「ジョージ・ワシントン」の版間の差分
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=== 生い立ち === |
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1732年2月22日 |
1732年2月22日、[[バージニア植民地]][[ウェストモアランド郡 (バージニア州)|ウェストモアランド郡]]コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。彼の誕生日は1731年2月11日(ユリウス暦)、1732年2月22日(グレゴリオ暦)となっている。当時の[[イギリス]]および後に[[アメリカ合衆国]]として独立する地域では[[ユリウス暦]]を採用していたが、グレゴリオ暦の方が有名である。日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。 |
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ワシントンの一家は、 |
ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷[[プランテーション]]を経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の[[ジェントリ]]であった。彼の両親、[[オーガスティン・ワシントン]](1694年11月12日 - 1743年4月12日)とその2番目の妻[[メアリー・ボール・ワシントン|メアリー・ボール]](1708年11月30日 - 1789年8月25日)は、[[イギリス]]出の家柄であり,女系から[[プランタジネット朝]]第7代[[イングランド国王]] [[エドワード3世]]の14世孫である<ref>https://famouskin.com/famous-kin-chart.php?name=3693+edward+iii+king+of+england&kin=3647+george+washington</ref>。 |
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オーガスティンは1657年に[[イングランド]]のサルグレイブからバージニアに渡ってきたジョン・ワシントンの孫であった。先妻ジェーン(1729年没)との間に4人の子をもうけたが2人だけが成長し、後妻のメアリーとの間には6人の子が生まれ、5人が成長した。 |
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ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡の[[フレデリックスバーグ (バージニア州)|フレデリックスバーグ]]に近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園を[[マウントバーノン]]と名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。 |
ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡の[[フレデリックスバーグ (バージニア州)|フレデリックスバーグ]]に近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園を[[マウントバーノン]]と名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。 |
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[[1748年]]には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた<ref>"[http://memory.loc.gov/ammem/gmdhtml/gwmaps.html Washington As Public Land Surveyor: Boyhood and Beginnings]". George Washington: Surveyor and Mapmaker. American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.</ref>。
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[[1748年]]には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた<ref>"[http://memory.loc.gov/ammem/gmdhtml/gwmaps.html Washington As Public Land Surveyor: Boyhood and Beginnings]". George Washington: Surveyor and Mapmaker. American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.</ref>。
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この仕事で得た収入で[[シェナンドー渓谷]]に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。このころローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った。 |
この仕事で得た収入で[[シェナンドー渓谷]]に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。このころローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った。 |
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[[ファイル:Masonic Memorial grounds.jpg|thumb|300px|フリーメイソンの殿堂として建てられたジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナルメモリアル]] |
