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「リチャード・H・アンダーソン」の版間の差分

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アンダーソンはその故郷である州と[[アメリカ連合国]]に付く道を選び、アメリカ陸軍を退役し(1861年3月3日に承認)、南軍に入隊した。[[1月28日]]付けで第1サウスカロライナ歩兵連隊の大佐としての任務を受けた<ref name=Eicher105>Eicher, p. 105.</ref>。4月の[[サムター要塞の戦い|サムター砦占領]]後は[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]港地域の指揮官を任された<ref name=Dupuy40>Dupuy, p. 40.</ref>。[[7月19日]]に准将に昇進し、[[フロリダ州]][[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]に転属となり、[[10月9日]]のサンタローザ島の戦いで左肘を負傷した。

アンダーソンはその故郷である州と[[アメリカ連合国]]に付く道を選び、アメリカ陸軍を退役し(1861年3月3日に承認)、南軍に入隊した。[[1月28日]]付けで第1サウスカロライナ歩兵連隊の大佐としての任務を受けた<ref name=Eicher105>Eicher, p. 105.</ref>。4月の[[サムター要塞の戦い|サムター砦占領]]後は[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]港地域の指揮官を任された<ref name=Dupuy40>Dupuy, p. 40.</ref>。[[7月19日]]に准将に昇進し、[[フロリダ州]][[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]に転属となり、[[10月9日]]のサンタローザ島の戦いで左肘を負傷した。

この傷が快復すると[[1862年]]2月に旅団指揮官としてポトマック軍に加わった(その春には北バージニア軍に吸収された)。[[半島方面作戦]]では5月の[[ウィリアムズバーグの戦い]]と[[セブンパインズの戦い]]、および6月から7月の[[七日間の戦い]]で頭角を現した。[[グレンデイルの戦い]]では[[ジェイムズ・ロングストリート]]少将の師団を一時的に指揮した。半島での優れた功績により、[[7月14日]]に少将に昇進し、ロングストリートの第1軍団で第2師団の指揮を任された<ref name=Eicher105/>。

この傷が快復すると[[1862年]]2月に旅団指揮官として[[ポトマック軍 (南軍)|ポトマック軍]]に加わった(その春には[[北バージニア軍]]に吸収された)。[[半島方面作戦]]では5月の[[ウィリアムズバーグの戦い]]と[[セブンパインズの戦い]]、および6月から7月の[[七日間の戦い]]で頭角を現した。[[グレンデイルの戦い]]では[[ジェイムズ・ロングストリート]]少将の師団を一時的に指揮した。半島での優れた功績により、[[7月14日]]に少将に昇進し、ロングストリートの第1軍団で第2師団の指揮を任された<ref name=Eicher105/>。



8月の[[第二次ブルランの戦い]]では、アンダーソンの掛けた攻撃が北軍の戦線を突破し、[[ワシントンD.C.]]周辺の塹壕まで撤退に追い込んだ。9月の[[アンティータムの戦い]]では、南軍防衛線の中央にあって、窪んだ道路すなわち「ブラッディ・レイン」での全体指揮を執った。アンダーソンは太腿に負傷して戦場を離れ(上級准将のロジャー・A・プライアーが引き継いだ)その後はその師団が躓き始め最終的に北軍の側面攻撃に圧倒されてその陣地から壊走することになった。その後12月の[[フレデリックスバーグの戦い]]では、その師団は激しく戦うことは無かった。

8月の[[第二次ブルランの戦い]]では、アンダーソンの掛けた攻撃が北軍の戦線を突破し、[[ワシントンD.C.]]周辺の塹壕まで撤退に追い込んだ。9月の[[アンティータムの戦い]]では、南軍防衛線の中央にあって、窪んだ道路すなわち「ブラッディ・レイン」での全体指揮を執った。アンダーソンは太腿に負傷して戦場を離れ(上級准将のロジャー・A・プライアーが引き継いだ)その後はその師団が躓き始め最終的に北軍の側面攻撃に圧倒されてその陣地から壊走することになった。その後12月の[[フレデリックスバーグの戦い]]では、その師団は激しく戦うことは無かった。


2012年10月1日 (月) 00:54時点における版

リチャード・ヘロン・アンダーソン
Richard Heron Anderson
1821年10月7日-1879年6月26日(57歳没)
[[ファイル:ファイル:Richard H. Anderson.jpg|200px]]
リチャード・ヘロン・アンダーソン将軍
渾名 ファイティング・デイック
生誕 サウスカロライナ州サムター郡
死没 サウスカロライナ州ボーフォート
軍歴 1842年-1861年(USA)
1861年-1865年(CSA)
最終階級 大尉(USA)、中将(CSA)
指揮 北バージニア軍第1軍団、第4軍団
戦闘

米墨戦争

南北戦争

テンプレートを表示

:Richard H. Anderson1821107-1879626[1] 

初期の経歴


[2]

1842756401[3]18421843西1843184418447161844184518451846[4]

184736981998817[5]91214[4]

184871321849184918501852185218531853185418541855[4]185533[3]185518561856185718581858185918591861[4]

南北戦争での従軍


退1861331281[3]4[5]719109

1862256771412[3]

8D.C.退9A12

1863553E651023AP3

ゲティスバーグ


771西3宿西

722A3沿R退73M退

荒野およびスポットシルバニア

スポットシルバニアの戦い、5月10日の戦闘

1864575812

6610[5]531[6]

1864101941865退西446[7]4832[8]1865927[3]

戦後

戦後、アンダーソンは1866年から1868年までステイトバーグで農場経営をし、綿花を育てた、これに失敗すると、サウスカロライナ鉄道の代理人となり、1868年から1878年までカムデンで働き、1879年にはサウスカロライナ州のリン酸塩検査官兼代理人になった[9]。アンダーソンは57歳の時にボーフォートで死に、そこのセントヘレナ・エピスコパル教会の教会墓地に埋葬されている[2]

脚注



(一)^ Dupuy, p. 40. "..."

(二)^ abUDC website

(三)^ abcdeEicher, p. 105.

(四)^ abcd"Military biography of Richard H. Anderson".  www.library.ci.corpus-christi.tx.us. 200898

(五)^ abcDupuy, p. 40.

(六)^ Dupuy, p. 40. 

(七)^ Foote, pp. 915-17.

(八)^ Eicher, p. 889

(九)^ Dupuy, p. 40., Eicher, p. 105.

参考文献

外部リンク