YS-11︵ワイエス いちいち︶は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は﹁ワイエスいちいち﹂だが、一般には﹁ワイエスじゅういち﹂、または﹁ワイエスイレブン﹂、﹁ワイエスワンワン﹂と呼ばれることが多い︵後述︶。
2006年をもって日本においての旅客機用途での運航を終了した。海上保安庁で使われていた機体は2011年に退役し、それ以外の用途では自衛隊で輸送機として運用されていた︵後述︶。また、東南アジアへ売却された機体も多くが運航終了となっている。一部の機体はレストアされて解体こそ免れ、動態保存されている機体もあるものの、機体そのものが旧式であることもあり、運用されている場面は稀である。
機体の設計者たちは戦前に軍用機設計に携わってはいたが、旅客機の設計をしたことがない︵それどころか乗ったこともない︶者がほとんどであった。このため設計は軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪い、︵後述する理由で︶操縦者に対する負担が大きいという、民間旅客機でありながら軍用輸送機に近い性格の機体となってしまった。快適性・安全性・経済性が重視される民間機としては好ましくなく、運用開始した航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。
量産が開始されても現場では設計図通りに取り付けられず位置の変更が行われていたなど、初期には試作状態であった[7][25]。
それでも日本の航空業界側は﹁日本の空は日本の翼で﹂という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて東亜国内航空では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。
機齢が50年を超えた機体もある。自衛隊では2021年まで使用された。
航空大国アメリカでは﹁日本製の飛行機﹂、﹁ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機﹂、﹁ピードモント航空が使っていた飛行機﹂という形で知られている。
YS-11の軍用機的性格が良い方に働いた例として、機体の頑丈さが挙げられる。航空先進国であった欧米では、民間輸送機開発に際してすでに耐用年数などを踏まえた合理的な機体設計を行うようになっていたが、YS-11は戦後日本で初の本格的旅客機であるため、安全率を過大なまでに確保していた。主翼については約19万飛行時間、胴体は約22万5千時間に相当する疲労強度試験を行っている。東京・調布市にある航空宇宙技術研究所︵NAL, 現JAXA︶では26か月にわたり大きな水槽の中に胴体を沈め、内圧の増減を繰り返す胴体強度試験を行った︵コメット連続墜落事故の検証で使われたものと、ほぼ同じやり方である︶が、9万時間までどこも損傷することはなかった︵最終的に試験装置の方が損傷し、終了した︶
しかしその頑丈さは重量増加という欠点にもなって跳ね返ってきた。近代旅客機の常道通りに総ジュラルミン製のモノコック構造であるが、強度重視で重量過大となり、出力の限られたエンジンに対しては重すぎる機体となった。元テストパイロットの沼口正彦は退役後のインタビューにおいて、﹁YS-11はパワー不足が目立った﹂とも語っている。YSの出力不足は、沼口に限らず多くのパイロットから指摘されている弱点である。全日空の機長としてYS-11に乗務したことがある内田幹樹はその著書﹃機長からアナウンス﹄で﹁最初はあまりのパワーのなさに驚いた﹂、﹁そのうえコクピットの居住環境も、寒すぎたり暑すぎたりとほんとうに最悪だった﹂、﹁飛行機マニアにいまでも人気が高いようだが、これはまったく理解できない﹂、﹁クラウンに軽自動車のエンジンを乗せたような飛行機﹂、﹁パイロット仲間でもYS-11に愛着のある人をほとんど知らない﹂と酷評している[26]。また重量のためタイヤに負担がかかり頻繁に交換が必要だという[27]。
量産1号機にあたるJA8610は国立科学博物館によって羽田空港のT101格納庫に保管されているが、同機は前述のJA8709が動態保存されるまではYS-11で唯一の動態保存機で、常設展示こそされなかったものの、定期的にエンジンに火が入れられる予定となっており、﹁頑丈さを証明し、100年先も飛べるYSとして保存する﹂と言ったコメントも出されていた[28]。しかし同機は後述の通り2020年に保存を断念し解体搬出された。
操縦系統は油圧2系統で、緊急時のためにワイヤー1系統、合計3系統としで旅客機としての安全性を確保していた。現代の旅客機では油圧4系統などとしているが、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故の時、﹁油圧系統ばかりとせずワイヤー1系統でも残しておけば、油圧がすべて抜け落ちても、墜落は免れたのでは・・・﹂と悔やまれた。もちろん自動操縦装置も装備されており巡航高度に達すると自動操縦に切り替えるのが常識であった。
短距離離着陸︵STOL︶性能を重視して1200mの滑走路で運用可能となっていた。そのためグライダーに象徴される滑空性能に優れ、フラップ、スラットなどの高揚力装置に優れた後のボーイング727などに降下速度で劣ることとなった。これは巡航高度での飛行を早く離れなければならないこととなり燃費などで東京ー大阪などの幹線航路でハンディとなっていた。旅客数の拡大とともに、より大型のジェット旅客機の幹線航路進出を許すこととなり、YS-11はローカル航路に限定されることとなってしまった。
つまりYS-11の2倍ほどの旅客人数を運べるジェット旅客機が、上昇下降という操縦性能において、高揚力装置により経済性に優れることとなりYS-11の国内幹線路線での活躍を阻むこととなってしまった。
YS-11の設計人は﹁主翼前縁は触ってはならない﹂とした意識でいたため、前縁スラットなどの高揚力装置の採用まで踏み込めていなかった。その意味では﹁旅客機の経済性﹂をよく理解できずに﹁軍用機の感覚であった﹂と批判されても仕方がない。しかし一部で言われてきた﹁操縦系統が油圧を採用せずワイヤーのみであった︵緊急時用に装備︶﹂など操縦系統装備で劣っていたわけではなかった。