[[ファイル:Masonic Memorial grounds.jpg|thumb|300px|フリーメイソンの殿堂として建てられたジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナルメモリアル]] |
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=== フレンチ・インディアン戦争 === |
=== フレンチ・インディアン戦争 === |
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[[ファイル:Washington 1772.jpg|left|200px|thumb|1772年に[[チャールズ・ウィルソン・ピール]]によって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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[[1754年]]にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス軍から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的に[[フレンチ・インディアン戦争]]の開戦を招くこととなる。 |
[[1754年]]にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス軍から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的に[[フレンチ・インディアン戦争]]の開戦を招くこととなる。 |
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* 双子、誕生時に死亡。}}。 |
* 双子、誕生時に死亡。}}。 |
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[[ファイル:Martha Dandridge Custis.jpg|200px|left|thumb| |
[[ファイル:Martha Dandridge Custis.jpg|200px|left|thumb|[[メゾチント]]版によるマーサ・ダンドリッジ・カスティスの肖像。]] |
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ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にカスティスの資産18,000エーカー (73 km<sup>2</sup>) からその3分の1にあたる土地を取得し、その残りはマーサの2人の子供たちのために管理した。その後もたびたび自分名義で土地を買い増していき、またフレンチ・インディアン戦争の報償として現在のウエストバージニアに土地の特許を認められた。[[1775年]]までにマウントバーノンは2倍の6,500エーカー (26 km<sup>2</sup>) となり奴隷を100人以上所有した。ワシントンは戦争の英雄としてまた大土地所有者として尊敬され、地域の役職を務め、1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれた<ref>Acreage, slaves, and social standing: Joseph Ellis, ''His Excellency, George Washington'', pp. 41?42, 48.</ref>。 |
ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にカスティスの資産18,000エーカー (73 km<sup>2</sup>) からその3分の1にあたる土地を取得し、その残りはマーサの2人の子供たちのために管理した。その後もたびたび自分名義で土地を買い増していき、またフレンチ・インディアン戦争の報償として現在のウエストバージニアに土地の特許を認められた。[[1775年]]までにマウントバーノンは2倍の6,500エーカー (26 km<sup>2</sup>) となり奴隷を100人以上所有した。ワシントンは戦争の英雄としてまた大土地所有者として尊敬され、地域の役職を務め、1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれた<ref>Acreage, slaves, and social standing: Joseph Ellis, ''His Excellency, George Washington'', pp. 41?42, 48.</ref>。 |
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=== アメリカ独立戦争 === |
=== アメリカ独立戦争 === |
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[[ファイル:Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851.jpg|thumb|350px| |
[[ファイル:Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851.jpg|thumb|350px|[[デラウェア川]]を越えるワシントン]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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[[1775年]]4月の[[レキシントン・コンコードの戦い]]後、ワシントンは第二次大陸会議に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを知らしめた。ワシントンには威信があり、軍隊での経験、カリスマ性と軍人らしい態度、強い愛国者という評判があり、さらに、特にバージニアを初めとする南部諸邦の支持があった。指揮官の職を明白に求めたわけではなく、むしろそれには釣り合わないと主張したが、ワシントンに見合うような対抗馬がいなかった。大陸会議は[[6月14日]]に[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]を創設し、[[6月15日]]にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表[[ジョン・アダムズ|ジョン・アダムス]]はワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は[[7月3日]]に司令官として就任し、[[アメリカ独立戦争]]を戦った。 |
