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| 国名3 = {{USA1777}} |
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| 職名3 = [[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍司令官]] |
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| 就任日3 = [[1775年]][[6月15日]] |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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1732年2月22日、[[バージニア植民地]][[ウェストモアランド郡 (バージニア州)|ウェストモアランド郡]]コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。彼の誕生日は1731年2月11日︵ユリウス暦 |
1732年2月22日、[[バージニア植民地]][[ウェストモアランド郡 (バージニア州)|ウェストモアランド郡]]コロニアル・ビーチ南部に位置するポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。彼の誕生日は1731年2月11日︵ユリウス暦︶、1732年2月22日︵グレゴリオ暦︶となっている。当時の[[イギリス]]および後に[[アメリカ合衆国]]として独立する地域では[[ユリウス暦]]を採用していたが、グレゴリオ暦の方が有名である。日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。
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ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷[[プランテーション]]を経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の[[ジェントリ]]であった。彼の両親、[[オーガスティン・ワシントン]](1694年11月12日 - 1743年4月12日)とその2番目の妻[[メアリー・ボール・ワシントン|メアリー・ボール]](1708年11月30日 - 1789年8月25日)は、[[イギリス]]出の家柄であり,女系から[[プランタジネット朝]]第7代[[イングランド国王]] [[エドワード3世]]の14世孫である<ref>https://famouskin.com/famous-kin-chart.php?name=3693+edward+iii+king+of+england&kin=3647+george+washington</ref>。 |
ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷[[プランテーション]]を経営し、後には鉱山開発も手掛けた。ワシントン家はバージニアでの指導層とまでは行かず、中流の[[ジェントリ]]であった。彼の両親、[[オーガスティン・ワシントン]](1694年11月12日 - 1743年4月12日)とその2番目の妻[[メアリー・ボール・ワシントン|メアリー・ボール]](1708年11月30日 - 1789年8月25日)は、[[イギリス]]出の家柄であり,女系から[[プランタジネット朝]]第7代[[イングランド国王]] [[エドワード3世]]の14世孫である<ref>https://famouskin.com/famous-kin-chart.php?name=3693+edward+iii+king+of+england&kin=3647+george+washington</ref>。 |
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オーガスティンは1657年にイングランドのサルグレイブからバージニアに渡ってきたジョン・ワシントンの孫であった。先妻ジェーン(1729年没)との間に4人の子をもうけたが2人だけが成長し、後妻のメアリーとの間には6人の子が生まれ、5人が成長した。 |
オーガスティンは1657年に[[イングランド]]のサルグレイブからバージニアに渡ってきたジョン・ワシントンの孫であった。先妻ジェーン(1729年没)との間に4人の子をもうけたが2人だけが成長し、後妻のメアリーとの間には6人の子が生まれ、5人が成長した。 |
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ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡の[[フレデリックスバーグ (バージニア州)|フレデリックスバーグ]]に近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園を[[マウントバーノン]]と名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。 |
ワシントンは幼年期の多くをスタッフォード郡の[[フレデリックスバーグ (バージニア州)|フレデリックスバーグ]]に近いフェリー・ファームで過ごした。父のオーガスティンはジョージ・ワシントンが11歳の時に死に、14歳年長の長兄ローレンス(1718年-1752年)が父親代わりを務めた。ローレンスの義父ウィリアム・フェアファックスもワシントンの人格形成に影響を与えた。ローレンスが父の遺産の大半を相続し、その農園を[[マウントバーノン]]と名付けた。ワシントンはフェリー・ファームを相続した。 |
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[[1748年]]には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた<ref>"[http://memory.loc.gov/ammem/gmdhtml/gwmaps.html Washington As Public Land Surveyor: Boyhood and Beginnings]". George Washington: Surveyor and Mapmaker. American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.</ref>。
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[[1748年]]には農園主としての経歴を積み始め、またブルーリッジ山脈の西側の土地の測量にも請われて参加した。1749年、フェアファックスの後押しもあって、新しく作られたカルピーパ郡の測量士として初めて公的な役職に就いた<ref>"[http://memory.loc.gov/ammem/gmdhtml/gwmaps.html Washington As Public Land Surveyor: Boyhood and Beginnings]". George Washington: Surveyor and Mapmaker. American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.</ref>。
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この仕事で得た収入で[[シェナンドー渓谷]]に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。この |
この仕事で得た収入で[[シェナンドー渓谷]]に新しく農園を購入したが、これがその後のバージニア西部における資産拡張の始まりとなった。このころローレンスの影響で西部の土地を開発することを目的として作られたオハイオ会社に興味を持った。また、バージニアの副総督(実質的な統括者)ロバート・ディンウィディとも知り合った。 |
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[[ファイル:Masonic Memorial grounds.jpg|thumb|300px|フリーメイソンの殿堂として建てられたジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナルメモリアル]] |
[[ファイル:Masonic Memorial grounds.jpg|thumb|300px|フリーメイソンの殿堂として建てられたジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナルメモリアル]] |
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=== フレンチ・インディアン戦争 === |
=== フレンチ・インディアン戦争 === |
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[[ファイル:Washington 1772.jpg|left|200px|thumb|1772年に[[チャールズ・ウィルソン・ピール]]によって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。]] |