これは開発初期の市場調査︵MR‥日本航空機製造の内部では当時ORと称していた︶の失敗であり、結果として技術的に後れを取った形となってしまった。というよりは、やはりダグラス、ボーイングと言った、当時でもグローバル企業のMRを含めた総合的技術力が数段先行していたこととなる。
結果として後れを取った性能ではあるが、滑走路が短かった当時のローカル空港の活用を促進するSTOL性能には優れていたといえる。
離着陸に関してはパイロットから﹁上昇もしないんですけど、降りるのも降りてくれない﹂と評されており[27]、主翼が長めであるため滑空性能が強すぎることが指摘されている[27]。
このように、後にローカル空港の滑走路も延長された時代では特有の問題を抱えていることとなりジェット機と比較して、管制官も降下指示を早めに出したり急かさないなど配慮をしていたという[27]。
YS-11の主脚はコンベア240シリーズの主脚を住友精密工業がコピーしたものであり、構造はほぼ同一である[29][30]。コンベア240シリーズに比べてYS-11のほうが機体重が重いため、相対的に過負荷となった。前述の﹁頑丈さと過大重量﹂の項でも触れられている通り、海上自衛隊員に対するインタビューでも、タイヤ交換が頻繁に必要であったことが語られている。
また、製造時にコンベア社のマニュアルの﹁ネジを1/4回転増し締め﹂という意味の英語を誤読し﹁1/4回転緩め﹂てしまっていたために、ローラー部が噛み込みを起こし、主脚が降りなくなる事故もあった[31][32]。
脚部のオーバーホールはメーカーの住友精密工業に委託されたが、当時まだ民間旅客機の脚部の設計経験がほとんどなかった同社は、腐食除去後にどの程度の部材肉厚であれば許容可能かについての判断ができず、﹁製造時のリミットを割ることは強度上の責任が持てない﹂としてオーバーホールの度に主脚柱を交換し、これによりYS-11を運用していた各社は大きな出費を強いられた。アメリカの航空会社で価格競争の激しい立場にあったピードモント航空は、﹁オーバーホールで主脚柱が交換されるのは信じられない﹂﹁日本のエアラインはなぜ重大問題として機体メーカーの日航製を追求しないのか﹂と、これによるコスト増を非常に問題視していた[29]。
トイレを装備しているが、当時の輸送機にはまだ多かった蓄積方式︵いわゆる汲み取り構造で、消毒・消臭液を汚物タンク部に溜めてある︶を採用しており、便器に水を流す設備はなかった。汚物の液体分だけを漉し取って消毒液を混ぜ、便器の水洗に利用する﹁循環式﹂は、YS-11では一部の輸出向け機体を除いては採用に至っていない。トイレ内の照明はかなり暗めに設定されていた。この他にも冷暖房が必要な時期になると空調関係が不安定になりやすい[27]など、快適装備は旧来型で信頼性も高いとは言えなかった。
荷物棚が座席上部に存在するが、ここは帽子ぐらいの大きさのものしか収納できない︵いわゆるハットラック︶ため、大きな荷物は搭乗前に手荷物として預けるか、座席の下に置く必要があった。機内の照明には丸形の蛍光灯が使用されており、一昔前のバスを思わせる内装となっていた。日本国外で活躍している機体もほぼ機内は無改造のまま使用されていることが多く、カーゴ設備や機内サービス器具、座席上部の読書灯などにその名残を見ることができる。
一方で、初期の機体には内蔵式のタラップ︵エアステア︶が用意されておらず、地上設備の貧弱な地方空港での運用に難があるなど、ここでも旅客機としては使い勝手の悪い面が見られた。なお、後にユーザーの要望を受けて、内蔵式タラップも装備されている。
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機内
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上から冷気吹き出し口・読書灯・
客室乗務員呼び出しボタン
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トイレ
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YS-11にはいくつかの派生型式が存在する。機体の用途による違いで分かれているが、さらに納入先によって細かく区分されている。また、製造番号が付けられており、先行試作機2機は1001・1002、以下量産機は2003 - 2182である。
2003︵量産1号機︶から2048が該当する初期の生産型。2003は試作機の設計変更中に組み立てが開始されたため、生産中に同様の改良を受けている[7]。2010からは乗降口をヒンジ式からスライド式のプラグドアに変更[7]、2040から翼の防氷装置をヒーターからラバーブーツ方式︵ゴム膜に空気を送り込む︶に変更した。納入先によって仕様が細かく違うことから形式名称が違う。日本国内航空︵形式‥106、108、109、124︶が12機、全日空︵102、111︶が9機、東亜航空︵104、114︶が7機、航空自衛隊輸送機Pが4機︵103、105︶、運輸省航空局が3機︵104、110、118︶海上自衛隊輸送機M︵112、A-113︶が2機、航空大学校︵115︶が2機、輸出はフィリピナス・オリエント航空︵107、116、121︶が4機、また、リースでピードモント航空、大韓航空、ランサ航空、ハワイアン航空、クルゼイロ航空、アルゼンチン航空が採用した。このうちJA8612として使用された機体が定期便初就航の﹁聖火号﹂である。
海上自衛隊の輸送機Mのうち1機は2058だが、特別に100形 (A-113) として生産された。
1967年︵昭和42年︶製造の2050︵通算50号機︶以降の機体で、輸出を見込んで大幅に改良を施した。これはアメリカ中西部の中古機や航空部品販売を行うディーラーであるシャーロット・エアクラフト社がアメリカでの販売代理権の取得を目指して提案してきたことを受け入れた仕様であった。同社がコンサルタントを使い競合機︵フェアチャイルドFH-227︶との比較において、運航コスト、離着陸性能が優れ、短距離ローカル線で需要があると判断したが、ペイロード︵有償荷物重量︶が少ないとの指摘を受けて改良されたものであった[1]。
