コンテンツにスキップ

「佐藤清」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
出典・脚注の追加。
m Bot: 改名に伴う内部リンク等修正 (東芝野球部関連) - T24235
 
(3人の利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:

{{Otheruses}}

{{Other people}}

{{Infobox baseball player

{{Infobox baseball player

| 選手名 = 佐藤 清

| 選手名 = 佐藤 清

18行目: 18行目:

* [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]

* [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]

* [[日本生命硬式野球部|日本生命]]

* [[日本生命硬式野球部|日本生命]]

| 経歴補足題 = 監督歴

| 経歴補足題 = 監督・コーチ

| 経歴補足 =

| 経歴補足 =

* 日本生命

* [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]

* [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]

* [[城西国際大学]]

* [[城西国際大学]]

28行目: 29行目:

==人物・来歴==

==人物・来歴==

=== 現役時代 ===

=== 現役時代 ===

[[天理高等学校]]では、2年生の夏から甲子園に3度出場<ref name=":0">{{Cite web |title=1970年代 「夏の球児」 写真特集:時事ドットコム |url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=egw001-00000535&d=d4_news |website=時事ドットコム |access-date=2023-06-14 |language=ja |publisher=[[時事通信社]]}}</ref>。2年生時、[[1972年]][[第54回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では同期のエース[[金森道正]]を擁し、四番打者・[[一塁手]]として<ref name=":0" />準決勝に進出するが、この大会で優勝した[[大分県立津久見高等学校|津久見]]の[[水江正臣]]に抑えられ敗退。[[1973年]][[第45回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は投手として、金森との二本柱で準々決勝に進み、[[徳島県立鳴門渦潮高等学校|鳴門工]]の[[高橋周司]]と投げ合うが、0-2で完封負け。同年[[第55回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では三番打者・投手として<ref name=":0" />[[青森県立青森商業高等学校|青森商]]、[[中京高等学校 (岐阜県)|中京商]]を連続完封するが<ref name=":0" />、3回戦で[[植松精一]]らのいた[[静岡県立静岡高等学校|静岡高]]に敗れる。

[[天理高等学校]]では、2年生の夏から甲子園に3度出場<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=1970年代 「夏の球児」 写真特集:時事ドットコム |url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=egw001-00000535&d=d4_news |website=時事ドットコム |access-date=2023-06-14 |language=ja |publisher=[[時事通信社]]}}</ref>。2年生時、[[1972年]][[第54回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では同期のエース[[金森道正]]を擁し、四番打者・[[一塁手]]として<ref name=":0" />準決勝に進出するが、この大会で優勝した[[大分県立津久見高等学校|津久見]]の[[水江正臣]]に抑えられ敗退。[[1973年]][[第45回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は投手として、金森との二本柱で準々決勝に進み、[[徳島県立鳴門渦潮高等学校|鳴門工]]の[[高橋周司]]と投げ合うが、0-2で完封負け。同年[[第55回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では三番打者・投手として<ref name=":0" />[[青森県立青森商業高等学校|青森商]]、[[中京高等学校 (岐阜県)|中京商]]を連続完封するが<ref name=":0" />、3回戦で[[植松精一]]らのいた[[静岡県立静岡高等学校|静岡高]]に敗れる。




[[1974]][[]][[]][[|]][[ ()|]][[]][[|]][[1974]]

[[1974]][[]][[]][[|]][[ ()|]][[]][[|]][[1974]]
34行目: 35行目:

2年生となった[[1975年]]春季リーグ戦から一塁手の定位置を獲得、いきなり[[慶應義塾大学野球部|慶大]]の[[後藤寿彦]]と首位打者争いを演じた。[[1976年]]秋の早慶2回戦では1試合3本塁打のリーグタイ記録(早慶戦記録)だけでなく2塁打・3塁打を放ち、1試合17塁打のリーグ記録を打ち立てた。この記録は現在も破られていない。東京六大学野球史上最長身の194cmの巨体を利した豪快な打撃で、リーグ通算78試合出場、277打数76安打、打率.274、14本塁打、47打点を記録、ベストナイン(一塁手)にも2回選出されている。山倉以外の大学同期にはエースの道方康友([[日本鋼管野球部|日本鋼管]] - [[JFE東日本硬式野球部|JFE東日本]]元監督・城西国際大で佐藤の下コーチを務める)、[[二塁手]]の[[岡村猛]]らがいた。

