く展開された。そして今日では民族学、民俗学、考古学、形質人類学、言語学などの学問の発達により、アイヌ文化の再検討の機運が熟し、北からみた日本史といった新しい課題を生み出した。また、1997年(平成9)に、アイヌ新法の制定、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」の設立によって、アイヌ民族の誇りが尊重される社会へ向けて、大きく、力強く一歩が踏み出された。
[櫻井清彦]
『埴原和郎他著『シンポジウム・アイヌ――その起源と文化形成』(1972・北海道大学図書刊行会)』▽『大林太良編『蝦夷』(1979・社会思想社)』▽『アイヌ民族博物館監修『アイヌ文化の基礎知識』(1993・草風館)』▽『北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会編『アイヌ史』資料編1~4、活動編(1988~1994)』▽『櫻井清彦著『アイヌ秘史』(1967・角川新書)』▽『高倉新一郎著『新版アイヌ政策史』(1972・三一書房)』▽『新野直吉・山田秀三編『北方の古代史』(1974・毎日新聞社)』▽『宇田川洋著『アイヌ考古学』(1980・教育社)』▽『宇田川洋著『アイヌ文化成立史』(1988・北海道出版企画センター)』▽『萱野茂著『おれの二風谷』(1975・すずさわ書店)』▽『松本茂美他著『コタンに生きる』(1977・徳間書店)』▽『新谷行著『増補アイヌ民族抵抗史』(1977・三一書房)』▽『結城庄司著『アイヌ宣言』(1980・三一書房)』▽『谷川健一編『近代民衆の記録――アイヌ』(1972・新人物往来社)』▽『河野本道選『アイヌ史資料集』Ⅰ期、Ⅱ期全15巻(1980~1985・北海道出版企画センター)』▽『海保嶺夫著『日本北方史の論理』(1974・雄山閣出版)』▽『海保嶺夫著『幕藩制国家と北海道』(1978・三一書房)』▽『海保嶺夫著『近世の北海道』(1979・教育社)』▽『海保嶺夫著『近世蝦夷地成立史の研究』(1984・三一書房)』▽『榎森進著『北海道近世史の研究』(1982・北海道出版企画センター)』▽『榎森進著『アイヌの歴史――北海道の人びと(2)』日本民衆の歴史――地域編8(1987・三省堂)』▽『松井恒幸著『遺稿から――旭川とアイヌ文化』(1983・松井恒幸遺稿集刊行会)』▽『砂沢クラ著『ク スクップ オルシペ――私の一代の話』(1983・北海道新聞社)』▽『エカシとフチ編纂委員会編『エカシとフチ』(1983・札幌テレビ放送)』▽『菊池勇夫著『幕藩体制と蝦夷地』(1984・雄山閣出版)』▽『石附喜三夫著『アイヌ文化の源流』(1986・みやま書房)』▽『北海道・東北史研究会編『北からの日本史』(1988・三省堂)』▽『花崎皋平著『静かな大地――松浦武四郎とアイヌ民族』(1988・岩波書店)』▽『上村英明著『北の海の交易者たち――アイヌ民族の社会経済史』(1990・同文館)』▽『根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ』(1990・北海道出版企画センター)』▽『菊池勇夫著『北方史のなかの近世日本』(1991・校倉書房)』▽『海保洋子著『近代北方史――アイヌ民族と女性と――』(1992・三一書房)』▽『荒野泰典他編『アジアの中の日本史Ⅳ地域と民族』(1992・東京大学出版会)』▽『貝沢正著『アイヌ わが人生』(1993・岩波書店)』▽『菊池勇夫著『アイヌ民族と日本人――東アジアのなかの蝦夷地』朝日選書(1994・朝日新聞社)』▽『海保嶺夫著『エゾの歴史――北の人びとと「日本」』(1996・講談社)』▽『河野本道著『アイヌ史――概説』(1996・北海道出版企画センター)』▽『野村義一著『アイヌ民族を生きる』(1996・草風館)』▽『小川正人著『近代アイヌ教育制度史研究』(1997・北海道大学図書刊行会)』▽『小川正人他編著『アイヌ民族近代の記録』(1998・草風館)』▽『『人類学講座5、6 