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Fujikawa Kazuto (会話 | 投稿記録)
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|退任日 = [[1945年]][[8月17日]]

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[[玉音放送]]の際の[[情報局|内閣情報局]]総裁であり、[[ポツダム宣言]]受諾の実現に尽力したことでも知られている。[[拓殖大学]]第6代学長。

[[玉音放送]]の際の[[情報局|内閣情報局]]総裁であり、[[ポツダム宣言]]受諾の実現に尽力したことでも知られている。[[拓殖大学]]第6代学長。

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[[和歌山県]]出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に[[逓信省]]に入り、退官後は実業家として活動する傍ら[[東京学園高等学校|東京商業学校]]の創設に関わった。

[[和歌山県]]出身。父・房次郎(1856年5月7日 - 1913年2月21日)は「和歌山日日新聞」を創刊した後に[[逓信省]]に入り、退官後は実業家として活動する傍ら[[東京学園高等学校|東京商業学校]]の創設に関わった。




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息子に[[劇団東演]]を主宰した演出家下村正夫(1913年 - 1977年)がいる。

息子に[[劇団東演]]を主宰した演出家下村正夫(1913年 - 1977年)がいる。

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== 歌人 ==

== 歌人 ==

[[File:Hiroshi Shimomura Uta Stele in Shionomisaki.jpg|thumb|200px|和歌山県串本町潮岬の下村宏歌碑]]

[[File:Hiroshi Shimomura Uta Stele in Shionomisaki.jpg|thumb|200px|和歌山県串本町潮岬の下村宏歌碑]]

[[歌人]]としては大正4年に[[佐佐木信綱]]主宰の竹柏会に入会し、竹柏会の「心の花」に多くの作品を寄せると共に生涯に5冊の歌集を出した。大正10年、兵庫県西宮市の[[苦楽園]]に邸宅を構え「海南荘」と称して約15年間ここに住み、その間、佐佐木信綱や[[川田順]]、九条武子、[[中村憲吉]]、[[土岐善麿]]など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催した。

[[歌人]]としては1915年に[[佐佐木信綱]]主宰の竹柏会に入会し、竹柏会の「心の花」に多くの作品を寄せると共に生涯に5冊の歌集を出した。1921年、兵庫県西宮市の[[苦楽園]]に邸宅を構え「海南荘」と称して約15年間ここに住み、その間、佐佐木信綱や[[川田順]]、九条武子、[[中村憲吉]]、[[土岐善麿]]など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催した。



== 玉音放送 ==

== 玉音放送 ==

昭和20(1945年)8月15日正午、[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]に際し、情報局総裁として本放送の前後に言葉を述べた。

19458月15日正午、[[昭和天皇]]による[[玉音放送]]に際し、情報局総裁として本放送の前後に言葉を述べた。



== 栄典 ==

== 栄典 ==


2017年3月20日 (月) 08:29時点における版

日本の旗 日本政治家

下村 宏

しもむら ひろし

生年月日 (1875-05-11) 1875年5月11日
出生地 和歌山県
没年月日 (1957-12-09) 1957年12月9日(82歳没)
出身校 東京帝国大学
前職 社団法人日本放送協会会長

日本の旗 内閣情報局総裁

内閣 鈴木貫太郎内閣
在任期間 1945年4月7日 - 1945年8月17日
テンプレートを表示

  18758511 - 195732129

6


185657 - 1913221退

189831便191321915419198

192110退 1937121943181945201953

1913 - 1977


191551921西15麿


1945815


191541110 - [1]

194520517 - [2]




1926

 11928

19501985 

 1953  



(19253)

 1925112330


 : PHP 2008

  PHPISBN 978-456979031220107


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下村 宏
下村 宏
  • 下村宏の銅像(和歌山県串本町潮岬)
    下村宏の銅像(和歌山県串本町潮岬
  • 出典

    1. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
    2. ^ 『官報』第5654号、「叙任及辞令」1945年11月15日。

    外部リンク


    公職
    先代
    内田嘉吉
    日本の旗 台湾総督府民政長官・総務長官
    第7代:1915 - 1921
    次代
    賀来佐賀太郎
    学職
    先代
    宇垣一成
    拓殖大学総長(学長)
    第6代:1945 - 1946
    次代
    高垣寅次郎
    その他の役職
    先代
    大島又彦
    日本体育協会会長
    第4代:1937 - 1942
    次代
    平沼亮三