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|出身校 = [[早稲田大学政治経済学部]]卒業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462439/90 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年12月、p.125]</ref> |
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|前職 = 早稲田大学教授 |
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|所属政党 = ([[労働農民党]]→)<br/>([[労働者農民党 (1928)|労働者農民党]]→)<br/>([[労農党 (1929-1931)|新労農党]]→)<br />[[無所属]] |
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'''大山 郁夫'''(おおやま いくお、[[1880年]]([[明治]]13年)[[9月20日]] - [[1955年]]([[昭和]]30年)[[11月30日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[政治学者]]。 |
'''大山 郁夫'''(おおやま いくお、[[1880年]]([[明治]]13年)[[9月20日]] - [[1955年]]([[昭和]]30年)[[11月30日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[政治学者]]。 |
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== 来歴・人物 == |
== 来歴・人物 == |
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[[兵庫県]][[赤穂郡]]若狭野村︵現[[相生市]]︶の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の大山晨一郎の養子となり大山姓となる<ref>{{Cite book|和書|title=われ徒死せず|author=福本龍|publisher=[[国書刊行会]]|date=2004|page=318|isbn=4-336-04642-5|ref=harv}}</ref>。東京専門学校に入学し、在学中に[[早稲田大学 |
[[兵庫県]][[赤穂郡]]若狭野村︵現[[相生市]]︶の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に[[神戸市|神戸]]の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる<ref>{{Cite book|和書|title=われ徒死せず|author=福本龍|publisher=[[国書刊行会]]|date=2004|page=318|isbn=4-336-04642-5|ref=harv}}</ref>。[[東京専門学校]]に入学し、在学中に[[早稲田大学政治経済学部]]に改組され、[[1905年]]に同学部を首席で卒業。[[シカゴ大学]]および[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]への留学を経て[[1914年]]に[[早稲田大学]]教授となり、[[政治学]]を講じた。[[1917年]]の[[早稲田騒動]]で早大を去り[[朝日新聞社]]に入社するが、翌年[[白虹事件]]により辞職。[[1919年]]、[[長谷川如是閑]]らと雑誌﹃[[我等]]﹄を創刊するとともに[[大正デモクラシー]]を唱道する[[黎明会]]に参加。[[1921年]]に早稲田大学教授に復帰。
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復帰後の講義は「大山さんの政治学」として午前8時の授業開始時間にもかかわらず他学部の学生も詰めかける人気を博した<ref>早大教授辞職を申し出る『東京朝日新聞』昭和2年1月15日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p31 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 |
復帰後の講義は「大山さんの政治学」として午前8時の授業開始時間にもかかわらず他学部の学生も詰めかける人気を博した<ref>早大教授辞職を申し出る『東京朝日新聞』昭和2年1月15日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p31 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 |
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その後左派[[無産政党]]である[[労働農民党]]の委員長となり、「'''輝ける委員長'''」の愛称が付く。 |
その後[[左翼|左派]][[無産政党]]である[[労働農民党]]の委員長となり、﹁'''輝ける委員長(輝ける労農党首<ref name="tensei-jingo-1">{{Cite Book |title=天声人語 1 |date=1981-01-20 |publisher=朝日新聞 |page=155}}</ref>)'''﹂の愛称が付く。