日本人Ⅰ、Ⅱ』(1978、1981・雄山閣出版)』▽『梅原猛・埴原和郎著『アイヌは原日本人か』(1982・小学館)』▽『金田一京助著『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』(1931・東洋文庫)』▽『アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』(1969・第一法規出版)』▽『萱野茂著『アイヌの民具』(1978・すずさわ書店)』▽『山本祐弘著『樺太アイヌ・住居と民具』(1970・相模書房)』▽『更科源蔵著『アイヌ文学の生活誌』(1973・NHKブックス)』▽『金成マツ・金田一京助訳『アイヌ叙事詩 ユーカラ集』全9巻(1993復刊・三省堂)』▽『久保寺逸彦著『アイヌの文学』(1977・岩波新書)』▽『久保寺逸彦著『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』(1977・岩波書店)』▽『知里真志保著『知里真志保著作集』(1973~1976・平凡社)』▽『知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』(1978・岩波文庫)』▽『萩中美枝著『アイヌの文学・ユーカラへの招待』(1980・北海道出版企画センター)』▽『四辻一郎編『アイヌの文様』(1981・笠倉出版社)』▽『山田秀三著『アイヌ語地名の研究』(1982~1983・草風館)』▽『山田秀三著『アイヌ語地名を歩く』(1986・北海道新聞社)』▽『宇田川洋著『イオマンテの考古学』(1989・東京大学出版会)』▽『萱野茂著『萱野茂 アイヌ語辞典』(1994・三省堂)』▽『大塚和義著『アイヌ――海辺と水辺の民――』(1995・新宿書房)』▽『松下亘・君尹彦編『アイヌ文献目録・和文編』(1978・みやま書房)』▽『ノルベルト・アダミ編・小坂洋右訳『アイヌ文献目録・欧文編』(1991・サッポロ堂書店)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本列島の古くからの住人で,アイヌ語を母語とし,アイヌ文化のもとに同族意識をもっている人々およびその子孫をいう。文化的には北海道アイヌ・樺太(からふと)アイヌ・千島アイヌに分類できる。狭義には北海道に居住する北海道アイヌをさす。日本国内の少数民族であるため,政治的・社会的・文化的に多くの不利益な扱いをうけてきた歴史をもつが,近年は,失われた権利の回復と言語・文化の復興をめざしてさまざまな活動を行い,アイヌ新法制定運動はその大きな核となっている。往時は狩猟・採集が生業で,コタン(村)を単位とする社会生活を営んでいた。アイヌとは神に対しての「人間」であり,女に対しての「男」の意。近世文書には蝦夷(えぞ)と記されるが,アイヌと思われる「蝦夷」を記した初見は1356年(延文元)成立の「諏訪大明神絵詞」である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ただしその呼称・内容は,時代・地域によって大きく異なり,その性格を一義的に規定することを困難にしている。また,アイヌとどうかかわるかもむずかしい問題である。このことばは,もともと政治的・文化的に〈中央〉を意味した朝廷に従わない人たち(まつろわぬ民),その意味で未開・野蛮な人たち(あらぶる人)をさす中華観念にもとづいているから,人種的観念であるアイヌか日本人かという議論の立てかたとは一致しないところがある。…
…蝦夷の居住地,のちアイヌの居住地を指す。蝦夷観念の変化に伴い蝦夷地の地域概念にも変化がみられた。…
…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…
…アイヌ民族の松前藩に対する近世最後の武力闘争。近世には〈寛政蝦夷乱〉〈国後騒動〉〈寛政元年蝦夷騒擾〉などと称されたが,近代以降は〈寛政元年の蝦夷騒乱〉〈寛政の乱〉〈国後・目梨の乱〉〈クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起〉などとも称される。…