エンジンはタービンの耐熱性向上とプロペラ減速歯車の強化によって出力を10%増加させ、ペイロードを1トン増やした。合わせて各部の設計変更を行い、主脚ドアの内面を平滑にして脚下げ時の速度を289km/hから389km/hへ向上、同時に急降下の際に脚をエアブレーキとして使用できるようにした。座席の座面クッションを着水時の浮き具として使用できるものとし、座席間隔も860mmから790mmに改めて、64席に増やした。
2070からは内装をレザー張りからプラスチックに改め、カーテンもシャッター式ブラインドとして、ライバルになると目されたフォッカーF-28などに対抗した。また、オプションとして補助動力装置︵APU︶を搭載可能とし、空調・発電・油圧装置・エンジン始動を地上設備なしで作動可能とした。これは地上設備の貧弱な日本国外の地方空港乗り入れを目指したものである。2075からは乗降口高さを体の大きな欧米人に合わせて1.6mから1.75mに拡大、2078からはエンジンを、タービンブレードの材質変更で高温時の最大出力を4%増加したダートMk542-10Jに 、2092からは減速歯車を補強して耐久性を向上したダートMk542-10Kに変更した。
- 生産機体番号 - 2050 - 57、59 - 69、75 - 85、90 - 103、108 - 121、123、126、127、130 - 138、141 - 149、152、154、155、157 - 159、163 - 168、175 - 178
YS-11Aのうち、標準形式の旅客型である。95機が生産された。最初の発注者であるピードモント航空はYS-11-100をリース購入していたが、頑丈な機体を気に入ったものの、機内設備などがアメリカの標準的な機内サービスの水準を満たすには程遠く、日航製は大幅な改良提案を受け入れて対応した。
ピードモント向けは205型で、電子装置を一新した。アメリカの基準に合わせるためオートパイロットをスペリー製とし、フライトディレクターシステム、エア・データ・コンピュータ、電波高度計を追加し、アメリカ連邦航空局︵FAA︶のカテゴリーII着陸の追加証明を獲得した。さらに計器類を刷新、インバータの増設、左プロペラにブレーキ設置、前脚ステアリングを50度から60度に変更、床下貨物室を後方へ60cm拡大した。機内設備はアメリカの航空会社の標準とし、前方乗降口を非常用に使用するため客室乗務員席を前方に増設、ギャレー︵調理設備︶装備もアメリカの水準に合わせたものを、トイレもジェット機で使う水洗式に、洗面台には給湯器を設置、座席を米国製に変更し、前方にコートルームを増設した。当時は日本製品の信頼性が高くなく、アメリカ国内の一部の層には第二次世界大戦での反日感情がまだ残っていたこともあって、前述の通り、ピードモント航空では乗客の心理を配慮して広告宣伝や時刻表には﹁ロールスロイス・プロップジェット﹂と表記し、日本製やYS-11の表示は行わなかった。
ピードモントは205型を20機採用、続いてクルゼイロ航空が202型を8機、ヴァスプ航空が211・212を6機、オリンピック航空が220を6機、中華航空が219を2機、ポーラック・インドネシア航空が222を1機採用した。また、国内では全日空が208・213をリース含め計29機で最大のカスタマーとなり、東亜航空が217・221を11機、南西航空が209・214を5機、海上保安庁が207を2機、海上自衛隊が機上作業機T-Aに206を4機、航空自衛隊が飛行点検機︵FC︶に218を1機採用した。また、リースとしていくつかの航空会社に引き渡された。
機体の多くは最初に発注された航空会社で使用された後も、第2・第3次カスタマーによって運用され、そのほとんどが500型に、後にカーゴ︵貨物型︶に改造された。
- 生産機体番号 - 2070 - 74、86 - 89、105 - 107、128、129、139、182
YS-11Aのうち、旅客・貨物混載の機体である。16機製造。前方が貨物室、後方が客室で、自動式タラップを内蔵した乗降口を後方へ移動し、前方左側には横2.48m・縦1.83の油圧式カーゴドアを増設し、大型貨物の搭載を可能とした。また前方の床は強化された。カーゴドアはプロペラ回転面を避けるため、自衛隊の貨物機400よりも横幅を縮小している。キャビンは隔壁の移動により、30席、38席、46席の混載型、50席から62席までの全旅客型にそれぞれ転換が可能である。
大韓航空が310型を4機、オーストラル航空が309を3機、トランスエアが306を2機、エアアフリクが302・314を1機ずつ、ガボン政府が318を1機、日本国内航空が307を1機、航空自衛隊が305を1機、海上自衛隊が1機︵320→625として納入︶採用、その他リース機として生産された。多くは600型に、その後にカーゴへ改造された。
後ろから乗るYSとして、YSのマイナーチェンジタイプとしては最も異彩を放った存在であった。
- 生産機体番号 - 2124、125、150、151、160-162、174
YS-11Aの貨物専用機である。航空自衛隊に7機︵402型︶と海上自衛隊に1機︵404型︶が納入されたが、民間からの受注はなかった。胴体後部左に横3.05m・縦1.83mのスライド式カーゴドアを設置、床は全面補強を行い、44席のパッセンジャーシート、3人がけのトループシート14基︵42席︶を設置可能、担架は24台を輸送できる。航空自衛隊では小型物資投下ドアも設置されている。
- 生産機体番号 - 2122、153、156、179
- 改造機体番号 - 2050 - 57、61、62、64、65、69、75、77 - 79、81、91、92、94 - 99、109、111 - 114、117 - 122、126、127、131、141、142、147、149、152 - 154、156、157、163、165、166、176、178
YS-11A-200のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。ピードモントが1機︵205/500︶、オリンピックが2機︵220/500︶、フィリピン航空が1機︵523︶採用した。また、200のうち54機が改造された。最後まで残った日本エアコミューターの4機はこのタイプである。日本ではJA8766︵製造番号2142︶・JA8768︵製造番号2147︶の機体が最後の最後まで使用され、ファイナルにはJA8766が使用されていた。このシリーズには後にオートパイロットやTCASなどの追加装備を施したものも存在している。