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[[1927年]]1月、労農党の党務に専念するため早稲田大学を辞任<ref>教授会も投票で大山辞任を承認『東京日日新聞』昭和2年1月27日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p32)</ref>。 |
[[1927年]]1月、労農党の党務に専念するため早稲田大学を辞任<ref>教授会も投票で大山辞任を承認『東京日日新聞』昭和2年1月27日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p32)</ref>。 |
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[[1928年]]の[[第16回衆議院議員総選挙]]に[[田中義一内閣]]の[[大蔵大臣]]だった[[三土忠造]]と同じ[[香川県]]から立候補するが、官憲の激しい選挙干渉に遭い落選<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453092/236 『第16回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1928年、pp.453,457-461]</ref>。落選報告会に参加しようとした弁士が多数拘束されるなど徹底した弾圧は続いた<ref>落選報告の演説会にも弾圧の手『東京日日新聞』昭和3年2月25日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p34)</ref>。 |
[[1928年]]の[[第16回衆議院議員総選挙]]に[[田中義一内閣]]の[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]だった[[三土忠造]]と同じ[[香川県]]から立候補するが、官憲の激しい選挙干渉に遭い落選<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453092/236 ﹃第16回衆議院議員総選挙一覧﹄衆議院事務局、1928年、pp.453,457-461]</ref>。落選報告会に参加しようとした弁士が多数拘束されるなど徹底した[[弾圧]]は続いた<ref>落選報告の演説会にも弾圧の手﹃東京日日新聞﹄昭和3年2月25日︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p34︶</ref>。
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さらに同年4月11日、[[山陰地方]]遊説の帰路、[[水谷長三郎]]とともに[[東京駅]]に到着したところ、ホーム上で右翼の一群に囲まれて殴打され負傷する事件も発生した。大山を警護していた警察官は暴徒を拘束しないばかりか、旧労農党員2人をビラを撒いた容疑で拘束した<ref>地方遊説から帰京、右翼に襲われる『東京朝日新聞』昭和3年4月12日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p35)</ref>。 |
さらに同年4月11日、[[山陰地方]]遊説の帰路、[[水谷長三郎]]とともに[[東京駅]]に到着したところ、ホーム上で[[右翼]]の一群に囲まれて殴打され負傷する事件も発生した。大山を警護していた[[日本の警察官|警察官]]は暴徒を拘束しないばかりか、旧労農党員2人をビラを撒いた容疑で拘束した<ref>地方遊説から帰京、右翼に襲われる﹃東京朝日新聞﹄昭和3年4月12日︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p35︶</ref>。
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[[1930年]]の[[第17回衆議院議員総選挙|総選挙]]で[[労農党 (1929-1931)|新労農党]]より立候補し当選する<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453117/8 ﹃第17回衆議院議員総選挙一覧﹄衆議院事務局、1930年、pp.2,4-6]</ref>が、この際﹁合法政党無用論﹂をとり同党の結成に反対した共産党系勢力︵かつて労農党からの立候補時には組織的支援を与えていた︶からは﹁大山師﹂︵大山氏のもじり︶と悪罵を投げかけられた。新労農党内で解消問題が起こり[[河上肇]]と決別し、1932年に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[亡命]]。[[ノースウェスタン大学]]政治学部研究嘱託。
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戦後、[[1947年]]に帰国。[[1950年]]の[[第2回参議院議員通常選挙|参院選]]に[[日本社会党]]・[[日本共産党]]などで構成される[[全京都民主戦線統一会議]]︵民統︶の支援を得て立候補、途中社会党が[[馬谷憲太郎]]を擁立して戦線に乱れが生じるものの当選する<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1340459/233 ﹃第2回参議院議員選挙一覧﹄参議院事務局、1953年、pp.220,257]</ref>︵馬谷は落選︶。なお、同年には[[京都府知事一覧|京都府知事]]・[[京都市長]]の選挙も行われ、それぞれ民統が推した[[蜷川虎三]]・[[高山義三]]が当選している。1951年の12月に[[レーニン平和賞|スターリン国際平和賞]]受賞。参院議員在職中の1955年に[[硬膜下血腫]]のため死去<ref>[[服部敏良]]﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶6頁</ref>。墓所は[[小平霊園]]。
