「高木正得」の版間の差分
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⚫ | '''高木 正得'''(たかぎ まさなり、[[1894年]][[1月20日]] - [[1948年]])は[[日本]]の[[昆虫学者]]、[[貴族院 |
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|出身校 = [[東京帝国大学]]・大学院 |
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|子女 = 高木衣子(長女)<br />[[崇仁親王妃百合子]](次女)<br />京極桃子(三女)<br />高丘小夜子(四女) |
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|職名 = [[貴族院議員 (日本)|貴族院議員]] |
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|就任日 = 1932年4月7日 |
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|退任日 = 1947年5月2日 |
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== 生涯 == |
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旧[[河内国|河内]][[丹南藩]]の最後の藩主[[高木正善]]の子として生まれる。[[東京大学|東京帝国大学]][[理学部]]動物学科を経て東京帝国大学[[大学院]]修了。昆虫学、[[寄生虫学]]を専攻。1920年2月に襲爵。
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旧[[河内国|河内]][[丹南藩]]の最後の藩主・[[高木正善]]の子として生まれる。[[1920年]]︵[[大正]]9年︶2月、父・正善の死去により、[[家督]]を相続し、子爵となる。[[1922年]]︵大正11年︶、[[東京大学#沿革|東京帝国大学]][[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理学部]]動物学科を卒業する。その後、東京帝国大学[[大学院]]を修了した。昆虫学、[[寄生虫学]]を専攻した。1932年︵昭和7年︶4月7日、補欠選挙で[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に当選し<ref>﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、39頁。</ref>、1947年︵昭和22年︶5月2日の貴族院廃止まで在職した{{R|貴参}}。
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貴族院議員 |
貴族院議員の他に[[司法省 (日本)|司法]][[参与官]]も務めた。公務の傍ら、[[チョウ]]や[[カミキリムシ]]を研究した。[[昭和]]初期には、[[秋田県]]の官民共有林の払い下げを巡って[[詐欺]]的行為を働き、[[告訴]]を辛うじて免れて[[名古屋市]]に移住したといわれる<ref name =華族>﹃明治・大正・昭和 華族事件録﹄343頁。</ref>。名古屋では生活に窮し、[[風船]]売りで生計を立てたこともある{{R|華族}}。
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戦後は[[東京都]][[渋谷区]]の |
戦後は財産税7万円余を払えずに自宅を物納した。皇室の外戚であることから仕事探しには苦労した<ref>{{Cite book |和書 |author=千田稔 |title=華族総覧 |publisher=講談社現代新書 |year=2009-07 |page=298-299 |isbn=978-4-06-288001-5}}</ref>が、[[東京都]][[渋谷区]]の関東女子高等学校︵現在の[[関東国際高等学校]]︶に奉職した。しかし、[[1948年]][[7月8日]]、﹁呉れゞゝも捜してはいけません。無駄です。自然に融合して還元するのみ﹂との[[遺書]]を残し、昆虫採集用の[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を持ち出して失踪し、大騒ぎになった。貴重な研究資料だった蔵書や昆虫標本類を[[戦災]]でことごとく焼失した上、それらを集め直すことが[[華族]]制度廃止で不可能になった悲しみと絶望が失踪の理由だったのではないかと妻の邦子は推測した。
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[[1948年]][[11月1日]]、[[奥多摩]]の[[雲取山]]中にて白骨死体となって発見された。[[縊死]]と考えられている。奥多摩は、かつて足繁く昆虫採集に通った思い出の地だった。
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== 親族 == |
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邦子 |
妻の邦子の父は[[入江為守]]、弟は[[昭和天皇]]の[[侍従長]]で[[随筆家]]の[[入江相政]]。家督は長女・衣子の夫である高木正順︵[[男爵]][[木越安綱]]の七男︶が継いだ。次女の[[崇仁親王妃百合子|百合子]]は[[三笠宮崇仁親王]]妃、三女の桃子は京極高晴︵[[京極高修]]の長男︶の妻、四女の小夜子は[[高丘季昭]]の妻となった。
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甥の[[高木正征]](弟・正秋の子息)は、1920年代に[[陸上競技]]([[短距離走]])選手として[[100メートル競走]]に日本記録を樹立した<ref>[[保阪正康]]『100メートルに命を賭けた男たち』[[朝日新聞社]]、1984年、pp.105 - 110</ref>。 |
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== 栄典 == |
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* [[1941年]](昭和16年)[[11月11日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』第4456号「叙任及辞令」1941年11月14日。</ref> |
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== 参考文献 == |