[[1775年]]4月の[[レキシントン・コンコードの戦い]]後、ワシントンは第二次大陸会議に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを知らしめた。ワシントンには威信があり、軍隊での経験、カリスマ性と軍人らしい態度、強い愛国者という評判があり、さらに、特にバージニアを初めとする南部諸邦の支持があった。指揮官の職を明白に求めたわけではなく、むしろそれには釣り合わないと主張したが、ワシントンに見合うような対抗馬がいなかった。大陸会議は[[6月14日]]に[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]を創設し、[[6月15日]]にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表[[ジョン・アダムズ|ジョン・アダムス]]はワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は[[7月3日]]に司令官として就任し、[[アメリカ独立戦争]]を戦った。 |
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ジョージ・ワシントン George Washington | |
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任期 | 1789年4月30日 – 1797年3月4日 |
---|---|
副大統領 | ジョン・アダムズ |
任期 | 1798年7月13日 – 1799年12月14日 |
大統領 | ジョン・アダムズ |
任期 | 1775年6月15日 – 1783年12月23日 |
出生 | 1732年2月22日![]() |
死去 | 1799年12月14日 (67歳没)![]() |
政党 | 無所属 |
配偶者 | マーサ・ワシントン |
子女 | ジョン・パーク・カスティス マーサ・パーク・カスティス |
署名 | ![]() |
生涯[編集]
生い立ち[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/Masonic_Memorial_grounds.jpg/300px-Masonic_Memorial_grounds.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Washington_Masonic_print.jpg/150px-Washington_Masonic_print.jpg)
フレンチ・インディアン戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c7/Washington_1772.jpg/200px-Washington_1772.jpg)
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2つの戦争の間[編集]
ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスに紹介された。フレンチ・インディアン戦争の最中で休暇を取って帰った時に、マーサの友人が案内した。ワシントンは初めて会ってから3週間の間にマーサの家を2回訪れただけで結婚を申し込んだ。2人は共に27歳であり、1759年1月6日にマーサの家で式を挙げた。新婚の2人はマウントバーノンに移動し、そこでワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた連れ子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスを育て、2人を愛情を込めてジャッキーとパチィと呼んだ[注釈 2]。 ワシントン夫妻には子供ができなかった。おそらくワシントンが天然痘にかかったことがあり、その後結核によって無精子症になった可能性がある[13]。 後にジャッキーが死んだ1781年以後はその子供達、エレノア・パーク・カスティス︵ネリー、1779年 - 1852年︶とジョージ・ワシントン・パーク・カスティス︵ワシー、1781年-1857年︶を育てた[注釈 3]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Martha_Dandridge_Custis.jpg/200px-Martha_Dandridge_Custis.jpg)
アメリカ独立戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/95/Washington_Crossing_the_Delaware_by_Emanuel_Leutze%2C_MMA-NYC%2C_1851.jpg/350px-Washington_Crossing_the_Delaware_by_Emanuel_Leutze%2C_MMA-NYC%2C_1851.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f2/Portrait_of_George_Washington-transparent.png/200px-Portrait_of_George_Washington-transparent.png)
- 「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後じさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」