…熊の生息する北方ユーラシア,北アメリカ北部の森林地帯の狩猟民が熊を殺すときには,(1)熊の殺害,(2)肉の消費,(3)霊の送り(=甦り(よみがえり))という3場面で構成され,各場面が各種の呪言・禁忌を伴う一連の儀礼よりなる祭事を行っていた。所によってはいずれかの場面がとくに強調されることもあるが,このような〈熊の殺害をめぐる儀礼複合〉を総称して〈熊祭〉と呼ぶ(祭り的色彩の強いアイヌ,ニブヒ,ツングース,オビ・ウゴル,ラップの事例を熊祭と呼び,そのほかは熊崇拝=儀礼として区別する立場もある)。熊祭の汎北半球的分布(ツンドラ帯は除く)についてはアメリカの人類学者ハロウェルAlfred I.Hallowellの博士論文(1926)でつとに明らかにされており,各地の事例の間に驚くべき類似性のあることが注目された。…
…この東方にはインド・アフガン人種がいる。アイヌも波状毛,多毛などコーカソイド的特徴を示すが,モンゴロイド的な特徴も多く,分類が困難である。【寺田 和夫】。…
…室町中期,北海道渡島(おしま)半島を舞台にしたアイヌ民族の蜂起。1456年(康正2)春,箱館近郊志濃里(しのり)(現,函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発し,翌57年(長禄1)東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族の大蜂起へと発展した。…
…日本内での地方差があるが,整然とした形では認めにくく,かつ,そう著しいものではない。ただしアイヌは弓状紋3%・蹄状紋65~70%・渦状紋25~30%程度の白人的な出現率を示す。 先天性異常では,一見して異常と考えられる紋理の出現や,紋理の形態は異常とはいえないが,正常群との間に統計的に頻度の差がみられ,隆線の形成不全ないし形成異常が認められる。…
…インドにおいて,住居から都市までその建設の指針とされてきたシルパシャーストラ(《マーナサーラ》)や中国の風水説では,住居をミクロコスモスと考え,人体とも対応する宇宙(マクロコスモス)を反映するしかけとして説いている。無文字社会においても,バリ島やアイヌの住居に見るように,海と山,天と地,あるいは川上と川下といった方向軸に沿った民俗方位が発達し,住居はそこで世界の中心として位置づけられ,コスモス・イメージ(宇宙像)を演出する場となる。 こうして住居は,その本質において儀礼の場となる。…
… 太陽崇拝は,採集狩猟民の世界にも見られることもある。北海道のアイヌは日食や月食のときに,大地を踏みとどろかせ喚声をあげて光の神の危急を救おうとした。しかしアイヌはふつう太陽神や月神に木幣(ヌサ)をあげることはほとんどない。…
…アイヌ民族出身の言語学者,民俗学者。アイヌの叙事詩ユーカラの伝承者として有名な金成(かんなり)マツをおばとし,《アイヌ神謡集》(1923)の知里幸恵(ゆきえ)を姉として,現在の北海道登別市に生まれた。…
…国後島トウブイのアイヌの首長。生没年不詳。…
…18世紀前期に成立し,明治初年に廃止された。 近世初頭,松前藩は渡島(おしま)半島南部の和人地を直轄するとともに,それ以外の北海道の海岸部を,アイヌの各部族の支配領域に対応させて〈場所〉という領域に区分し,場所のアイヌとの交易独占権を上級家臣に知行として分与した。これは松前藩自体が江戸幕府から与えられた蝦夷地交易独占権を,家臣に分与した商場(あきないば)知行制とみられる。…
…1643年(寛永20),西蝦夷地セタナイ(現,北海道瀬棚郡)―シマコマキ(島牧郡)地域のアイヌ民族が反松前藩の行動に立ちあがった,近世におけるアイヌ民族の最初の戦い。ヘナウケはアイヌの首長名。…
…松前藩が蝦夷島統治策の一つとして,和人の定住地,村の所在地と規定した蝦夷島南部の一定地域のこと。和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。…
※「アイヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
日本の上代芸能の一つ。宮廷で舞われる女舞。大歌 (おおうた) の一つの五節歌曲を伴奏に舞われる。天武天皇が神女の歌舞をみて作ったと伝えられるが,元来は農耕に関係する田舞に発するといわれる。五節の意味は...
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