[[ファイル:Washington 1772.jpg|left|200px|thumb|1772年に[[チャールズ・ウィルソン・ピール]]によって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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[[1754年]]にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス軍から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的に[[フレンチ・インディアン戦争]]の開戦を招くこととなる。 |
[[1754年]]にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス軍から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的に[[フレンチ・インディアン戦争]]の開戦を招くこととなる。 |
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=== アメリカ独立戦争 === |
=== アメリカ独立戦争 === |
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[[ファイル:Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851.jpg|thumb|350px|[[デラウェア川]]を越えるワシントン]] |
[[ファイル:Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851.jpg|thumb|350px|[[デラウェア川]]を越えるワシントン]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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[[1775年]]4月の[[レキシントン・コンコードの戦い]]後、ワシントンは第二次大陸会議に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを知らしめた。ワシントンには威信があり、軍隊での経験、カリスマ性と軍人らしい態度、強い愛国者という評判があり、さらに、特にバージニアを初めとする南部諸邦の支持があった。指揮官の職を明白に求めたわけではなく、むしろそれには釣り合わないと主張したが、ワシントンに見合うような対抗馬がいなかった。大陸会議は[[6月14日]]に[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]を創設し、[[6月15日]]にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表[[ジョン・アダムズ|ジョン・アダムス]]はワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は[[7月3日]]に司令官として就任し、[[アメリカ独立戦争]]を戦った。 |
[[1775年]]4月の[[レキシントン・コンコードの戦い]]後、ワシントンは第二次大陸会議に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを知らしめた。ワシントンには威信があり、軍隊での経験、カリスマ性と軍人らしい態度、強い愛国者という評判があり、さらに、特にバージニアを初めとする南部諸邦の支持があった。指揮官の職を明白に求めたわけではなく、むしろそれには釣り合わないと主張したが、ワシントンに見合うような対抗馬がいなかった。大陸会議は[[6月14日]]に[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]を創設し、[[6月15日]]にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表[[ジョン・アダムズ|ジョン・アダムス]]はワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は[[7月3日]]に司令官として就任し、[[アメリカ独立戦争]]を戦った。 |
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=== 戦後の活動 === |
=== 戦後の活動 === |
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1783年12月23日、ワシントンは[[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]のメリーランド州会議事堂で陸軍最高司令官の辞任を議会に申請した。この辞任は成立間もない国家にとっては大きく重要で、軍人ではなく文民から公式に選ばれた大統領が最終的な権威を保持することとなった。ワシントンは絶大な権力を保持することができたかもしれず、実際彼の熱心な支持者の間には彼を永久的な統治者にしようとする動きがあった。しかし彼は、多くのアメリカ合衆国建国の功労者同様にそのような考えを憎悪した。これは権力を拒否した[[古代ローマ]]共和制の理想的市民指導者[[ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス|キンキナトゥス]]の例に倣ったものであった。 |
1783年12月23日、ワシントンは[[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]のメリーランド州会議事堂で{{仮リンク|ジョージ・ワシントンの最高司令官の辞任|label=陸軍最高司令官の辞任|en|George Washington's resignation as commander-in-chief}}を議会に申請した。この辞任は成立間もない国家にとっては大きく重要で、軍人ではなく文民から公式に選ばれた大統領が最終的な権威を保持することとなった。ワシントンは絶大な権力を保持することができたかもしれず、実際彼の熱心な支持者の間には彼を永久的な統治者にしようとする動きがあった。しかし彼は、多くのアメリカ合衆国建国の功労者同様にそのような考えを憎悪した。これは権力を拒否した[[古代ローマ]]共和制の理想的市民指導者[[ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス|キンキナトゥス]]の例に倣ったものであった。
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ワシントンが退役したとき、階級は中将(三ツ星の将軍)として登録されていたがこれは当時の大陸軍における最高階級であった。 |
ワシントンが退役したとき、階級は中将(三ツ星の将軍)として登録されていたがこれは当時の大陸軍における最高階級であった。 |
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=== 大統領職 === |
=== 大統領職 === |
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[[1789年]][[2月4日]]、アメリカ合衆国において、最初の[[1789年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]が行われた。 |
[[1789年]][[2月4日]]、アメリカ合衆国において、最初の[[1789年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]が行われた。 |
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選挙人を選出する方法の決定は、各州に任された。全13州の内、10州のみが、[[選挙人団]]の投票を行った。
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選挙人を選出する方法の決定は、各州に任された。全13州の内、10州のみが、[[選挙人団]]の投票を行った。
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選挙人投票率100%の票を得た大統領は、現在までワシントンだけである。 |
選挙人投票率100%の票を得た大統領は、現在までワシントンだけである。 |
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[[1789年]][[4月30日]]、ニューヨーク[[フェデラル・ホール]]において、アメリカ合衆国憲法に基づく大統領の就任宣誓式が開催された。宣誓式の後、[[聖公会]]の信徒であったワシントンは、[[セント・ポール教会]]で礼拝を行った。教会にはワシントンの信徒席が残されており、1782年に採用された[[アメリカ合衆国の国章]]が描かれた18世紀の油絵も飾られている。 |
[[1789年]][[4月30日]]、ニューヨーク[[フェデラル・ホール]]において、アメリカ合衆国憲法に基づく[[1789年ジョージ・ワシントン大統領就任式|大統領の就任宣誓式]]が開催された。宣誓式の後、[[聖公会]]の信徒であったワシントンは、[[セント・ポール教会]]で礼拝を行った。教会にはワシントンの信徒席が残されており、1782年に採用された[[アメリカ合衆国の国章]]が描かれた18世紀の油絵も飾られている。 |
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ジョージ・ワシントンの俸給は、[[アメリカ合衆国議会]]第1会期において、25,000ドルと決定された。この俸給は、1789年当時としては高額であった。 |
ジョージ・ワシントンの俸給は、[[アメリカ合衆国議会]][[アメリカ合衆国第1議会|第1会期]]において、25,000ドルと決定された。この俸給は、1789年当時としては高額であった。ジョージ・ワシントンは、無私の公僕というイメージを大事にしていたため、また、すでに富を構築していたこともあり、アメリカ合衆国議会の決定した俸給を辞退した。
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ジョージ・ワシントンは、無私の公僕というイメージを大事にしていたため、またすでに富を構築していたこともあり、アメリカ合衆国議会の決定した俸給を辞退した。 |
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[[アメリカ合衆国議会]]の強固な要請もあり、最終的には、アメリカ合衆国議会が決定した俸給を受け取ることを認めた。ジョージ・ワシントンの大統領選出馬は、戦後にマウントバーノンで静かな引退生活を望んだ妻のマーサにとって期待外れの出来事であった。 |
しかし、[[アメリカ合衆国議会]]の強固な要請もあり、最終的には、アメリカ合衆国議会が決定した俸給を受け取ることを認めた。ジョージ・ワシントンの大統領選出馬は、戦後にマウントバーノンで静かな引退生活を望んだ妻のマーサにとって期待外れの出来事であった。 |
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しかしながら、彼女はすぐに[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]]として自らの応接室を開き、政府高官たちのために毎週のディナーパーティーを計画した。 |
しかしながら、彼女はすぐに[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]]として自らの応接室を開き、政府高官たちのために毎週のディナーパーティーを計画した。 |
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この目的を達成するため、大統領職の呼称として "Mr. President" という簡素なものを好み、他に提案されていた仰々しい呼称("His Highness the President" など)は採用しなかった。 |
この目的を達成するため、大統領職の呼称として "Mr. President" という簡素なものを好み、他に提案されていた仰々しい呼称("His Highness the President" など)は採用しなかった。 |
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ジョージ・ワシントンは、才能あり性格もよい優秀な代議士かつ判断者として、通常の閣議では最終結論を出す前に議論させたため、有能な管理者であることを証明した。 |
ジョージ・ワシントンは、才能あり性格もよい優秀な代議士かつ判断者として、通常の閣議では最終結論を出す前に議論させたため、有能な管理者であることを証明した。所定の政務を行う時は﹁体系立て、秩序正しく、活力があり、他人の意見に配慮したが決断力があり、共通の目標を意図し、そのために首尾一貫した行動を執った<ref> Leonard D. White, ''The Federalists: A Study in Administrative History'' (1948)</ref>。﹂
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所定の政務を行う時は﹁体系立て、秩序正しく、活力があり、他人の意見に配慮したが決断力があり、共通の目標を意図し、そのために首尾一貫した行動を執った<ref> Leonard D. White, ''The Federalists: A Study in Administrative History'' (1948)</ref>。﹂
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ジョージ・ワシントンは、二期目の大統領選出馬には、気乗りがしていなかった。ジョージ・ワシントンは、3期目の大統領選出馬を拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作った。この政策は、のちにアメリカ合衆国憲法修正第22条によって法制化された{{efn|[[フランクリン・ルーズベルト]]が前例のない4期選出されたのち、正式に2期制限が修正第22条に盛り込まれた。}}。 |
ジョージ・ワシントンは、二期目の大統領選出馬には、気乗りがしていなかった。ジョージ・ワシントンは、3期目の大統領選出馬を拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作った。この政策は、のちに[[アメリカ合衆国憲法修正第22条]]によって法制化された{{efn|[[フランクリン・ルーズベルト]]が前例のない4期選出されたのち、正式に2期制限が修正第22条に盛り込まれた。}}。 |
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==== 政策 ==== |
==== 政策 ==== |
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ジョージ・ワシントンは、大統領就任後、国務長官に[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]、財務長官に[[アレクサンダー・ハミルトン]] |
ジョージ・ワシントンは、大統領就任後、国務長官に[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]、財務長官に[[アレクサンダー・ハミルトン]]などを要職に任命した。ジョージ・ワシントンは、[[政党]]は党派的対立を生んで国家を分裂させる元であると考えていた。これは彼が言ったとされている「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て[[共和主義者]]だからだ」という発言に象徴されている。そのため、共和主義者を中心としつつも、均衡を重視した人事を行ったとされている。しかしながら、親密なアドバイザーであった2人が党派を形成し、後の[[第一政党制 (アメリカ合衆国)|第一政党制]]と呼ばれる時代を築くこととなった。ジョージ・ワシントン時代の財務長官であったアレクサンダー・ハミルトンは米国の信用を作り上げ、財政面において、強固な基盤を構築する大規模な財務計画があり、[[連邦党]]の基礎を構築する。国務長官であったトーマス・ジェファーソンは、[[民主共和党 (アメリカ)|民主共和党]]の設立者であり、アレクサンダー・ハミルトンの政策に激しく反対した。ジョージ・ワシントンは、トーマス・ジェファーソンよりも、アレクサンダー・ハミルトンに肩入れした。 |
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また、[[インディアン]]民族に対しては絶滅政策を採った。ニューイングランド領のインディアン部族に対しては皆殺しを命じた。 |
また、[[インディアン]]民族に対しては絶滅政策を採った。ニューイングランド領のインディアン部族に対しては皆殺しを命じた。 |
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==== 大統領顧問団 ==== |
==== 大統領顧問団 ==== |
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!職名!!氏名!!任期 |
!職名!!氏名!!任期 |
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|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||'''ジョージ・ワシントン'''||1789 - 1797 |
|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||'''ジョージ・ワシントン'''||1789年 - 1797年 |
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|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||'''[[ジョン・アダムズ]]'''||1789 - 1797 |
|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||'''[[ジョン・アダムズ]]'''||1789年 - 1797年 |
