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'''佐藤 清'''︵さとう きよし、[[1956年]][[2月21日]] - ︶は[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]]指導者・元選手︵[[投手]]、[[内野手]]︶である |
'''佐藤 清'''(さとう きよし、[[1956年]][[2月21日]] - )は[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]]指導者・元選手([[投手]]、[[内野手]])である。 |
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==人物・来歴== |
==人物・来歴== |
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[[天理高等学校]]では甲子園に3度出場。2年生時、[[1972年]][[第54回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では同期のエース[[金森道正]]を擁し、四番打者 |
[[天理高等学校]]では、2年生の夏から甲子園に3度出場<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=1970年代 ﹁夏の球児﹂ 写真特集‥時事ドットコム |url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=egw001-00000535&d=d4_news |website=時事ドットコム |access-date=2023-06-14 |language=ja |publisher=[[時事通信社]]}}</ref>。2年生時、[[1972年]][[第54回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では同期のエース[[金森道正]]を擁し、四番打者・[[一塁手]]として<ref name=":0" />準決勝に進出するが、この大会で優勝した[[大分県立津久見高等学校|津久見]]の[[水江正臣]]に抑えられ敗退。[[1973年]][[第45回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は投手として、金森との二本柱で準々決勝に進み、[[徳島県立鳴門渦潮高等学校|鳴門工]]の[[高橋周司]]と投げ合うが、0-2で完封負け。同年[[第55回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では三番打者・投手として<ref name=":0" />[[青森県立青森商業高等学校|青森商]]、[[中京高等学校 (岐阜県)|中京商]]を連続完封するが<ref name=":0" />、3回戦で[[植松精一]]らのいた[[静岡県立静岡高等学校|静岡高]]に敗れる。
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[[1974年]]に[[早稲田大学]]に進学し内野手に転向。同年は早大に[[山倉和博]]、[[法政大学野球部|法大]]には植松、[[江川卓 (野球)|江川卓]]、[[金光興二]]らが入学している。[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では[[1974年]]春季リーグで優勝したが、佐藤の活躍の場はなく、その後は法大の全盛期となって優勝には届かなかった。
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[[1974年]]に[[早稲田大学]]に進学し内野手に転向。同年は早大に[[山倉和博]]、[[法政大学野球部|法大]]には植松、[[江川卓 (野球)|江川卓]]、[[金光興二]]らが入学している。[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球リーグ]]では[[1974年]]春季リーグで優勝したが、佐藤の活躍の場はなく、その後は法大の全盛期となって優勝には届かなかった。
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2年生となった[[1975年]]春季リーグ戦から一塁手の定位置を獲得、いきなり[[慶應義塾大学野球部|慶大]]の[[後藤寿彦]]と首位打者争いを演じた。[[1976年]]秋の早慶2回戦では1試合3本塁打のリーグタイ記録(早慶戦記録)だけでなく2塁打・3塁打を放ち、1試合17塁打のリーグ記録を打ち立てた。この記録は現在も破られていない。東京六大学野球史上最長身の194cmの巨体を利した豪快な打撃で、リーグ通算78試合出場、277打数76安打、打率.274、14本塁打、47打点を記録、ベストナイン(一塁手)にも2回選出されている。山倉以外の大学同期にはエースの道方康友([[日本鋼管野球部|日本鋼管]]・城西国際大で佐藤の下コーチを務める)、[[二塁手]]の[[岡村猛]]らがいた。 |
2年生となった[[1975年]]春季リーグ戦から一塁手の定位置を獲得、いきなり[[慶應義塾大学野球部|慶大]]の[[後藤寿彦]]と首位打者争いを演じた。[[1976年]]秋の早慶2回戦では1試合3本塁打のリーグタイ記録(早慶戦記録)だけでなく2塁打・3塁打を放ち、1試合17塁打のリーグ記録を打ち立てた。この記録は現在も破られていない。東京六大学野球史上最長身の194cmの巨体を利した豪快な打撃で、リーグ通算78試合出場、277打数76安打、打率.274、14本塁打、47打点を記録、ベストナイン(一塁手)にも2回選出されている。山倉以外の大学同期にはエースの道方康友([[日本鋼管野球部|日本鋼管]] - [[JFE東日本硬式野球部|JFE東日本]]元監督・城西国際大で佐藤の下コーチを務める)、[[二塁手]]の[[岡村猛]]らがいた。 |