- 生産機体番号 - 2104、140、169 - 173、180、181
- 改造機体番号 - 2070、71、72、73、89、106、128、182
YS-11A-300のエンジンを542-10Kに換装し、ペイロードを500kg増加した機体。最大離陸重量も増加したため、運用能力が向上した。海上自衛隊がT-Aとして2機︵320/624︶、ペリタ・エアサービスが2機︵320/623︶、リーブ・アリューシャン航空が2機︵320/623︶、ソシエテ・ジェネラル・アリマンタシオンが1機︵321/627︶、ガボン政府が1機︵321/621︶、ポーラック・インドネシアが1機を採用した。また、300のうち8機が改造された。
このタイプも-300同様、搭乗の際は後ろ側から乗り込む形となり、全日空のラストフライト機にはこのタイプが使用された。
●改造機体番号 - 2101、102、103、108、115、116、133、146
YS-11A-200のエンジンにMk543を搭載、高気温・高地運用時の片発上昇性能が向上したことで、離陸重量制限が緩和された。開発段階ではYS-11Rであり、1972年︵昭和47年︶7月に型式証明を取得した。全日空の213のうち、8機が改造の対象となった。
- 改造機体番号 - 2050 - 53、56、62、70-73、75、77、86-88、104-106、113、114、117、120、129、139、140、154、169、170、171、173
YS-11Aの第3次カスタマーが運航している、YS-11の最終形態と言える機体である。その名の通り全室貨物機であり、200/300/500/600のうち、最後まで残った機体の中から30機が改造された。
赤字が問題になっていた日航製だったが、通産省の主導で1967年︵昭和42年︶頃より、YS-11の後継機種︵YX︶の構想を練っていた。1970年︵昭和45年︶には二つの派生型まで用意していた。しかし翌年末の1971年︵昭和46年︶に政府決定によりYS-11が生産中止となったため、計画も放棄された。
YS-11J
YS-11のリージョナルジェット タイプ
●全長29.5m、全幅32m、全高8.5m。
主翼の上にロールス・ロイス/スネクマ︵SNECMA︶ M45Hターボファンエンジンを搭載、後退尾翼に改造し、最高高度7,620m︵2万5千フィート︶航続距離2,100km、巡航速度650km/hを目指した。設計図や当時の詳細パンフレットなども残っており、ジェット機は通常翼の下部分にエンジンがあるが、この機体の イラスト ではエンジンを翼上に搭載したタイプである。
YS-11S
YSX YS-11の短距離離着陸 (STOL) タイプ
●全長28.8m、全幅29m、全高7.3m。
エンジンを4基搭載、尾翼を大幅に改造して、航続距離900km、600m級の滑走路で離着陸が可能とされた。1970年︵昭和45年︶にアメリカン航空が、短距離の都市近郊路線へのSTOL機導入のため、1974年︵昭和49年︶に国際競争入札すると発表したことから計画した。入札内容は47席以上のコミューター機、開発費のかからないもの、20機から300機を購入するとしていた。候補に選ばれたのは日航製のほか、ホーカー・シドレー、コンベア、デ・ハビランド・カナダ、マクドネル・ダグラス。
YS-33
1967年︵昭和42年︶に通産省がYS-11の後継機種︵YX︶として研究を開始した。1968年︵昭和43年︶に90席前後のターボジェット機として構想され、市場調査と基礎設計を開始した。1969年︵昭和44年︶に﹁YS-33﹂と呼ばれるようになり、1300mの滑走路で離着陸性能を持つ90席前後の機体で、3発ジェットエンジンのDC-10に似た 機体 となった。1970年︵昭和45年︶に構想は更に大型化して、180席クラスのロールスロイス・ターボファンエンジン換装の機体にまで拡大した。ロールスロイス社がエンジンの開発を中止したことや、開発予算が膨らんだことに加え、日航製の赤字問題で1971年︵昭和46年︶に開発が中止された。
この研究は後に締結されるボーイング社との国際共同開発の基礎となった。
合計182機︵国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など︶が製造され、日本をはじめとする各国の航空会社や政府で使用された。一方で日本国内だけで4件の事故︵うち墜落3件︶を起こした。
日本国内ではローンチ・カスタマーとなった全日空で1970年代30機の保有がピークとなり、1980年頃より順次退役し、1991年︵平成3年︶8月31日の新潟 - 仙台間・ANA720便が最後の運航となった。一方、1971年︵昭和46年︶に日本国内航空︵JDA︶と東亜航空︵TAW︶が合併した東亜国内航空︵TDA︶では、1980年代には42機を保有する最大のオペレーターとなっていた。既に機体は生産中止となっていたことから、日本国外の中古機を買い戻して逆輸入し調達していた。これはTDAが抱える低需要のローカル線を中心とした多くの路線が、騒音問題や空港施設の関係などから、YS-11に依存しなければならなかったことが理由である。
引退直前のJACのYS-11
しかし、経年と共に整備費用︵維持費︶が上昇したことで、YS-11の経済効率の悪さが顕著になって行き、搭乗率が高くとも運航経費の上昇で赤字となる路線が多かった。1975年︵昭和50年︶の整備費の指数を100とすると、1977年︵昭和52年︶には193.7、1978年︵昭和53年︶に228、1979年︵昭和54年︶には249.1となり、加えて、燃料費の高騰、公租公課の上昇と、経済性は下がる一方となり、YS-11の就航路線で黒字を計上する例は僅かとなり、ほとんどが赤字路線へと転落、1994年︵平成6年︶3月8日の南紀白浜 - 東京便を最後に同社︵JAS︶から引退し[1]、日本の大手航空会社からは姿を消した。