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*『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 |
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*衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 |
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*千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』新人物往来社、2002年。 |
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== 関連項目 == |
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* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]] |
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| title = 子爵 |
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| years = ([[丹南藩|丹南]])[[美濃衆|高木家]]第2代<br />1920年 - 1947年 |
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| before = [[高木正善]] |
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| after = 華族制度廃止 |
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[[Category:高木 |
[[Category:丹南高木家|まさなり]] |
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[[Category:昆虫学者]] |
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[[Category:貴族院子爵議員]] |
[[Category:貴族院子爵議員]] |
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[[Category:昭和時代の貴族院議員]] |
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[[Category:1894年生]] |
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[[Category:自殺した人物]] |
[[Category:自殺した日本の人物]] |
2024年3月2日 (土) 06:45時点における最新版
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高木 正得 | |
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生年月日 | 1894年1月20日 |
没年月日 |
1948年11月1日(54歳没) (遺体発見) |
死没地 | 雲取山 |
出身校 | 東京帝国大学・大学院 |
称号 | 従四位、子爵 |
配偶者 | 邦子 |
子女 |
高木衣子(長女) 崇仁親王妃百合子(次女) 京極桃子(三女) 高丘小夜子(四女) |
親族 |
高木正善(実父) 入江為守(義父) |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1932年4月7日 - 1947年5月2日 |
生涯[編集]
旧河内丹南藩の最後の藩主・高木正善の子として生まれる。1920年︵大正9年︶2月、父・正善の死去により、家督を相続し、子爵となる。1922年︵大正11年︶、東京帝国大学理学部動物学科を卒業する。その後、東京帝国大学大学院を修了した。昆虫学、寄生虫学を専攻した。1932年︵昭和7年︶4月7日、補欠選挙で貴族院議員に当選し[2]、1947年︵昭和22年︶5月2日の貴族院廃止まで在職した[1]。 貴族院議員の他に司法参与官も務めた。公務の傍ら、チョウやカミキリムシを研究した。昭和初期には、秋田県の官民共有林の払い下げを巡って詐欺的行為を働き、告訴を辛うじて免れて名古屋市に移住したといわれる[3]。名古屋では生活に窮し、風船売りで生計を立てたこともある[3]。 戦後は財産税7万円余を払えずに自宅を物納した。皇室の外戚であることから仕事探しには苦労した[4]が、東京都渋谷区の関東女子高等学校︵現在の関東国際高等学校︶に奉職した。しかし、1948年7月8日、﹁呉れゞゝも捜してはいけません。無駄です。自然に融合して還元するのみ﹂との遺書を残し、昆虫採集用の青酸カリを持ち出して失踪し、大騒ぎになった。貴重な研究資料だった蔵書や昆虫標本類を戦災でことごとく焼失した上、それらを集め直すことが華族制度廃止で不可能になった悲しみと絶望が失踪の理由だったのではないかと妻の邦子は推測した。 1948年11月1日、奥多摩の雲取山中にて白骨死体となって発見された。縊死と考えられている。奥多摩は、かつて足繁く昆虫採集に通った思い出の地だった。親族[編集]
妻の邦子の父は入江為守、弟は昭和天皇の侍従長で随筆家の入江相政。家督は長女・衣子の夫である高木正順︵男爵木越安綱の七男︶が継いだ。次女の百合子は三笠宮崇仁親王妃、三女の桃子は京極高晴︵京極高修の長男︶の妻、四女の小夜子は高丘季昭の妻となった。 甥の高木正征︵弟・正秋の子息︶は、1920年代に陸上競技︵短距離走︶選手として100メートル競走に日本記録を樹立した[5]。栄典[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
●﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。 ●科学朝日編﹃殿様生物学の系譜﹄朝日新聞社、1991年。 ●千田稔﹃明治・大正・昭和 華族事件録﹄新人物往来社、2002年。関連項目[編集]
●自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧日本の爵位 | ||
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先代 高木正善 |
子爵 (丹南)高木家第2代 1920年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |