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'''九鬼 周造'''︵くき しゅうぞう、[[1888年]][[2月15日]] - [[1941年]][[5月6日]]︶は、[[日本]]の[[哲学者]]。出身は[[東京府]][[東京市]]<ref>[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-kuki_guidance/ 九鬼の写真と紹介︵京都大学大学院文学研究科・文学部︶]</ref>。[[京都大学]][[教授]]。[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文科大学︵文学部︶]][[哲学|哲学科]]卒業、[[京都大学|京都帝国大学]][[博士︵文学︶|文学博士]]。
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'''九鬼 周造'''︵くき しゅうぞう、[[1888年]][[2月15日]] - [[1941年]][[5月6日]]︶は、[[日本]]の[[哲学者]]。出身は[[東京府]][[東京市]]<ref>[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-kuki_guidance/ 九鬼の写真と紹介︵京都大学大学院文学研究科・文学部︶]</ref>。[[京都大学]][[教授]]。[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文科大学︵文学部︶]][[哲学|哲学科]]卒業、[[京都大学|京都帝国大学]][[博士︵文学︶|文学博士]]。[[実存哲学]]の新展開を試み,日本固有の精神構造あるいは[[美意識]]を分析した。日本文化を分析した著書﹃﹁[[いき]]﹂の構造﹄で知られる
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==人物・経歴== |
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==人物・経歴== |
2019年6月4日 (火) 03:39時点における版
九鬼 周造︵くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日︶は、日本の哲学者。出身は東京府東京市[1]。京都大学教授。東京帝国大学文科大学︵文学部︶哲学科卒業、京都帝国大学文学博士。実存哲学の新展開を試み,日本固有の精神構造あるいは美意識を分析した。日本文化を分析した著書﹃﹁いき﹂の構造﹄で知られる
人物・経歴
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼水軍を率いた戦国武将の九鬼嘉隆。母の九鬼波津子は周造を妊娠中に岡倉覚三︵天心︶と恋におち︵隆一は岡倉の上司であった︶、隆一と別居︵のち離縁︶するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
1904年に東京高等師範学校附属中学校︵現・筑波大学附属中学校・高等学校︶卒業。第一高等学校独法科に進むも文科に転じる。東京帝国大学文科大学哲学科ではラファエル・フォン・ケーベルに師事した。東京大学哲学科卒業後、ヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学する。はじめドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、それでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、その哲学から強い影響を受ける。と同時に遊興にも走った。その後ふたたびドイツに留学すると、今度はマルティン・ハイデッガーに師事し、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代にあたり、﹁実存﹂といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデッガー受容において果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデッガーの方も九鬼を高く評価している[2]。
1929年に帰国してから1941年に没するまで、京都帝国大学文学部哲学科で、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした当時の現代哲学などを教えた。1929年に京都帝国大学講師に就任、1932年に博士論文﹁偶然性﹂を提出し京都帝国大学文学博士の学位を取得[3]、そして1933年助教授となり、1935年から西洋近世哲学史講座の教授となった[4]。
ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった九鬼は帰国後、その洞察を活かして﹁いきとは、垢抜けして、張のある、色っぽさ﹂の言葉のある﹃﹁いき﹂の構造﹄︵1930年︶を発表する。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である﹁いき﹂︵粋︶を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文で、これを考察の対象にしたということだけで当時は驚きをもって迎えられた。
九鬼は1941年に腹膜炎で死去し、京都の法然院で、谷崎潤一郎や内藤湖南らとともに眠っている。墓石の揮毫は同僚の西田幾多郎によるもので、側面には西田が翻訳も行ったゲーテの﹁さすらい人の夜の歌]︵Wandrers Nachtlied︶の一節が刻まれている。
九鬼の遺稿と蔵書は親友の天野貞祐︵当時、旧制甲南高等学校校長︶に託され、現在は甲南大学図書館に九鬼周造文庫として保存されている。
哲学
京都大学大学院文学研究科の思想家紹介において、九鬼の哲学は﹁二元性﹂という言葉によって説明されている。
……九鬼の哲学は﹁二元性﹂という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は﹃﹁いき﹂の構造﹄へと結実していく。さらに、﹁偶然性﹂と﹁必然性﹂あるいは﹁自己﹂と﹁他者﹂の二元性。この問題から結実するのが、主著﹃偶然性の問題﹄である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた﹁この私﹂の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない﹁この私﹂のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる﹁偶然性﹂を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の﹁独立の二元の邂逅﹂から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における﹁差異﹂という観点とも響き合い、現在注目を集めている。 — 京都大学大学院文学研究科・文学部思想家紹介、﹁九鬼周造﹂
主な著作は、﹃偶然性の問題﹄、﹃﹁いき﹂の構造﹄、﹃人間と実存﹄など。京都大学の思想家紹介においては、﹃人間と実存﹄収録の﹁哲学私見﹂がその入門書として推薦されている[5]。