日本国内の民間航空機としては引退したが、その頑丈なつくりのため自衛隊では現役にあり続けるものも少なくなく、2000年代になってもタイやフィリピンなどの発展途上国ではまとまった数の機体が各航空会社で活躍していた。また、ギリシャでは、海運王アリストテレス・オナシス率いるオリンピック航空への輸出機が転籍を経て、現在もギリシャ空軍機として使用されている。政府専用機として国家元首の移動に使用された機体もある。また、大韓航空にリースされた1機はハイジャックされ北朝鮮に抑留状態となり、その後中華人民共和国の整備工場にて修理が行われているものの、用途や以降の消息は不明である︵大韓航空機YS-11ハイジャック事件参照︶。
日本国内の官庁向けでは、10機が海上自衛隊、13機が航空自衛隊、5機が海上保安庁、6機が国土交通省︵旧運輸省︶航空局に納入され、通常の輸送任務のほか練習機や各種任務機として配備運用されている。航空自衛隊ではC-1輸送機導入までのつなぎとして導入したのが始まりだが、後にエンジンをより強力なゼネラルエレクトリック︵GE︶製のT64に換装して性能を向上したYS-11EA/EBが登場した。これらは俗に﹁スーパーYS-11﹂と呼ばれる。1990年︵平成2年︶海上保安庁のYS-11﹁おじろ﹂は樺太︵サハリン︶から全身火傷のコンスタンティン・スコロプイシュヌイを搬送する作業に使用された。
日本国内の民間航空会社においては、日本の航空法が設置を義務付ける空中衝突防止装置︵TCAS︶が搭載されていないため、機体寿命より早く引退した。特例期間として2003年︵平成15年︶9月30日まではTCASの装備なしでも飛行可能であったが、当時運航していた2社の内、エアーニッポン機材は同年8月31日をもって全機退役させることになり︵最終フライトはJA8772で女満別から新千歳︶、日本エアコミューターはTCASの簡易版である空中衝突警報装置︵TCAD︶の装備により、法律上は2006年︵平成18年︶12月31日まで運航可能の特例が認められた。上記によって2004年︵平成16年︶には、日本国内において就航させていた航空会社は日本エアコミューターのみとなり、2006年︵平成18年︶9月30日に法律上の期間を満了することなく全路線から撤退した。
また、TCAS設置が義務付けられていない自衛隊においては、航空自衛隊にて現役で使用されているほか、日本航空学園では地上訓練用の教材として現役を続けている機体が存在する。
自衛隊では1965年︵昭和40年︶から1973年︵昭和46年︶までにYS-11を23機導入した。内訳は航空自衛隊13機、海上自衛隊10機であった。この採用には、世界への信頼誇示のため、防衛庁に進んで採用してほしいとの強い要望が通産省から寄せられたという話もある。空自の一部の機体はゼネラル・エレクトリック社製 T64-IHI-10J を搭載し、プロペラを3枚に変更した﹁スーパーYS-11﹂となっている。航空法改正により日本の航空機は空中衝突防止装置の装備が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり追加装備費を要さず、かつ民間機より飛行時間が短いことから傷みも少ないため、民間YS-11が引退した後も運用されている。
航空自衛隊ではC-46の老朽化が進んでいたことから、次期輸送機導入までのつなぎとして、1965年︵昭和40年︶から1971年︵昭和46年︶にかけて、人員輸送機YS-11Pを4機、人員・貨物輸送機YS-11PCを1機、貨物輸送機YS-11Cを7機、飛行点検機︵フライトチェッカー︶YS-11FCを1機、それぞれ購入した。後に大型のC-130H輸送機が導入されたことから、余剰となったYS-11Cを他用途に改造した。2機が電子戦訓練機YS-11Eに、1機が航法訓練機YS-11NTに、2機が電子測定機︵電子偵察機︶YS-11ELに、2機がエンジンとプロペラを換装した﹁スーパーYS﹂電子測定機YS-11EBに、それぞれ改造された。EBの1機はPCからCとなったものを再改造した。YS-11ELの2機も後に﹁スーパーYS﹂化されて、YS-11EBに統合された。YS-11Eは﹁スーパーYS﹂に改造され、YS-11EAとなった。YS-11Pも2機がYS-11FCに改造された。
部品不足により、2015年6月22日に最初の1機が用途廃止となった[33]。2016年︵平成28年︶12月、防衛省は残存するYS-11のうち飛行点検隊︵入間基地︶に所属する2機のYS-11FCの後継としてサイテーション680Aを選定したことを発表した[34]。同年4月にU-125御岳墜落事故で喪失したU-125 1機の分とあわせ3機を導入した。
また防衛省航空幕僚監部では4機のYS-11EBの後継として、C-2かC-130輸送機の改造型を検討していたがC-2が選定された。2018年現在、平成31年度にC-2ベースの次期電波情報収集機RC-2を入間基地に配備する予定であった[35]。RC-2の配備式典が2020年10月1日に行われている[36]。
YS-11P
YS-11-100の航空自衛隊の人員輸送機。Pは旅客を意味する英語のPassengerの頭文字。全国の航空自衛隊基地を定期・不定期で結んでいる。主翼内インテグラルタンクとバグタンクによって燃料搭載量を7,270Lとし、航続距離を延長した。キャビンとコックピットは全日空機と同様。客席は最前列だけを後ろ向きにしてボックスとし、座席ピッチは91cmで43席とゆったりしている。また、客室は軽貨物輸送パレットか患者輸送寝台に転換可能である。4機採用がされた。
平成29年5月29日に1152号機の退役を以って、同型の全てが用途廃止となった[37]。なお、同機退役までの52年間における総飛行時間は2万3872時間。
VIP仕様機
YS-11Pの1151号機と1152号機は要人や幹部の移送のため、VIP仕様として導入された。後方にラウンジとして左右内向きの3人がけソファーを設け、右前方の荷物室に航法士席とキャビン窓を増設、男子専用トイレも追加した。1151号は後に飛行点検機に改造され、1153号機がVIP仕様に改造された。また、キャビンが近代的に改修され、前方がVIP席としてテーブルを挟んで4人掛けのシートが左右1組ずつ、中ほどに横向きソファのラウンジ、後方が客室︵28席︶となった。
YS-11PC