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|rowspan=3|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||'''[[トーマス・ジェファーソン]]'''||1789 - 1793 |
|rowspan="3"|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||'''[[トーマス・ジェファーソン]]'''||1789年 - 1793年 |
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|'''[[エドムンド・ランドルフ]]'''||1794 - 1795 |
|'''[[エドムンド・ランドルフ]]'''||1794年 - 1795年 |
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|'''[[ティモシー・ピカリング]]'''||1795 - 1797 |
|'''[[ティモシー・ピカリング]]'''||1795年 - 1797年 |
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|rowspan=2|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||'''[[アレクサンダー・ハミルトン]]'''||1789 - 1795 |
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|'''[[オリヴァー・ウォルコット (財務長官)|オリヴァー・ウォルコット]]'''||1795 - 1797 |
|'''[[オリヴァー・ウォルコット (財務長官)|オリヴァー・ウォルコット]]'''||1795年 - 1797年 |
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|rowspan=3|[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]||'''[[ヘンリー・ノックス]]'''||1789 - 1794 |
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|'''[[ティモシー・ピカリング]]'''||1795 - 1796 |
|'''[[ティモシー・ピカリング]]'''||1795年 - 1796年 |
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|'''[[ジェイムズ・マクヘンリー]]'''||1796 - 1797 |
|'''[[ジェイムズ・マクヘンリー]]'''||1796年 - 1797年 |
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|rowspan=3|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||'''[[エドムンド・ランドルフ]]'''||1789 - 1793 |
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|'''[[ウィリアム・ブラッドフォード (1755-1795)|ウィリアム・ブラッドフォード]]'''||1794 - 1795 |
|'''[[ウィリアム・ブラッドフォード (1755年 - 1795年)|ウィリアム・ブラッドフォード]]'''||1794年 - 1795年 |
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|'''[[チャールズ・リー (司法長官)|チャールズ・リー]]'''||1795 - 1797 |
|'''[[チャールズ・リー (司法長官)|チャールズ・リー]]'''||1795年 - 1797年 |
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|rowspan=3|[[アメリカ合衆国郵政長官|郵政長官]]||'''[[サミュエル・オズグッド]]'''||1789 - 1791 |
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|'''[[ティモシー・ピカリング]]'''||1791 - 1795 |
|'''[[ティモシー・ピカリング]]'''||1791年 - 1795年 |
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|'''[[ジョセフ・ハーバーシャム]]'''||1795 - 1797 |
|'''[[ジョセフ・ハーバーシャム]]'''||1795年 - 1797年 |
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==== 指名した最高裁判所判事 ==== |
==== 指名した最高裁判所判事 ==== |
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* [[ジョン・ジェイ]] - 最高裁長官 - 1789 |
* [[ジョン・ジェイ]] - 最高裁長官 - 1789年 |
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* [[ジョン・ラトリッジ]] - 最高裁長官 - 1795 |
* [[ジョン・ラトリッジ]] - 最高裁長官 - 1795年 |
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* [[オリバー・エルスワース|オリヴァー・エルスワース]] - 最高裁長官 - 1796 |
* [[オリバー・エルスワース|オリヴァー・エルスワース]] - 最高裁長官 - 1796年 |
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* [[ジェイムズ・ウィルソン (独立宣言署名者)|ジェイムズ・ウィルソン]] - 1789 |
* [[ジェイムズ・ウィルソン (独立宣言署名者)|ジェイムズ・ウィルソン]] - 1789年 |
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* [[ジョン・ラトリッジ]] - 1790 |
* [[ジョン・ラトリッジ]] - 1790年 |
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* [[ウィリアム・クッシング]] - 1790 |
* [[ウィリアム・クッシング]] - 1790年 |
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* [[ジョン・ブレア]] - 1790 |
* [[ジョン・ブレア]] - 1790年 |
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* [[ジェイムズ・アイアデル]] - 1790 |
* [[ジェイムズ・アイアデル]] - 1790年 |
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* [[トマス・ジョンソン (メリーランド州知事)|トーマス・ジョンソン]] - 1792 |
* [[トマス・ジョンソン (メリーランド州知事)|トーマス・ジョンソン]] - 1792年 |
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* [[ウィリアム・パターソン (法律家)|ウィリアム・パターソン]] - 1793 |
* [[ウィリアム・パターソン (法律家)|ウィリアム・パターソン]] - 1793年 |
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* [[サミュエル・チェイス|サミュエル・チェース]] - 1796 |
* [[サミュエル・チェイス|サミュエル・チェース]] - 1796年 |
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[[1791年]]、議会は蒸留酒に消費税を課したが、これが特に[[ペンシルベニア州]]の辺境での抗議を呼んだ。[[1794年]]までにワシントンが抗議者は連邦裁判所に出頭するように命じたが、これで抗議は[[ウィスキー税反乱]]と呼ばれる全面的な暴動に変わった。この |
[[1791年]]、議会は蒸留酒に消費税を課したが、これが特に[[ペンシルベニア州]]の辺境での抗議を呼んだ。[[1794年]]までにワシントンが抗議者は連邦裁判所に出頭するように命じたが、これで抗議は[[ウィスキー税反乱]]と呼ばれる全面的な暴動に変わった。このころの連邦軍はあまりにも規模が小さかったので、ワシントンは1792年の民兵法を制定させ、ペンシルベニア州、バージニア州などいくつかの州で民兵を召集させた。知事達が軍隊を送りワシントンが指揮して反乱地域に進軍した<ref>{{cite web |last=Hoover |first=Michael |url=http://www.ttb.gov/public_info/whisky_rebellion.shtml |title=The Whiskey Rebellion |accessdate=2007-10-19 |date= |publisher=United States Alcohol and Tobacco Tax and Trade Bureau}}</ref>。 |