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[[1930年]]の[[第17回衆議院議員総選挙|総選挙]]で[[労農党 (1929-1931)|新労農党]]より立候補し当選する<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453117/8 ﹃第17回衆議院議員総選挙一覧﹄衆議院事務局、1930年、pp.2,4-6]</ref>が、この際﹁合法政党無用論﹂をとり同党の結成に反対した |
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* 実父・福本剛策 ‐ 兵庫県赤穂郡の医師 |
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* 養父・大山晨一郎 ‐ 神戸、日本米穀輸出会社員 |
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* 実弟・[[福本順三郎]]︵1880-︶‐[[満洲国]][[大連市|大連]]税関長。[[東京高等商業学校]]卒。長男に[[砧一郎]]<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/8312058/1/1576 福本順三郎]﹃大衆人事録 第11版﹄1935、p77</ref><ref>[https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100330456 紛糾する大連海関問題 : 唯一の解決策は満洲国の要求承認 : 福本税関長乗り出す : 二十一日本社大連特電] 大阪朝日新聞、 1932-06-22</ref>。
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* 妻・りゅう(1887-) ‐ [[水野正巳]]の養妹<ref>『人事興信録 第15版 上』1948「大山郁夫」</ref> |
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* 長男・大山聡︵1915-2002︶ ‐ [[成城大学]]文芸学部教授、[[東京都立大学 (1949-2011)|東京都立大学]]名誉教授。[[東京大学|東大]]独文科卒。
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== 著書 == |
== 著書 == |
2024年7月11日 (木) 07:47時点における最新版
大山 郁夫 おおやま いくお | |
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生年月日 | 1880年9月20日 |
出生地 |
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没年月日 | 1955年11月30日(75歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業[1] |
前職 | 早稲田大学教授 |
所属政党 |
(労働農民党→) (労働者農民党→) (新労農党→) 無所属 |
称号 | スターリン国際平和賞 |
選挙区 | 京都府選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1950年6月5日 - 1955年11月30日 |
選挙区 | 東京府第5区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1930年2月21日 - 1932年1月21日 |
来歴・人物[編集]
兵庫県赤穂郡若狭野村︵現相生市︶の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる[2]。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。シカゴ大学およびミュンヘン大学への留学を経て1914年に早稲田大学教授となり、政治学を講じた。1917年の早稲田騒動で早大を去り朝日新聞社に入社するが、翌年白虹事件により辞職。1919年、長谷川如是閑らと雑誌﹃我等﹄を創刊するとともに大正デモクラシーを唱道する黎明会に参加。1921年に早稲田大学教授に復帰。 復帰後の講義は﹁大山さんの政治学﹂として午前8時の授業開始時間にもかかわらず他学部の学生も詰めかける人気を博した[3]。 その後左派無産政党である労働農民党の委員長となり、﹁輝ける委員長(輝ける労農党首[4])﹂の愛称が付く。 1927年1月、労農党の党務に専念するため早稲田大学を辞任[5]。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に田中義一内閣の大蔵大臣だった三土忠造と同じ香川県から立候補するが、官憲の激しい選挙干渉に遭い落選[6]。落選報告会に参加しようとした弁士が多数拘束されるなど徹底した弾圧は続いた[7]。 さらに同年4月11日、山陰地方遊説の帰路、水谷長三郎とともに東京駅に到着したところ、ホーム上で右翼の一群に囲まれて殴打され負傷する事件も発生した。大山を警護していた警察官は暴徒を拘束しないばかりか、旧労農党員2人をビラを撒いた容疑で拘束した[8]。 1930年の総選挙で新労農党より立候補し当選する[9]が、この際﹁合法政党無用論﹂をとり同党の結成に反対した共産党系勢力︵かつて労農党からの立候補時には組織的支援を与えていた︶からは﹁大山師﹂︵大山氏のもじり︶と悪罵を投げかけられた。新労農党内で解消問題が起こり河上肇と決別し、1932年にアメリカに亡命。ノースウェスタン大学政治学部研究嘱託。 戦後、1947年に帰国。1950年の参院選に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議︵民統︶の支援を得て立候補、途中社会党が馬谷憲太郎を擁立して戦線に乱れが生じるものの当選する[10]︵馬谷は落選︶。なお、同年には京都府知事・京都市長の選挙も行われ、それぞれ民統が推した蜷川虎三・高山義三が当選している。1951年の12月にスターリン国際平和賞受賞。参院議員在職中の1955年に硬膜下血腫のため死去[11]。墓所は小平霊園。家族[編集]