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卒業後は[[社会人野球]]の[[日本生命硬式野球部|日本生命]]に進み、[[1978年]]の[[第49回都市対抗野球大会|都市対抗]]に初出場。1回戦で東京六大学野球のライバルであった[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]の |
卒業後は[[社会人野球]]の[[日本生命硬式野球部|日本生命]]に進み、[[1978年]]の[[第49回都市対抗野球大会|都市対抗]]に初出場。1回戦で東京六大学野球のライバルであった[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]の鎗田英男から逆転本塁打を放ち注目を浴びる。同年の第25回[[IBAFワールドカップ|アマチュア野球世界選手権]]日本代表に選出されている。[[1985年]]の[[第56回都市対抗野球大会|都市対抗]]では4本塁打を放ち、決勝で[[東芝野球部|東芝]]に逆転勝ち、チームの初優勝に貢献した。[[1990年]]の[[第17回社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]でも活躍。[[新谷博]]の好投もあって決勝では日本石油を降し初優勝。この大会では優秀選手に選出された。引退後はコーチも務めた。
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愛称はマックス。由来は『[[8時だョ!全員集合]]』の巨大着ぐるみキャラクター「[[ジャンボマックス]]」から。 |
愛称はマックス<ref name=":0" />。由来は『[[8時だョ!全員集合]]』の巨大着ぐるみキャラクター「[[ジャンボマックス]]」から。 |
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===早大野球部監督時代、その後=== |
=== 早大野球部監督時代、その後 === |
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[[1995年]] |
[[1995年]]に母校である早大の第15代監督に就任した。 |
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早大監督時代の選手育成能力は高く評価されており、[[荒井修光]] |
早大監督時代の選手育成能力は高く評価されており、[[荒井修光]]、[[三澤興一]]、[[藤井秀悟]]らのプロ選手のほか多くの教え子が社会人野球で活躍した。特に[[新日鐵住金かずさマジック|かずさマジック]]の元主砲・[[矢口健一]]は、浪人を経て一般入学であったがグラウンド整備に使うトンボとグラウンドの塀を使って素振りさせるなど独特の指導で長距離打者の素質を開花させた。このほか[[日本文理大学]]を[[全日本大学野球選手権大会|大学選手権]]優勝に導いた[[中村壽博]]、母校・[[香川県立三本松高等学校|三本松高校]]を甲子園出場に導いた田中成明︵後に佐藤の下、城西国際大でコーチ︶らも門下生である。
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早大では4年8シーズンにわたって指揮を執ったが、勝率差で優勝を逃すこと2回、法大・[[明治大学硬式野球部|明大]]に阻まれて優勝は果たせなかった。 |
[[1999年]]3月に監督を退任。早大では4年8シーズンにわたって指揮を執ったが、勝率差で優勝を逃すこと2回、法大・[[明治大学硬式野球部|明大]]に阻まれて優勝は果たせなかった。佐藤の後を受けた[[野村徹]]は、就任直後の1999年春季リーグ戦での優勝を、清の指導のおかげであるとして感謝を忘れなかった。
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その後は社業の傍ら[[選抜高等学校野球大会]]の選考委員などを務め、[[2007年]]から[[城西国際大学]]硬式野球部の監督に請われて就任、9年ぶりにユニフォームに袖を通し |
その後は社業の傍ら[[選抜高等学校野球大会]]の選考委員などを務め、[[2007年]]から[[城西国際大学]]硬式野球部の監督に請われて就任、9年ぶりにユニフォームに袖を通した。[[2010年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2010年のドラフト会議]]にて、[[黒沢翔太]]が[[千葉ロッテマリーンズ]]から育成1位で指名を受けて入団。[[2015年]]には春季リーグ優勝を飾り、大学選手権に初出場すると[[2015年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]では支配下選手として[[宇佐見真吾]]、卒業後に社会人野球へ進んだ[[野川拓斗]]も指名された。[[2019年]]春は大学選手権に出場してベスト8、秋は[[関東地区大学野球選手権大会]]を制して[[明治神宮野球大会]]に初出場するとベスト4進出を果たした。