航空自衛隊の人員・貨物輸送機。PCは Passenger Cargoの略。P型に続いて採用した機体で、貨客混載のYS-11-300をベースとした。後にP型に統合。
YS-11C
YS-11A-400を航空自衛隊が輸送機として採用したもの。Cは貨物機を意味するCargo︵カーゴ︶の略。胴体後部左側に横3.05m・縦1.83mのカーゴドアを設置した全貨物機で、床が強化された。室内は客席にも転換可能で、パッセンジャーシート44席か3人掛けトループシート14脚42席、担架は24床を設置できる。7機を採用したが、C-130H導入によって余剰となり、全て他用途に改造された。
YS-11E
YS-11Cから改造された航空自衛隊の電子戦訓練機。EはECMの略。日本の領空を監視するレーダー網及び、その他レーダーによる防空部隊の機能を確認するため、妨害電波をかけ、その対応を訓練するための機体。胴体上面に大小のレドーム、胴体下面に2個の大型レドーム、胴体後部両側に冷却装置を設置した。これらの改造は日本飛行機が主体となって行われた。2機が改造された後、YS-11EAとなった。官民問わず日常的に使用される電波をも妨害する可能性があるため、運用は慎重かつ厳密に定められている。
YS-11EL
YS-11Cを改造した航空自衛隊の電子情報収集︵ELINT︶任務に使用される機体。ELはELINTの略。中高度で長時間飛行を行い、周辺国から発せられる電波や信号などの電子情報を収集、分析する機体。2機改造されたが、後にYS-11EBに改造された。
スーパーYS
航空自衛隊の注文により、日本飛行機が川崎重工業と石川島播磨重工業の協力を受けて開発した機体。重量増加で飛行能力が下がったC型とE型のエンジンをP-2Jで使用していたGEのT64-IHI-10Eを-10Jに改修後、換装︵再利用︶、プロペラをハミルトン・スタンダードの3枚ブレードに交換した機体の俗称。上昇限界高度は9,000mに向上し、航続距離も延長された。他のYSと飛行騒音が決定的に違うために現存するYSでもかなりの異彩を放っている機である。
YS-11EA
YS-11Eを﹁スーパーYS﹂化改造した電子戦訓練機。E型で上下7箇所あったレドームを廃し、ブレードアンテナのみとなった。また、冷却機材収容部は右側のみに、機内のECM機材もJ/ALQ-7など能力向上型に改められた[38]。2機。
YS-11EB
YS-11Cを2機﹁スーパーYS﹂化改造した電子測定機(電子情報収集機)。後にEL型2機も同型に改造して計4機。機体上下に二つずつのドームを付けているのが外見上の特徴︵冷却機材収容部もEA同様右側のみ︶2006年の北朝鮮テポドン・ノドン・スカッドミサイル発射事件の直前にはこの機体が米空軍のRC-135B電子偵察機とともに監視活動を行った。
YS-11FC
航空自衛隊の飛行試験機。FCは飛行点検機を意味する Flight Checkerの略。胴体にはVHF及びTACANアンテナを増設し、機内に航空通信設備、航空交通管制施設を検査する自動点検装置、計器着陸装置、通信装置、グラフィックレコーダー、機上録音機、信号観測用オシロスコープなどなどの無線機材が詰め込まれ、補助電力装置 (APU) を搭載して電源としている[39]。新造1機、YS-11Pの改造2機の計3機。後継機としてサイテーション680Aが導入された。2021年3月17日に1151号機の退役を以って[40][41]、同型の全てが用途廃止となった。これにより日本国内から、﹁ダートエンジン﹂として親しまれたオリジナルエンジンで4枚プロペラの現用機が姿を消すことになった[42]。
YS-11NT
YS-11Cを改造した航空自衛隊の航法訓練機。NTは航法訓練機を意味する Navigation Trainerの略。自衛隊の航法士を育成する機体で、航法/通信アンテナや六分儀が設置されている。1機。
- 配備基地
海上自衛隊は1967年︵昭和42年︶から1973年︵昭和48年︶にかけて前部が人員︵40席︶、後部が貨物の混載輸送機YS-11Mを導入した。1・2号機はYS-11-100をベースにした機体だが、3・4号機はYS-11A-300・400をベースにしており、最大離陸重量が増加した。この2機はYS-11M-Aとして区別される [注釈3]。また、1970年︵昭和45年︶から機上作業練習機YS-11T-Aを6機導入した。2009年︵平成21年︶9月、4機のうち1機が事故により用途廃止になるのを皮切りに順次引退が開始され、2014年︵平成26年︶12月26日、アメリカ海軍から中古のC-130R︵アメリカ海軍が保管している中古のKC-130R空中給油機をアメリカ国内で動作可能状態に再生して、空中給油機能を取り外した機体︶6機を後継機とし、最後まで残っていた2機の退役を持って全機用途廃止となった。整備マニュアルは独自に作成した物を利用していたという[27]。一時期、後継機としてATR 72、DHC-8 Q400、C-130J等が挙げられたが、その後白紙になっていた。
YS-11の退役に伴い、海上自衛隊の職域から機上通信員が無くなった[27]。
YS-11M
YS-11M
YS-11-100の海上自衛隊輸送機。海上自衛隊唯一の輸送機で、全国の海自航空基地を定期・不定期で結んでおり、硫黄島や南鳥島へ物資を輸送する﹃小笠原定期﹄に向かう際は座席半分を取り払って貨物スペースを拡大する[27]。
改造点は、貨物輸送のため床を強化、室内運搬装置の設置、胴体後部に大型カーゴドアを増設した。機内は60m3か最大容積8m3までの貨物を搭載できる。2機。
YS-11M-A
YS-11A-400と300/600の海上自衛隊輸送機。-400は内装では特にMとの違いはないが、YS-11Aであることから基本性能が異なる。300/600は前方が貨物室、後方が客室である。-400 1機、300/600 1機の計2機。
YS-11T-A
エプロン上のYS-11T-A
YS-11T-A
海上自衛隊の機上作業訓練機。対潜哨戒機に搭乗する乗務員を養成する機体で、胴体下部に巨大レドームを設置し、低高度任務が多いことから与圧室を廃し、空調は機器の冷却に使用されている。このため夏場は蒸し風呂となり、気圧差で耳が慣れるのに時間がかかるなど特有の問題を抱える[27]。補助電力装置 (APU) を搭載して電源としている。