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戦闘は行われなかったが、ワシントンの示威行動は新しい政府が自分達で守ることができることを示した。現職の大統領が戦場で軍隊を指揮したのはこれまで2回あり、これがその最初の時であった。もう1回は[[米英戦争]]の時にホワイトハウスを焼かれた[[ジェームズ・マディソン]]であった。これらのできごとは新憲法下で連邦政府が強い軍事力を使って各州や市民にその権威を行使してみせる最初の機会になった。 |
戦闘は行われなかったが、ワシントンの示威行動は新しい政府が自分達で守ることができることを示した。現職の大統領が戦場で軍隊を指揮したのはこれまで2回あり、これがその最初の時であった。もう1回は[[米英戦争]]の時に[[ワシントン焼き討ち#ホワイトハウス|ホワイトハウスを焼かれた]][[ジェームズ・マディソン]]であった。これらのできごとは新憲法下で連邦政府が強い軍事力を使って各州や市民にその権威を行使してみせる最初の機会になった。 |
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==== 外交 ==== |
==== 外交 ==== |
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[[ファイル:George Washington P1190516.jpg|200px|thumb|[[フランス]]の[[パリ]]、ディエナ広場にあるワシントンの銅像]] |
[[ファイル:George Washington P1190516.jpg|200px|thumb|[[フランス]]の[[パリ]]、ディエナ広場にあるワシントンの銅像]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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[[1793年]]、[[フランス革命]]政府は「市民ジュネ」と呼ばれる外交官エドモン=シャルル・ジュネをアメリカに派遣してきた。ジュネは他国商船拿捕免許状をアメリカ船に発行してイギリス商船を拿捕出来るようにした。大都市には民主共和協会のネットワークを作ることによりイギリスと戦争をしているフランスに対してアメリカ大衆の感情を巻き込むようにした。ワシントンはこの干渉を国内問題だとして拒否し、フランス政府にジュネを呼び返すよう要求し、またその協会を非難した。 |
[[1793年]]、[[フランス革命]]政府は「市民ジュネ」と呼ばれる外交官エドモン=シャルル・ジュネをアメリカに派遣してきた。ジュネは他国商船拿捕免許状をアメリカ船に発行してイギリス商船を拿捕出来るようにした。大都市には民主共和協会のネットワークを作ることによりイギリスと戦争をしているフランスに対してアメリカ大衆の感情を巻き込むようにした。ワシントンはこの干渉を国内問題だとして拒否し、フランス政府にジュネを呼び返すよう要求し、またその協会を非難した。 |
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==== 辞任挨拶 ==== |
==== 辞任挨拶 ==== |
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[[画像:5000b.jpg|300px|thumb|ワシントンの辞任挨拶(5000ドル紙幣の裏面に描かれたもの)]] |
[[画像:5000b.jpg|300px|thumb|ワシントンの辞任挨拶(5000ドル紙幣の裏面に描かれたもの)]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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[[ジョージ・ワシントンの辞任挨拶]](公式文書として1796年に出版)は、アメリカの政治的価値観の中でも最も影響力ある声明の一つであった<ref> Matthew Spalding, ''The Command of its own Fortunes: Reconsidering Washington's Farewell address," in William D. Pederson, Mark J. Rozell, Ethan M. Fishman, eds. ''George Washington'' (2001) ch 2; Virginia Arbery, "Washington's Farewell Address and the Form of the American Regime." in Gary L. Gregg II and Matthew Spalding, eds. ''George Washington and the American Political Tradition.'' 1999 pp. 199-216.</ref>。 |
[[ジョージ・ワシントンの辞任挨拶]](公式文書として1796年に出版)は、アメリカの政治的価値観の中でも最も影響力ある声明の一つであった<ref> Matthew Spalding, ''The Command of its own Fortunes: Reconsidering Washington's Farewell address," in William D. Pederson, Mark J. Rozell, Ethan M. Fishman, eds. ''George Washington'' (2001) ch 2; Virginia Arbery, "Washington's Farewell Address and the Form of the American Regime." in Gary L. Gregg II and Matthew Spalding, eds. ''George Washington and the American Political Tradition.'' 1999 pp. 199-216.''</ref>。 |
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ハミルトンの助けも得て主に自分自身で原稿を作り、国が一つにまとまることの必要性と重要さ、憲法の価値と法律の規則、政治的党派の悪、および共和制の下の人民に適した美徳について助言を与えている。挨拶の中で、道徳は「衆望がある政府の必要な源泉」と言った。また「良識と経験のどちらからも国民の道徳が[[宗教]]的教義を排除することに成功できると我々に期待させない」と言って、宗教の価値は概して社会の恩恵のためにあることを指摘した<ref>"[http://www.loc.gov/exhibits/religion/rel06.html Religion and the Federal Government]". Religion and the Founding of the American Republic. Library of Congress Exhibition. Retrieved on May 17 2007.</ref>。 |
ハミルトンの助けも得て主に自分自身で原稿を作り、国が一つにまとまることの必要性と重要さ、憲法の価値と法律の規則、政治的党派の悪、および共和制の下の人民に適した美徳について助言を与えている。挨拶の中で、道徳は「衆望がある政府の必要な源泉」と言った。また「良識と経験のどちらからも国民の道徳が[[宗教]]的教義を排除することに成功できると我々に期待させない」と言って、宗教の価値は概して社会の恩恵のためにあることを指摘した<ref>"[http://www.loc.gov/exhibits/religion/rel06.html Religion and the Federal Government]". Religion and the Founding of the American Republic. Library of Congress Exhibition. Retrieved on May 17 2007.</ref>。 |
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==== 本当の初代大統領か? ==== |
==== 本当の初代大統領か? ==== |
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独立戦争と、合衆国憲法が署名されるまでの期間のリーダーが、なぜ初代大統領と認められないかと考える人たちもいる。 |
独立戦争と、合衆国憲法が署名されるまでの期間のリーダーが、なぜ初代大統領と認められないかと考える人たちもいる。 |
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=== 晩年及び死後 === |
=== 晩年及び死後 === |
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[[ファイル:Washington (3).jpg|thumb|200px|1796年のワシントン]] |
[[ファイル:Washington (3).jpg|thumb|200px|1796年のワシントン]] |
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[[ファイル:Mtvernon1.jpg|200px|thumb|マウントバーノン]] |
[[ファイル:Mtvernon1.jpg|200px|thumb|マウントバーノン]]{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}} |
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1797年3月に大統領職を辞任した後、ワシントンは解放感を抱いてマウントバーノンに帰った。その年は多くの時間を農園で過ごし、2,250平方フィート(75フィートx30フィート、200m<sup>2</sup>)の蒸留所を造った。これは新しい共和国でも最大級のものであった。中には5基の銅製蒸留器、1基のボイラー、50個の麦芽桶があり、その農園の中でも農業による収益性のない場所に造られていた。2年後には生産量が最大となり、7,500ドル相当のコーンウィスキーとライウィスキー11,000ガロン(42キロリットル)とフルーツブランディを生産した<ref>http://www2.potsdam.edu/hansondj/InTheNews/Etc/20060927205145.html</ref><ref>{{cite news |first= John |last= Fund |title= George Washington, Whiskey Entrepreneur |publisher=The Wall Street Journal |date=February 20, 2007}}</ref>。 |
1797年3月に大統領職を辞任した後、ワシントンは解放感を抱いてマウントバーノンに帰った。その年は多くの時間を農園で過ごし、2,250平方フィート(75フィートx30フィート、200m<sup>2</sup>)の蒸留所を造った。これは新しい共和国でも最大級のものであった。中には5基の銅製蒸留器、1基のボイラー、50個の麦芽桶があり、その農園の中でも農業による収益性のない場所に造られていた。2年後には生産量が最大となり、7,500ドル相当のコーンウィスキーとライウィスキー11,000ガロン(42キロリットル)とフルーツブランディを生産した<ref>http://www2.potsdam.edu/hansondj/InTheNews/Etc/20060927205145.html</ref><ref>{{cite news |first= John |last= Fund |title= George Washington, Whiskey Entrepreneur |publisher=The Wall Street Journal |date=February 20, 2007}}</ref>。 |
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== 個人として == |
== 個人として == |
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[[ファイル:George Washington dollar.jpg|200px|thumb|1ドル紙幣に描かれているワシントン]] |
[[ファイル:George Washington dollar.jpg|200px|thumb|1ドル紙幣に描かれているワシントン]] |
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[[ファイル:Mount Rushmore Closeup 2017.jpg|350px|thumb|alt=Mount Rushmore National Memorial|四人の大統領の彫像 ラシュモア山国立記念公園(左から右へ)'''ジョージ・ワシントン''', [[トーマス・ジェファーソン]], [[セオドア・ルーズベルト]], [[エイブラハム・リンカーン]]]] |
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[[ファイル:Mount Rushmore under construction (circa 1932).jpg|thumb|200px|建造中のラシュモア山のワシントン像]] |
[[ファイル:Mount Rushmore under construction (circa 1932).jpg|thumb|200px|建造中のラシュモア山のワシントン像]] |
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* [[アメリカ合衆国]]建国の父として、首都や州名などにその名を残している[[アメリカ合衆国憲法]]下で最初のアメリカ大統領。 |
* [[アメリカ合衆国]]建国の父として、首都や州名などにその名を残している[[アメリカ合衆国憲法]]下で最初のアメリカ大統領。 |
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* 司教のウィリアム・ミードはワシントンが飲酒やダンス、観劇、狩猟といったものに反対する敬虔な人物であるとしたが、ワシントンの養子パーク・カーティスの著書にはワシントンがダンスや狩猟を行ったという著述がある。その上酒好きで、他の政治家仲間と独自の酒を造っていた。 |
* 司教のウィリアム・ミードはワシントンが飲酒やダンス、観劇、狩猟といったものに反対する敬虔な人物であるとしたが、ワシントンの養子パーク・カーティスの著書にはワシントンがダンスや狩猟を行ったという著述がある。その上酒好きで、他の政治家仲間と独自の酒を造っていた。 |
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* 大統領の権威が下がるということで、握手をほとんどしなかった。 |
* 大統領の権威が下がるということで、握手をほとんどしなかった。 |
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*ワシントンはその人生を通して歯の問題に悩まされ続けた。22歳の時に最初の永久歯を失い、大統領に就任するまでにその残りは下の歯1本になっていた<ref name="trivia1">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社 }}</ref>。ジョン・アダムスによれば、ワシントンはブラジルナッツを歯で割って食べていたのが原因だというが、最近の歴史家の間では、天然痘やマラリアなどの治療に用いられた酸化水銀が原因で彼は歯を失ったのではないかと考えられている。ワシントンは多くの総義歯を所有していたが、そのうちの4セットはジョン・グリーンウッドによって作成された。一般的にワシントンの総義歯は木製だったと信じられているが、実際はそうではなかった。彼が大統領になるころには、総義歯はカバや象の牙を削って作られ、金のばねでおさえられていた。カバの牙でできたプレートに本当の人の歯と、一部馬やロバの歯なども混ぜ埋め込んで作った。歯の問題によってワシントンは恒常的に痛みを覚えていたため、アヘンチンキを使用していた。このほかワシントンは自身が所有する奴隷より歯を抜き、それで作られた数セットの入れ歯を所有していたとされる<ref> Did George Washington’s false teeth come from his slaves?: A look at the evidence, the responses to that evidence, and the limitations of history by Kathryn Gehred, Research Specialist October 19, 2016</ref>。こういった彼の苦痛は現在の1ドル札も含め、就任中に描かれた多くの肖像画に表れ、大統領3選が確実だったにも |
*ワシントンはその人生を通して歯の問題に悩まされ続けた。22歳の時に最初の永久歯を失い、大統領に就任するまでにその残りは下の歯1本になっていた<ref name="trivia1">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社 }}</ref>。ジョン・アダムスによれば、ワシントンはブラジルナッツを歯で割って食べていたのが原因だというが、最近の歴史家の間では、天然痘やマラリアなどの治療に用いられた酸化水銀が原因で彼は歯を失ったのではないかと考えられている。ワシントンは多くの総義歯を所有していたが、そのうちの4セットはジョン・グリーンウッドによって作成された。一般的にワシントンの総義歯は木製だったと信じられているが、実際はそうではなかった。彼が大統領になるころには、総義歯はカバや象の牙を削って作られ、金のばねでおさえられていた。カバの牙でできたプレートに本当の人の歯と、一部馬やロバの歯なども混ぜ埋め込んで作った。歯の問題によってワシントンは恒常的に痛みを覚えていたため、アヘンチンキを使用していた。このほかワシントンは自身が所有する奴隷より歯を抜き、それで作られた数セットの入れ歯を所有していたとされる<ref> Did George Washington’s false teeth come from his slaves?: A look at the evidence, the responses to that evidence, and the limitations of history by Kathryn Gehred, Research Specialist October 19, 2016</ref>。こういった彼の苦痛は現在の1ドル札も含め、就任中に描かれた多くの肖像画に表れ、大統領3選が確実だったにもかかわらず引退したのはクリアな発声ができず、演説を好まなくなったことが一因とされる<ref name="trivia1" />。 |
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* アメリカ合衆国の[[首都]][[ワシントンD.C.]](コロンビア特別区)は彼にちなんで命名された。コロンビア特別区は[[1790年]]の議会での議決により建設されたが、新首都となる地帯は湿地であり、19世紀まで大部分は湿地のままであった。首都はアメリカ合衆国憲法が記述される間、南部の賛成票を得るため妥協案として、北部の大都市ではなく、南部の土地に恒久的な首都として建設されることになった。 |
* アメリカ合衆国の[[首都]][[ワシントンD.C.]](コロンビア特別区)は彼にちなんで命名された。コロンビア特別区は[[1790年]]の議会での議決により建設されたが、新首都となる地帯は湿地であり、19世紀まで大部分は湿地のままであった。首都はアメリカ合衆国憲法が記述される間、南部の賛成票を得るため妥協案として、北部の大都市ではなく、南部の土地に恒久的な首都として建設されることになった。 |
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* ワシントンは、[[アメリカ陸軍士官学校]]の敷地としてニューヨーク州[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]を選定した。 |
* ワシントンは、[[アメリカ陸軍士官学校]]の敷地としてニューヨーク州[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]を選定した。 |
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2024年6月17日 (月) 02:13時点における最新版
ジョージ・ワシントン George Washington | |
![]() | |
任期 | 1789年4月30日 – 1797年3月4日 |
---|---|
副大統領 | ジョン・アダムズ |
任期 | 1798年7月13日 – 1799年12月14日 |
大統領 | ジョン・アダムズ |
任期 | 1775年6月15日 – 1783年12月23日 |
出生 | 1732年2月22日![]() |
死去 | 1799年12月14日 (67歳没)![]() |
政党 | 無所属 |
配偶者 | マーサ・ワシントン |
子女 | ジョン・パーク・カスティス マーサ・パーク・カスティス |
署名 | ![]() |
生涯[編集]
生い立ち[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/Masonic_Memorial_grounds.jpg/300px-Masonic_Memorial_grounds.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Washington_Masonic_print.jpg/150px-Washington_Masonic_print.jpg)
フレンチ・インディアン戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c7/Washington_1772.jpg/200px-Washington_1772.jpg)
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2つの戦争の間[編集]
ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスに紹介された。フレンチ・インディアン戦争の最中で休暇を取って帰った時に、マーサの友人が案内した。ワシントンは初めて会ってから3週間の間にマーサの家を2回訪れただけで結婚を申し込んだ。2人は共に27歳であり、1759年1月6日にマーサの家で式を挙げた。新婚の2人はマウントバーノンに移動し、そこでワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた連れ子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスを育て、2人を愛情を込めてジャッキーとパチィと呼んだ[注釈 2]。 ワシントン夫妻には子供ができなかった。おそらくワシントンが天然痘にかかったことがあり、その後結核によって無精子症になった可能性がある[13]。 後にジャッキーが死んだ1781年以後はその子供達、エレノア・パーク・カスティス︵ネリー、1779年 - 1852年︶とジョージ・ワシントン・パーク・カスティス︵ワシー、1781年-1857年︶を育てた[注釈 3]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Martha_Dandridge_Custis.jpg/200px-Martha_Dandridge_Custis.jpg)
アメリカ独立戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/95/Washington_Crossing_the_Delaware_by_Emanuel_Leutze%2C_MMA-NYC%2C_1851.jpg/350px-Washington_Crossing_the_Delaware_by_Emanuel_Leutze%2C_MMA-NYC%2C_1851.jpg)
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f2/Portrait_of_George_Washington-transparent.png/200px-Portrait_of_George_Washington-transparent.png)
- 「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後じさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」
戦後の活動[編集]
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大統領職[編集]
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政策[編集]
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大統領顧問団[編集]
職名 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|
大統領 | ジョージ・ワシントン | 1789年 - 1797年 |
副大統領 | ジョン・アダムズ | 1789年 - 1797年 |
国務長官 | トーマス・ジェファーソン | 1789年 - 1793年 |
エドムンド・ランドルフ | 1794年 - 1795年 | |
ティモシー・ピカリング | 1795年 - 1797年 | |
財務長官 | アレクサンダー・ハミルトン | 1789年 - 1795年 |
オリヴァー・ウォルコット | 1795年 - 1797年 | |
陸軍長官 | ヘンリー・ノックス | 1789年 - 1794年 |
ティモシー・ピカリング | 1795年 - 1796年 | |
ジェイムズ・マクヘンリー | 1796年 - 1797年 | |
司法長官 | エドムンド・ランドルフ | 1789年 - 1793年 |
ウィリアム・ブラッドフォード | 1794年 - 1795年 | |
チャールズ・リー | 1795年 - 1797年 | |
郵政長官 | サミュエル・オズグッド | 1789年 - 1791年 |
ティモシー・ピカリング | 1791年 - 1795年 | |
ジョセフ・ハーバーシャム | 1795年 - 1797年 |
指名した最高裁判所判事[編集]
- ジョン・ジェイ - 最高裁長官 - 1789年
- ジョン・ラトリッジ - 最高裁長官 - 1795年
- オリヴァー・エルスワース - 最高裁長官 - 1796年
- ジェイムズ・ウィルソン - 1789年
- ジョン・ラトリッジ - 1790年
- ウィリアム・クッシング - 1790年
- ジョン・ブレア - 1790年
- ジェイムズ・アイアデル - 1790年
- トーマス・ジョンソン - 1792年
- ウィリアム・パターソン - 1793年
- サミュエル・チェース - 1796年
ノースカロライナ州 | 1789年11月21日 | 12番目の州 |
ロードアイランド州 | 1790年5月29日 | 13番目の州 |
バーモント州 | 1791年5月4日 | 14番目の州 |
ケンタッキー州 | 1792年6月1日 | 15番目の州 |
テネシー州 | 1796年6月1日 | 16番目の州 |