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{{by|2021年}}3月末で城西国際大学の監督を退任し<ref>{{Cite web|和書|url= https://hochi.news/articles/20210330-OHT1T50388.html|title=【大学野球】城西国際大・佐藤清監督が退任 日本ハム・宇佐見らを育成|publisher=スポーツ報知|date=2021-03-31|accessdate=2021-03-31}}</ref>、翌4月より[[早稲田摂陵中学校・高等学校|早稲田摂陵高校]]野球部の監督に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/04/02/kiji/20210402s00001002321000c.html|title= “マックス”こと佐藤清氏 早稲田摂陵高校野球部の監督に就任 |publisher=スポーツニッポン|date=2021-04-02|accessdate=2021-04-02}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://jiu0089baseball.web.fc2.com/satoh_kiyoshi.html 城西国際大学 硬式野球部監督 佐藤清] |
* [http://jiu0089baseball.web.fc2.com/satoh_kiyoshi.html 城西国際大学 硬式野球部監督 佐藤清] |
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2024年5月22日 (水) 14:20時点における最新版
早稲田摂陵高校野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県 |
生年月日 | 1956年2月21日(68歳) |
身長 体重 |
194 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手、内野手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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人物・来歴[編集]
現役時代[編集]
天理高等学校では、2年生の夏から甲子園に3度出場[1]。2年生時、1972年夏の選手権では同期のエース金森道正を擁し、四番打者・一塁手として[1]準決勝に進出するが、この大会で優勝した津久見の水江正臣に抑えられ敗退。1973年春の選抜は投手として、金森との二本柱で準々決勝に進み、鳴門工の高橋周司と投げ合うが、0-2で完封負け。同年夏の選手権では三番打者・投手として[1]青森商、中京商を連続完封するが[1]、3回戦で植松精一らのいた静岡高に敗れる。 1974年に早稲田大学に進学し内野手に転向。同年は早大に山倉和博、法大には植松、江川卓、金光興二らが入学している。東京六大学野球リーグでは1974年春季リーグで優勝したが、佐藤の活躍の場はなく、その後は法大の全盛期となって優勝には届かなかった。 2年生となった1975年春季リーグ戦から一塁手の定位置を獲得、いきなり慶大の後藤寿彦と首位打者争いを演じた。1976年秋の早慶2回戦では1試合3本塁打のリーグタイ記録︵早慶戦記録︶だけでなく2塁打・3塁打を放ち、1試合17塁打のリーグ記録を打ち立てた。この記録は現在も破られていない。東京六大学野球史上最長身の194cmの巨体を利した豪快な打撃で、リーグ通算78試合出場、277打数76安打、打率.274、14本塁打、47打点を記録、ベストナイン︵一塁手︶にも2回選出されている。山倉以外の大学同期にはエースの道方康友︵日本鋼管 - JFE東日本元監督・城西国際大で佐藤の下コーチを務める︶、二塁手の岡村猛らがいた。 卒業後は社会人野球の日本生命に進み、1978年の都市対抗に初出場。1回戦で東京六大学野球のライバルであった日本石油の鎗田英男から逆転本塁打を放ち注目を浴びる。同年の第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出されている。1985年の都市対抗では4本塁打を放ち、決勝で東芝に逆転勝ち、チームの初優勝に貢献した。1990年の日本選手権でも活躍。新谷博の好投もあって決勝では日本石油を降し初優勝。この大会では優秀選手に選出された。引退後はコーチも務めた。 愛称はマックス[1]。由来は﹃8時だョ!全員集合﹄の巨大着ぐるみキャラクター﹁ジャンボマックス﹂から。早大野球部監督時代、その後[編集]
1995年に母校である早大の第15代監督に就任した。 早大監督時代の選手育成能力は高く評価されており、荒井修光、三澤興一、藤井秀悟らのプロ選手のほか多くの教え子が社会人野球で活躍した。特にかずさマジックの元主砲・矢口健一は、浪人を経て一般入学であったがグラウンド整備に使うトンボとグラウンドの塀を使って素振りさせるなど独特の指導で長距離打者の素質を開花させた。このほか日本文理大学を大学選手権優勝に導いた中村壽博、母校・三本松高校を甲子園出場に導いた田中成明︵後に佐藤の下、城西国際大でコーチ︶らも門下生である。 1999年3月に監督を退任。早大では4年8シーズンにわたって指揮を執ったが、勝率差で優勝を逃すこと2回、法大・明大に阻まれて優勝は果たせなかった。佐藤の後を受けた野村徹は、就任直後の1999年春季リーグ戦での優勝を、清の指導のおかげであるとして感謝を忘れなかった。 その後は社業の傍ら選抜高等学校野球大会の選考委員などを務め、2007年から城西国際大学硬式野球部の監督に請われて就任、9年ぶりにユニフォームに袖を通した。2010年のドラフト会議にて、黒沢翔太が千葉ロッテマリーンズから育成1位で指名を受けて入団。2015年には春季リーグ優勝を飾り、大学選手権に初出場すると同年のドラフト会議では支配下選手として宇佐見真吾、卒業後に社会人野球へ進んだ野川拓斗も指名された。2019年春は大学選手権に出場してベスト8、秋は関東地区大学野球選手権大会を制して明治神宮野球大会に初出場するとベスト4進出を果たした。 2021年3月末で城西国際大学の監督を退任し[2]、翌4月より早稲田摂陵高校野球部の監督に就任した[3]。脚注[編集]
外部リンク[編集]
野球日本代表 |
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