当初はP-2JやPS-1の乗員を育成するため、哨戒機器もP-2Jの物を用意した。後にP-3Cが導入されると、T-Aの機器も合わせて更新された。[要出典]2011年︵平成23年︶5月31日、全機用途廃止となった[45]。これにより同年6月1日、第205教育航空隊は解隊した。
- 配備基地
海上保安庁では、1965年︵昭和40年︶のマリアナ海域漁船集団遭難事件により、多数の船員を救助できなかった痛手を教訓とし、﹁行動半径700海里において2.5時間の低空捜索能力を有する﹂長距離捜索救難機を導入することになった[46]。採用されたYS-11Aは洋上での長距離飛行に備え、航法通信設備、六分儀、偏流計などの装備を追加、また、胴体後部には直径800mmの球形見張り窓︵バブルウィンドウ︶と横向き見張り窓、胴体下面にはシーマーカーなど標識投下装置2本、救命いかだなど物資投下口も設置された。翼内バグタンクのほかに815L入り胴体タンクを3個追加し、1,300kmの空域を低空で2時間半捜索できるようになった。LA701は尾部に磁気観測ヘッドを納めた強化プラスチック製の磁気探査装置ブームが装備されており、水路の地磁気と真方位、磁方位を定期観測していた。
1969年︵昭和44年︶3月20日、羽田航空基地にLA701号機が導入され、同年には根室沖で発生した船舶火災事件で15名の救出に成功するなど、早くも航空救難に活躍した[46]。1971年︵昭和46年︶11月にはLA702号機が就役し、2機体制となった。その後、新海洋秩序による排他的経済水域の設定に伴う業務拡大で、1977年︵昭和57年︶度に全日空の中古リース機を3機購入し直し、羽田・千歳・那覇に5機が配備され、日本の領海をカバーする体制が完備された。千歳と那覇の4機には1991年︵平成3年︶5月に﹁おじろ﹂﹁しゅれい﹂の名が付けられたものの、羽田のLA701だけは名称がなかったが、1995年︵平成7年︶5月に﹁ブルーイレブン﹂と名づけられた。2000年︵平成12年︶からは﹁JAPAN COAST GUARD﹂のロゴ、次いでマスコットの﹁うみまる﹂シールも貼られた。
海上保安庁のYS-11Aは、救難や航路監視、領海警備、海底火山の観測などのほかにも、羽田所属機は特殊救難隊の空輸や南鳥島・硫黄島ロランC局の職員の送迎や物資運搬に、千歳所属機は冬季の流氷観測にも運用された。特に千歳所属機は、1990年︵平成2年︶にサハリンで大火傷を負った少年コンスタンティン・スコロプイシュヌイの北海道への救急搬送に用いられたほか、2度にわたるロシアへの緊急支援物資輸送に用いられた。﹁ブルーイレブン﹂はヨット捜索救助と中国密航船発見の功から、2度の長官表彰を受けた[46]。
老朽化により2009年︵平成21年︶2月から解役が始まり、09年12月には﹁おじろ2号﹂が解役。最後まで残った﹁ブルーイレブン﹂も、42年間の総飛行時間は2万3,000時間以上に達していた[47]上に、航空法の改正で改造が必要なことから、2011年︵平成23年︶1月13日に解役[48]。退役した機体は、部品取り用に航空自衛隊に提供された[49]。後継機には、2006年︵平成18年︶11月に、ボンバルディアのDHC-8 Q300海保仕様機を3機発注した。2009年︵平成21年︶から導入が始まり2011年︵平成23年︶1月にはYS-11を全機退役させた[50]。
戦争賠償の一環でYS-11A 2179号機︵登録番号‥JA8785︶をフィリピン航空局が購入した︵登録番号‥PI-67後にRP-77︶。1976年からはフィリピン空軍に移籍し、1993年まで701/251特別輸送飛行隊で政府専用機として運用された。2002年からはフィリピン空軍航空博物館︵英語版︶で屋外展示されている[57]。
YS-11は以下の記録を持っている。
エアーニッポンで使用していたYS-11は、1997年(平成9年)に定時離陸率99.6 - 99.8%、日本エアコミューターで運航されていたYS-11も2004年(平成16年)に定時出発率91.8%を達成している。これは世界の最新鋭飛行機でもなかなか達成できないものである。
日本エアコミューターで使用されていた登録番号JA8717︵製造番号2092︶の機体は、登録されたのが1969年︵昭和44年︶2月で、2006年︵平成18年︶9月11日までの総飛行時間は71,220時間47分、総飛行サイクルは72,359回と世界一の記録となっており、このことからもYS-11の頑丈さがわかる。また、この機体は一時日本航空に当時の日本国内航空︵JDA︶から乗務員を含むウエット・リースされて唯一日本航空のフルカラーとなり、福岡 - 釜山線を1969年4月1日から一年間の定期国際線運航を行った唯一の機体である。因みに日本航空はYS-11を保有したことはなかったが、2例だけYS-11で運航を行っていた。いずれもJDAからウエット・チャーターであり、日本航空が運航した夜間郵便専用機としての運航とこの国際線定期運航であった。
2004年︵平成16年︶9月には、台風により伊丹空港で垂直尾翼の方向舵や補助翼が脱落するなどの被害を受け、かなり大掛かりな修理が必要になった。これが他の機体であればそのまま部品取りにしていたところであるが、8717の実績と歴史的価値によって修理が決行され、ラインには同年10月に復帰した。この機体は2006年︵平成18年︶9月11日、YS-11の日としている最後の日に、奄美 - 鹿児島線のチャーター便を最後に、37年もの間一度の事故も起こすことなく有終の美を飾った後、9月12日に羽田へフェリーされフィリピンのアボイティズ航空へ売却されたのち、フィリピンでは部品供出機となり、現在はマニラ空港にある航空学校敷地内に主翼をカットされた状態で展示されている。
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航空科学博物館のYS-11試作1号機
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岐阜かかみがはら航空宇宙博物館のYS-11
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航空公園駅東口駅前広場のYS-11
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さぬきこどもの国のYS-11
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佐賀空港公園のYS-11A-500R
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コウノトリ但馬空港のYS-11
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みちのく北方漁船博物館のYS11
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三沢航空科学館のYS-11A-500
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電車とバスの博物館のYS-11シミュレータ
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阿蘇くまもと空港のYS-11
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あいち航空ミュージアムのYS-11P
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航空自衛隊美保基地のYS-11P
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フィリピン空軍航空博物館のYS-11A
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グリッサム航空博物館のYS-11A
総生産数は決して多くはないが、日本の高度経済成長期を象徴する存在の一つとしてのノスタルジーや、武骨な構造・独特のエンジン音などを持つ個性的な機体として、日本には多くのファンがいる。
日本国内の航空専門誌では「日本の名機」「日本初の名国産機」などとも評しているが、実際にはエンジンを始めとして計器類などパーツのほとんどは海外製で、重量過大や操縦性の問題といった未熟さを指摘する意見もある。
鉄道雑誌では同じ1964年東京オリンピックの前後にデビューした日本の乗り物として、陸の新幹線0系電車と対をなす存在として語られることがある。両者にはかつて軍用機製造に携わっていた人々によって作られた(YS-11については同じ航空分野のため自然な経過であるが、新幹線については三木忠直や松平精らのエピソードが著名)、という共通点がある[65]。
出典: イカロスMook 旅客機年鑑、前間孝則著「YS-11 国産旅客機を創った男たち」
- 乗員= 2名
- 定員= 56-64名
- 全長= 26.3m
- 全幅= 32.0m
- 全高= 8.98m
- 主翼面積= 94.8m2
- 胴体直径= 2.88m
- 自重= 14,600kg(A-100型)、15,400kg(A-500型)
- 最大離陸重量= 23,500kg(A-100型)、24,500kg(A-200型)、25,000kg(A-500型)
- エンジン= ロールス・ロイス ダート ターボプロップエンジン2,660-3,060 shp×2
- 最大巡航速度= 470-480km/h
- 失速速度= 140km/h
- 航続距離= 1,090km(フル搭載時)、2,200km(最大)
日本航空機製造により、3本の記録映画が製作されている。現在フィルムは製作プロダクション等が所蔵しているが、目にする機会はきわめて少ない。作品中では﹁わいえすじゅういち﹂の呼称が使われている。
なお、﹃YS-11 新しい日本の翼﹄﹃YS-11 そのすぐれた性能﹄は2004年9月にチャンネルNECOで放送されている。
この項目ではそれらと、その一部を使用し、現在[いつ?]入手可能なANAのドキュメンタリーも紹介する。
﹃YS-11の誕生﹄
1962年・日本映画新社製作・カラー・10分。YS-11の製造から、試作1号機の初飛行までを描いた作品。
﹃YS-11 新しい日本の翼﹄
1963年・日本映画新社製作・カラー・32分。YS-11の製造から、試作1号機の初飛行までを描いた作品。﹃YS-11の誕生﹄に新たな映像素材を加えて再編集したもの。初飛行をしたYSの上反角の小ささがこの映像からもわかる。2015年11月現在、科学映像館によってYouTube にて無料配信されている。
﹃YS-11 そのすぐれた性能﹄
1966年・日本映画新社製作・カラー・22分。日本貿易振興会︵JETRO︶と共同で、YS-11の日本国外プロモーションを兼ねて製作された作品。片発離着陸の様子や、日本国外向け機体の製造の様子も見ることができる。
﹃BLUE ON BLUE THE WORLD OF ANA サヨナラ YS-11オリンピア﹄
1992年・SPEビジュアルワークス製作・カラー・43分。ANAが運用していたYS-11オリンピアの飛行映像、メカニズム紹介、および前記映像の一部を使用。ワイパーの稼動状況もみることができる。
- 『ゴルゴ13』
- 第397話『黄昏のカシミール』(SPコミックス138巻)に登場。フィリピンからカシミールへのフライトで、ゲリラの対空砲火をかわしながら超低空飛行で奥地の山村へ向かう。
- 主脚を3軸に増強、コックピットにブローニングM2重機関銃(12.7ミリ機関銃)を装備、着陸用のパラシュートを装備するなど大幅な改造が加えられている。
- 『タイムスリップ大戦争』
- 19××年(昭和5×年)の日本列島が約30年前の1941年にタイムスリップした中、日本の使節を日本統治時代の朝鮮と満洲国に輸送する。後に勃発した戦争では爆撃機に改造され、クラークフィールド飛行場や米海軍機動部隊への攻撃に使用される。
- ^ その後MRJの生産拠点となる。
- ^ スプリングタブは、補助翼にも取付けられている
- ^ 4号機はYS-11A-320/625をベースにしているため前部が貨物室、後部が客室
- ^ 2020年3月までは羽田空港で保管されていたが、一般公開が限られることから、公開の在り方について検討を重ね、無償貸与という形でザ・ヒロサワ・シティにて展示されることとなった