外交[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/George_Washington_P1190516.jpg/200px-George_Washington_P1190516.jpg)
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辞任挨拶[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/5000b.jpg/300px-5000b.jpg)
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本当の初代大統領か?[編集]
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晩年及び死後[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Gilbert_Stuart%2C_George_Washington_%28Lansdowne_portrait%2C_1796%29.jpg/200px-Gilbert_Stuart%2C_George_Washington_%28Lansdowne_portrait%2C_1796%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Mtvernon1.jpg/200px-Mtvernon1.jpg)
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個人として[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/George_Washington_dollar.jpg/200px-George_Washington_dollar.jpg)
![Mount Rushmore National Memorial](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/Mount_Rushmore_Closeup_2017.jpg/350px-Mount_Rushmore_Closeup_2017.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Mount_Rushmore_under_construction_%28circa_1932%29.jpg/200px-Mount_Rushmore_under_construction_%28circa_1932%29.jpg)
﹁桜の樹﹂の伝説[編集]
﹁ワシントンと奴隷﹂の伝説[編集]
ワシントンが逃げようとする奴隷を見つけたという逸話。ワシントンがまだ幼いころ、逃げる奴隷に小さな舟を与えたが、奴隷は、ワシントンが農園主に逃げたことを伝えると思い、ワシントンを川の途中の島において行こうとした。ワシントンは﹁私があなたを逃がしたら私が責任を問われる。私はとめないからここから自分で対岸まで泳ぎなさい。私はだれにも言いませんから﹂と言い、逃がしたと言われている。ワシントンと奴隷制[編集]
アメリカ独立戦争の前に、奴隷制について道徳的な留保を表明することはなかったが、1778年までに黒人奴隷の家族を壊すことを望まなかったので奴隷の同意なしに売買することをやめた。 1778年、戦争のまっただなかであったが、マウントバーノンの管理人に宛てて手紙を書き、大量の︵また徐々に年取りつつあった︶奴隷を使っていくことはもはや経済的に非効率なので、奴隷を売り﹁黒人とは縁を切り﹂たいと言った。しかし法律的には﹁妻の財産の奴隷﹂を売ることができず、その奴隷たちが自分の奴隷たちと結婚していたので、その家庭を壊さずに売り払うことはできなかった[36]。 戦後、個人的にはしばしば奴隷制度を嫌悪すると言っていた。ただし私人として疑念を表してはいたものの、それを公の場で批判することはなかった。実際に大統領としてのワシントンはフィラデルフィアの官邸に9人の家付き奴隷を連れてきていた。ペンシルベニア州の法律では、州内に居住した奴隷は6か月後に合法的に自由になるとされていた。ワシントンはマウントバーノンとフィラデルフィアの間で家付き奴隷を入れ替え、彼らに自由を与えないようにした。彼の採ったこの考え方は奴隷や大衆からは見えないようにされており、事実違法でもあった[注釈 5]。 ワシントンは奴隷を解放したことでは唯一の著名な建国の父であった。しかし、生きている間は解放せず、妻が死んだ時に自分の奴隷を解放するよう遺言を残した。その地所であるマウントバーノンにいた奴隷全部がワシントンの財産ではなかったことを理解するのは重要である。妻のマーサは多数の奴隷を所有しており、妻の領地からマウントバーノンに移ってきた奴隷を一方的に解放することができるとは思っていなかった。彼の行動はラファイエットとの親密な付き合いで影響されていた。マーサはその人生の後半に権利を得た奴隷を解放することはできた。ワシントンは表立って奴隷制に反対を表明しなかったが、歴史家のドロシー・トゥーヒッグは、既に神経質で対立的な問題になっていたことで誕生間もない共和国を2つに割る危険を望まなかったからだと主張した[38]。ワシントンとインディアン[編集]
ワシントンは黒人を奴隷として所有していたのと同様に、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いしていなかった。彼が名を上げた﹁フレンチ・インディアン戦争﹂では、イギリス植民地軍は多数のインディアン部族と同盟を組み、フランス軍と戦わせ、フランス側についたインディアン部族と殺し合いをさせた。ワシントンはインディアンを﹁猛獣 (beasts of prey)﹂と呼んで、大統領に就任するとこれを植民の障害としてのみとらえ、﹁ニューイングランド一帯のインディアン部族を絶滅させるように﹂と閣僚に命じた。 ワシントンはのちに、合衆国によるインディアン民族に対する民族浄化について、次のようにその考えを述べている[39]。 インディアンの諸国を相手とする、我々のやり方の基本は“正義”であったし、それはこれからもそうでなければならない。 1970年、インディアン権利団体﹁アメリカインディアン運動 (AIM)﹂は、スー族のブラックヒルズ一帯の占有権を認めた条約の確認を合衆国に求め、ワシントンらの﹁顔﹂の彫られたラシュモア山頂上で長期占拠抗議を行った。この際、スー族運動家のラッセル・ミーンズらインディアンたちは、ジョージ・ワシントンの﹁顔﹂に小便をかけてみせた。AIMのスポークスマンでもあるミーンズはジョージ・ワシントンについて、次のように述べている[40]。 合衆国がイギリスから独立した理由について、うんざりするほどのプロパガンダが語られている。しかし、実際のところは、大奴隷所有者であり最大地主であるジョージ・ワシントンは、アメリカインディアンと同盟を組んだイギリスのオリジナルの条約を、西半球で守る必要がないように、イギリスとの関係を断ったのである。そして合衆国は西半球を侵略し、土地を奪ったのだ。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
- 1789年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1792年アメリカ合衆国大統領選挙
- ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化
- ワシントン記念塔
- アメリカ合衆国建国の父
- ホワイトハウス
- 大量虐殺
- 白人至上主義
- 民族浄化
- プランテーション
- ワシントン誕生日 - アメリカ合衆国の連邦祝日の1つ。1880年にワシントンの実際の誕生日である2月22日として制定された。1971年に2月第3月曜日に改められた。
- ジョージ・ワシントン (空母)
- ネルソン (馬)
外部リンク[編集]
公職 | ||
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新設 | ![]() 1789年4月30日 – 1797年3月4日 |
次代 ジョン・アダムズ |
軍職 | ||
先代 ジェームズ・ウィルキンソン准将 |
アメリカ陸軍最先任士官 1798年7月13日 – 1799年12月14日 |
次代 アレクサンダー・ハミルトン少将 |
新設 | 大陸軍司令官 1775年6月15日 – 1783年12月23日 |
次代 ヘンリー・ノックス少将 (アメリカ陸軍最先任士官) |
名誉職 | ||
新設 | 最長寿のアメリカ合衆国大統領 1789年4月30日 – 1799年12月14日 |
次代 ジョン・アダムズ |
先代 リチャード・テリック |
ウィリアム・アンド・メアリー大学総長 1788年 – 1799年 |
次代 ジョン・タイラー |
- ジョージ・ワシントン
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- インディアン戦争の人物
- アメリカ合衆国の奴隷制
- アメリカ大陸の植民地化
- 白人優越主義
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- アメリカ啓蒙関係者
- 議会名誉黄金勲章受章者
- アメリカ合衆国ドル紙幣の人物
- アメリカ芸術科学アカデミー会員
- アメリカ哲学協会会員
- ワシントン家
- イングランド系アメリカ人
- バージニア州ウェストモアランド郡出身の人物
- 1732年生
- 1799年没