戦後の活動[編集]
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大統領職[編集]
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政策[編集]
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大統領顧問団[編集]
職名 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|
大統領 | ジョージ・ワシントン | 1789年 - 1797年 |
副大統領 | ジョン・アダムズ | 1789年 - 1797年 |
国務長官 | トーマス・ジェファーソン | 1789年 - 1793年 |
エドムンド・ランドルフ | 1794年 - 1795年 | |
ティモシー・ピカリング | 1795年 - 1797年 | |
財務長官 | アレクサンダー・ハミルトン | 1789年 - 1795年 |
オリヴァー・ウォルコット | 1795年 - 1797年 | |
陸軍長官 | ヘンリー・ノックス | 1789年 - 1794年 |
ティモシー・ピカリング | 1795年 - 1796年 | |
ジェイムズ・マクヘンリー | 1796年 - 1797年 | |
司法長官 | エドムンド・ランドルフ | 1789年 - 1793年 |
ウィリアム・ブラッドフォード | 1794年 - 1795年 | |
チャールズ・リー | 1795年 - 1797年 | |
郵政長官 | サミュエル・オズグッド | 1789年 - 1791年 |
ティモシー・ピカリング | 1791年 - 1795年 | |
ジョセフ・ハーバーシャム | 1795年 - 1797年 |
指名した最高裁判所判事[編集]
- ジョン・ジェイ - 最高裁長官 - 1789年
- ジョン・ラトリッジ - 最高裁長官 - 1795年
- オリヴァー・エルスワース - 最高裁長官 - 1796年
- ジェイムズ・ウィルソン - 1789年
- ジョン・ラトリッジ - 1790年
- ウィリアム・クッシング - 1790年
- ジョン・ブレア - 1790年
- ジェイムズ・アイアデル - 1790年
- トーマス・ジョンソン - 1792年
- ウィリアム・パターソン - 1793年
- サミュエル・チェース - 1796年
ノースカロライナ州 | 1789年11月21日 | 12番目の州 |
ロードアイランド州 | 1790年5月29日 | 13番目の州 |
バーモント州 | 1791年5月4日 | 14番目の州 |
ケンタッキー州 | 1792年6月1日 | 15番目の州 |
テネシー州 | 1796年6月1日 | 16番目の州 |
外交[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/George_Washington_P1190516.jpg/200px-George_Washington_P1190516.jpg)
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辞任挨拶[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/5000b.jpg/300px-5000b.jpg)
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本当の初代大統領か?[編集]
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晩年及び死後[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Gilbert_Stuart%2C_George_Washington_%28Lansdowne_portrait%2C_1796%29.jpg/200px-Gilbert_Stuart%2C_George_Washington_%28Lansdowne_portrait%2C_1796%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Mtvernon1.jpg/200px-Mtvernon1.jpg)
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個人として[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/George_Washington_dollar.jpg/200px-George_Washington_dollar.jpg)
![Mount Rushmore National Memorial](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/Mount_Rushmore_Closeup_2017.jpg/350px-Mount_Rushmore_Closeup_2017.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Mount_Rushmore_under_construction_%28circa_1932%29.jpg/200px-Mount_Rushmore_under_construction_%28circa_1932%29.jpg)
﹁桜の樹﹂の伝説[編集]
﹁ワシントンと奴隷﹂の伝説[編集]
ワシントンが逃げようとする奴隷を見つけたという逸話。ワシントンがまだ幼いころ、逃げる奴隷に小さな舟を与えたが、奴隷は、ワシントンが農園主に逃げたことを伝えると思い、ワシントンを川の途中の島において行こうとした。ワシントンは﹁私があなたを逃がしたら私が責任を問われる。私はとめないからここから自分で対岸まで泳ぎなさい。私はだれにも言いませんから﹂と言い、逃がしたと言われている。ワシントンと奴隷制[編集]