●実父・福本剛策 ‐ 兵庫県赤穂郡の医師 ●養父・大山晨一郎 ‐ 神戸、日本米穀輸出会社員 ●実弟・福本順三郎︵1880-︶‐満洲国大連税関長。東京高等商業学校卒。長男に砧一郎[12][13]。 ●妻・りゅう︵1887-︶ ‐ 水野正巳の養妹[14] ●長男・大山聡︵1915-2002︶ ‐ 成城大学文芸学部教授、東京都立大学名誉教授。東大独文科卒。著書[編集]
単著[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB%E6%99%82%E5%B1%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%EF%BC%881919%E5%B9%B4%E9%A0%83%EF%BC%89.jpg/220px-%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB%E6%99%82%E5%B1%80%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%EF%BC%881919%E5%B9%B4%E9%A0%83%EF%BC%89.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Ikuo_Oyama_in_Moscow.jpg/170px-Ikuo_Oyama_in_Moscow.jpg)
翻訳[編集]
●ギュスターヴ・ル・ボン﹃群衆心理﹄大日本文明協会、1910年12月。監修[編集]
●﹃マルクス主義講座﹄河上肇・大山郁夫監修、マルクス主義講座刊行会、1929年9月。共著[編集]
●大山郁夫﹃露西亜承認論﹄東方時論社、1923年6月。NDLJP:911178。 ●大山郁夫、上村進、細迫兼光﹃新労農党樹立の提案 親愛なる全国の戦闘的労働者農民諸君の前に﹄同人社、1929年8月。 ●大山郁夫、細迫兼光、河上肇﹃左翼戦線の新展開 新労農党樹立の階級的意義﹄同人社︿新労農党パンフレット No.1﹀、1929年10月。共編[編集]
●大山郁夫・無産者自由大学共編 編﹃政治学﹄南宋書院︿無産者自由大学 第9講座﹀、1928年9月。NDLJP:1460552。共訳[編集]
●ギュスターヴ・ル・ボン 著、大山郁夫・前田長太 訳﹃民族心理及群衆心理﹄大日本文明協会、1918年11月。作品集[編集]
●﹃大山郁夫・末川博・柳田謙十郎集﹄創元社︿現代随想全集 第15巻﹀、1954年5月。全集[編集]
●﹃大山郁夫全集﹄ 第1巻、中央公論社、1947年2月。 ●﹃大山郁夫全集﹄ 第2巻、中央公論社、1947年10月。 ●﹃大山郁夫全集﹄ 第3巻、中央公論社、1948年2月。 ●﹃大山郁夫全集﹄ 第4巻、中央公論社、1948年5月。 ●﹃大山郁夫全集﹄ 第5巻、中央公論社、1949年6月。著作集[編集]
●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第1巻、岩波書店、1987年11月。ISBN 9784000912716。 ●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第2巻、岩波書店、1987年12月。ISBN 9784000912723。 ●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第3巻、岩波書店、1988年1月。ISBN 9784000912730。 ●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第4巻、岩波書店、1987年10月。ISBN 9784000912747。 ●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第5巻、岩波書店、1988年4月。ISBN 9784000912754。 ●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第6巻、岩波書店、1988年2月。ISBN 9784000912761。 ●﹃大山郁夫著作集 大正デモクラシー期の政治・文化・社会﹄ 第7巻、岩波書店、1988年5月。ISBN 9784000912778。目録[編集]
●﹃大山郁夫著書論文目録﹄大山会事務所、1966年8月。 ●﹃大山郁夫関係資料目録 大山家寄贈﹄早稲田大学現代政治経済研究所、1989年10月。脚注[編集]
関連項目[編集]
- 大鳥圭介 - 生家の伯父・福本譲平の妻が大鳥圭介の妹・於勝
外部リンク[編集]
- 大山郁夫|近代日本人の肖像
- 早稲田人名データベース 大山郁夫
- 大山郁夫 参議院議員の実績|国会議員白書
- 国立国会図書館 憲政資料室 大山郁夫関係資料(マイクロフィルム:早稲田大学現代政治経済研究所蔵・ノースウエスタン大学蔵)
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