2年生となった[[1975年]]春季リーグ戦から一塁手の定位置を獲得、いきなり[[慶應義塾大学野球部|慶大]]の[[後藤寿彦]]と首位打者争いを演じた。[[1976年]]秋の早慶2回戦では1試合3本塁打のリーグタイ記録(早慶戦記録)だけでなく2塁打・3塁打を放ち、1試合17塁打のリーグ記録を打ち立てた。この記録は現在も破られていない。東京六大学野球史上最長身の194cmの巨体を利した豪快な打撃で、リーグ通算78試合出場、277打数76安打、打率.274、14本塁打、47打点を記録、ベストナイン(一塁手)にも2回選出されている。山倉以外の大学同期にはエースの道方康友([[日本鋼管野球部|日本鋼管]] - [[JFE東日本硬式野球部|JFE東日本]]元監督・城西国際大で佐藤の下コーチを務める)、[[二塁手]]の[[岡村猛]]らがいた。




[[]][[|]][[1978]][[49|]]1[[JX-ENEOS|]]25[[IBAF|]][[1985]][[56|]]4[[|]][[1990]][[17|]][[]]

[[]][[|]][[1978]][[49|]]1[[JX-ENEOS|]]25[[IBAF|]][[1985]][[56|]]4[[|]][[1990]][[17|]][[]]退


愛称はマックス<ref name=":0" />。由来は『[[8時だョ!全員集合]]』の巨大着ぐるみキャラクター「[[ジャンボマックス]]」から。

愛称はマックス<ref name=":0" />。由来は『[[8時だョ!全員集合]]』の巨大着ぐるみキャラクター「[[ジャンボマックス]]」から。

41行目: 42行目:

[[1995年]]に母校である早大の第15代監督に就任した。

[[1995年]]に母校である早大の第15代監督に就任した。



早大監督時代の選手育成能力は高く評価されており、[[荒井修光]][[三澤興一]]らのプロ選手のほか多くの教え子が社会人野球で活躍した。特に[[新日鐵住金かずさマジック|かずさマジック]]の元主砲・[[矢口健一]]は、浪人を経て一般入学であったがグラウンド整備に使うトンボとグラウンドの塀を使って素振りさせるなど独特の指導で長距離打者の素質を開花させた。このほか[[日本文理大学]]を[[全日本大学野球選手権大会|大学選手権]]優勝に導いた[[中村壽博]]、母校・[[香川県立三本松高等学校|三本松高校]]を甲子園出場に導いた田中成明(後に佐藤の下、城西国際大でコーチ)らも門下生である。

早大監督時代の選手育成能力は高く評価されており、[[荒井修光]][[三澤興一]]、[[藤井秀悟]]らのプロ選手のほか多くの教え子が社会人野球で活躍した。特に[[新日鐵住金かずさマジック|かずさマジック]]の元主砲・[[矢口健一]]は、浪人を経て一般入学であったがグラウンド整備に使うトンボとグラウンドの塀を使って素振りさせるなど独特の指導で長距離打者の素質を開花させた。このほか[[日本文理大学]]を[[全日本大学野球選手権大会|大学選手権]]優勝に導いた[[中村壽博]]、母校・[[香川県立三本松高等学校|三本松高校]]を甲子園出場に導いた田中成明(後に佐藤の下、城西国際大でコーチ)らも門下生である。



[[1999年]]3月に監督を退任。早大では4年8シーズンにわたって指揮を執ったが、勝率差で優勝を逃すこと2回、法大・[[明治大学硬式野球部|明大]]に阻まれて優勝は果たせなかった。佐藤の後を受けた[[野村徹]]は、就任直後の1999年春季リーグ戦での優勝を、清の指導のおかげであるとして感謝を忘れなかった。

[[1999年]]3月に監督を退任。早大では4年8シーズンにわたって指揮を執ったが、勝率差で優勝を逃すこと2回、法大・[[明治大学硬式野球部|明大]]に阻まれて優勝は果たせなかった。佐藤の後を受けた[[野村徹]]は、就任直後の1999年春季リーグ戦での優勝を、清の指導のおかげであるとして感謝を忘れなかった。

47行目: 48行目:

その後は社業の傍ら[[選抜高等学校野球大会]]の選考委員などを務め、[[2007年]]から[[城西国際大学]]硬式野球部の監督に請われて就任、9年ぶりにユニフォームに袖を通した。[[2010年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2010年のドラフト会議]]にて、[[黒沢翔太]]が[[千葉ロッテマリーンズ]]から育成1位で指名を受けて入団。[[2015年]]には春季リーグ優勝を飾り、大学選手権に初出場すると[[2015年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]では支配下選手として[[宇佐見真吾]]、卒業後に社会人野球へ進んだ[[野川拓斗]]も指名された。[[2019年]]春は大学選手権に出場してベスト8、秋は[[関東地区大学野球選手権大会]]を制して[[明治神宮野球大会]]に初出場するとベスト4進出を果たした。

その後は社業の傍ら[[選抜高等学校野球大会]]の選考委員などを務め、[[2007年]]から[[城西国際大学]]硬式野球部の監督に請われて就任、9年ぶりにユニフォームに袖を通した。[[2010年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2010年のドラフト会議]]にて、[[黒沢翔太]]が[[千葉ロッテマリーンズ]]から育成1位で指名を受けて入団。[[2015年]]には春季リーグ優勝を飾り、大学選手権に初出場すると[[2015年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]では支配下選手として[[宇佐見真吾]]、卒業後に社会人野球へ進んだ[[野川拓斗]]も指名された。[[2019年]]春は大学選手権に出場してベスト8、秋は[[関東地区大学野球選手権大会]]を制して[[明治神宮野球大会]]に初出場するとベスト4進出を果たした。



{{by|2021年}}3月末で城西国際大学の監督を退任し<ref>{{Cite web|url= https://hochi.news/articles/20210330-OHT1T50388.html|title=【大学野球】城西国際大・佐藤清監督が退任 日本ハム・宇佐見らを育成|publisher=スポーツ報知|date=2021-03-31|accessdate=2021-03-31}}</ref>、翌4月より[[早稲田摂陵中学校・高等学校|早稲田摂陵高校]]野球部の監督に就任した<ref>{{Cite web|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/04/02/kiji/20210402s00001002321000c.html|title= “マックス”こと佐藤清氏 早稲田摂陵高校野球部の監督に就任 |publisher=スポーツニッポン|date=2021-04-02|accessdate=2021-04-02}}</ref>。


{{by|2021}}3西退<ref>{{Cite web||url= https://hochi.news/articles/20210330-OHT1T50388.html|title=西退 |publisher=|date=2021-03-31|accessdate=2021-03-31}}</ref>4[[|]]<ref>{{Cite web||url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/04/02/kiji/20210402s00001002321000c.html|title=   |publisher=|date=2021-04-02|accessdate=2021-04-02}}</ref>


== 脚注 ==

== 脚注 ==


2024年5月22日 (水) 14:20時点における最新版

佐藤 清
早稲田摂陵高校野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県
生年月日 (1956-02-21) 1956年2月21日(68歳)
身長
体重
194 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴

監督・コーチ歴


  1956221 - 

[]

[]


23[1]21972[1]退19730-2[1][1]3

19741974

21975寿197621323117194cm7827776.27414472 - JFE西

1978125198541990退

[1]8!

[]


199515

使使西

19993退4821999

2007西9201012015201984

20213西退[2]4[3]

脚注[編集]



(一)^ abcde  . .  . 2023614

(二)^ 西退 .   (2021331). 2021331

(三)^  .   (202142). 202142

外部リンク[編集]