アメリカ独立戦争の前に、奴隷制について道徳的な留保を表明することはなかったが、1778年までに黒人奴隷の家族を壊すことを望まなかったので奴隷の同意なしに売買することをやめた。 1778年、戦争のまっただなかであったが、マウントバーノンの管理人に宛てて手紙を書き、大量の︵また徐々に年取りつつあった︶奴隷を使っていくことはもはや経済的に非効率なので、奴隷を売り﹁黒人とは縁を切り﹂たいと言った。しかし法律的には﹁妻の財産の奴隷﹂を売ることができず、その奴隷たちが自分の奴隷たちと結婚していたので、その家庭を壊さずに売り払うことはできなかった[36]。 戦後、個人的にはしばしば奴隷制度を嫌悪すると言っていた。ただし私人として疑念を表してはいたものの、それを公の場で批判することはなかった。実際に大統領としてのワシントンはフィラデルフィアの官邸に9人の家付き奴隷を連れてきていた。ペンシルベニア州の法律では、州内に居住した奴隷は6か月後に合法的に自由になるとされていた。ワシントンはマウントバーノンとフィラデルフィアの間で家付き奴隷を入れ替え、彼らに自由を与えないようにした。彼の採ったこの考え方は奴隷や大衆からは見えないようにされており、事実違法でもあった[注釈 5]。 ワシントンは奴隷を解放したことでは唯一の著名な建国の父であった。しかし、生きている間は解放せず、妻が死んだ時に自分の奴隷を解放するよう遺言を残した。その地所であるマウントバーノンにいた奴隷全部がワシントンの財産ではなかったことを理解するのは重要である。妻のマーサは多数の奴隷を所有しており、妻の領地からマウントバーノンに移ってきた奴隷を一方的に解放することができるとは思っていなかった。彼の行動はラファイエットとの親密な付き合いで影響されていた。マーサはその人生の後半に権利を得た奴隷を解放することはできた。ワシントンは表立って奴隷制に反対を表明しなかったが、歴史家のドロシー・トゥーヒッグは、既に神経質で対立的な問題になっていたことで誕生間もない共和国を2つに割る危険を望まなかったからだと主張した[38]。ワシントンとインディアン[編集]
ワシントンは黒人を奴隷として所有していたのと同様に、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いしていなかった。彼が名を上げた﹁フレンチ・インディアン戦争﹂では、イギリス植民地軍は多数のインディアン部族と同盟を組み、フランス軍と戦わせ、フランス側についたインディアン部族と殺し合いをさせた。ワシントンはインディアンを﹁猛獣 (beasts of prey)﹂と呼んで、大統領に就任するとこれを植民の障害としてのみとらえ、﹁ニューイングランド一帯のインディアン部族を絶滅させるように﹂と閣僚に命じた。 ワシントンはのちに、合衆国によるインディアン民族に対する民族浄化について、次のようにその考えを述べている[39]。 インディアンの諸国を相手とする、我々のやり方の基本は“正義”であったし、それはこれからもそうでなければならない。 1970年、インディアン権利団体﹁アメリカインディアン運動 (AIM)﹂は、スー族のブラックヒルズ一帯の占有権を認めた条約の確認を合衆国に求め、ワシントンらの﹁顔﹂の彫られたラシュモア山頂上で長期占拠抗議を行った。この際、スー族運動家のラッセル・ミーンズらインディアンたちは、ジョージ・ワシントンの﹁顔﹂に小便をかけてみせた。AIMのスポークスマンでもあるミーンズはジョージ・ワシントンについて、次のように述べている[40]。 合衆国がイギリスから独立した理由について、うんざりするほどのプロパガンダが語られている。しかし、実際のところは、大奴隷所有者であり最大地主であるジョージ・ワシントンは、アメリカインディアンと同盟を組んだイギリスのオリジナルの条約を、西半球で守る必要がないように、イギリスとの関係を断ったのである。そして合衆国は西半球を侵略し、土地を奪ったのだ。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
- 1789年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1792年アメリカ合衆国大統領選挙
- ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化
- ワシントン記念塔
- アメリカ合衆国建国の父
- ホワイトハウス
- 大量虐殺
- 白人至上主義
- 民族浄化
- プランテーション
- ワシントン誕生日 - アメリカ合衆国の連邦祝日の1つ。1880年にワシントンの実際の誕生日である2月22日として制定された。1971年に2月第3月曜日に改められた。
- ジョージ・ワシントン (空母)
- ネルソン (馬)
外部リンク[編集]
公職 | ||
---|---|---|
新設 | ![]() 1789年4月30日 – 1797年3月4日 |
次代 ジョン・アダムズ |
軍職 | ||
先代 ジェームズ・ウィルキンソン准将 |
アメリカ陸軍最先任士官 1798年7月13日 – 1799年12月14日 |
次代 アレクサンダー・ハミルトン少将 |
新設 | 大陸軍司令官 1775年6月15日 – 1783年12月23日 |
次代 ヘンリー・ノックス少将 (アメリカ陸軍最先任士官) |
名誉職 | ||
新設 | 最長寿のアメリカ合衆国大統領 1789年4月30日 – 1799年12月14日 |
次代 ジョン・アダムズ |
先代 リチャード・テリック |
ウィリアム・アンド・メアリー大学総長 1788年 – 1799年 |
次代 ジョン・タイラー |
- ジョージ・ワシントン
- 18世紀アメリカ合衆国の人物
- 18世紀の統治者
- 18世紀の軍人
- アメリカ合衆国の大統領
- フリーメイソンのアメリカ合衆国大統領
- アメリカ合衆国の元帥
- 大元帥
- 米国聖公会の信者
- アメリカ独立戦争の人物
- アメリカ合衆国陸軍の軍人
- アメリカ合衆国憲法署名者
- アメリカ合衆国のレイシズム
- 測量に関する人物
- インディアン戦争の人物
- アメリカ合衆国の奴隷制
- アメリカ大陸の植民地化
- 白人優越主義
- 北米植民地戦争
- アメリカ啓蒙関係者
- 議会名誉黄金勲章受章者
- アメリカ合衆国ドル紙幣の人物
- アメリカ芸術科学アカデミー会員
- アメリカ哲学協会会員
- ワシントン家
- イングランド系アメリカ人
- バージニア州ウェストモアランド郡出身の人物
- 1732年生
- 1799年没