「川渡温泉」の版間の差分
Baudanbau20 (会話 | 投稿記録) m →歴史: 見出しの階層違反 |
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加 |
||
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示) | |||
67行目: | 67行目: | ||
* しそ巻き - ゴマやクルミが入った甘辛い味噌餡を紫蘇の葉で包み、さらに油で揚げた食品。 |
* しそ巻き - ゴマやクルミが入った甘辛い味噌餡を紫蘇の葉で包み、さらに油で揚げた食品。 |
||
* くるみとうふ - 練りくるみを用いて作られる'''変わり豆腐'''。ほのかに甘い。 |
* くるみとうふ - 練りくるみを用いて作られる'''変わり豆腐'''。ほのかに甘い。 |
||
* 鳴子上原酪農牛乳 - 上原地区の7戸の生産者﹁上原酪農組合﹂の生産する生乳を使った牛乳。上原地区は県内トップレベルの乳質の良い地域とされる<ref>{{Cite web |
* 鳴子上原酪農牛乳 - 上原地区の7戸の生産者﹁上原酪農組合﹂の生産する生乳を使った牛乳。上原地区は県内トップレベルの乳質の良い地域とされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.miyagi.coop/products/megumino_new/products/other/milk_naruko/ |title=﹁めぐみ野﹂ 鳴子上原酪農牛乳 |access-date=2022-12-26 |publisher=みやぎ生協}}</ref>。
|
||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
89行目: | 89行目: | ||
=== 近世 === |
=== 近世 === |
||
[[玉造郡]]大口村に属し、[[仙台藩]]の[[岩出山伊達家]]の知行地であった。村内の鍛冶谷沢宿は、[[仙台市|仙台]]と[[酒田市|酒田]]を結ぶ街道︵[[出羽仙台街道]]︶上の宿駅であったが、温泉自体は街道からやや離れた位置にあった。村内には'''川渡'''のほか、[[東鳴子温泉|赤湯]]などの温泉があり、[[鳴子温泉|鳴子]]、[[鬼首温泉|鬼首荒湯]]といった当時の仙台藩領内を代表する温泉ともそれほど遠くない位置関係にあった<ref name=":2">{{Cite journal|author=高橋 陽一|year=2007-03-31|title=川渡温泉史料|url= |
[[玉造郡]]大口村に属し、[[仙台藩]]の[[岩出山伊達家]]の知行地であった。村内の鍛冶谷沢宿は、[[仙台市|仙台]]と[[酒田市|酒田]]を結ぶ街道︵[[出羽仙台街道]]︶上の宿駅であったが、温泉自体は街道からやや離れた位置にあった。村内には'''川渡'''のほか、[[東鳴子温泉|赤湯]]などの温泉があり、[[鳴子温泉|鳴子]]、[[鬼首温泉|鬼首荒湯]]といった当時の仙台藩領内を代表する温泉ともそれほど遠くない位置関係にあった<ref name=":2">{{Cite journal|author=高橋 陽一|year=2007-03-31|title=川渡温泉史料|url=https://hdl.handle.net/10097/46120|journal=東北文化資料叢書 ; 第2集 . 近世地方史料陸奥国 玉造郡大口村}}</ref>。
|
||
代々藤島氏が﹁'''大湯'''﹂﹁'''真癒湯︵まゆのゆ︶'''﹂の[[湯守]]と、﹁'''温泉石神社'''﹂の祭主を兼務した<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=陸羽東線玉造の温泉誌 |date=大正7 |publisher=唯我書房 |page=16 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/958351/1/16}}</ref>。﹁'''真癒湯'''﹂は[[伊達斉邦]]の御下名<ref name=":3" />。湯守は、温泉の傍らで宿屋を営業し、温泉を管理して入湯客の利用の便を図ると同時に、彼らから﹁湯銭﹂︵入湯料︶を徴収してその一部を﹁御役代﹂︵運上金︶として藩に上納することを主な任務とした<ref name=":2" />。
|
代々藤島氏が﹁'''大湯'''﹂﹁'''真癒湯︵まゆのゆ︶'''﹂の[[湯守]]と、﹁'''温泉石神社'''﹂の祭主を兼務した<ref name=":3">{{Cite book|和書 |title=陸羽東線玉造の温泉誌 |date=大正7 |publisher=唯我書房 |page=16 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/958351/1/16}}</ref>。﹁'''真癒湯'''﹂は[[伊達斉邦]]の御下名<ref name=":3" />。湯守は、温泉の傍らで宿屋を営業し、温泉を管理して入湯客の利用の便を図ると同時に、彼らから﹁湯銭﹂︵入湯料︶を徴収してその一部を﹁御役代﹂︵運上金︶として藩に上納することを主な任務とした<ref name=":2" />。
|
||
100行目: | 100行目: | ||
* [[1791年]]([[寛政]]3年):[[林子平]]が滞在。 |
* [[1791年]]([[寛政]]3年):[[林子平]]が滞在。 |
||
* [[1827年]]︵[[文政]]10年︶‥水戸藩士[[小宮山昌秀|小宮山楓軒]]が滞在。﹃浴陸奥温泉記﹄<ref>{{Cite web |
* [[1827年]]︵[[文政]]10年︶‥水戸藩士[[小宮山昌秀|小宮山楓軒]]が滞在。﹃浴陸奥温泉記﹄<ref>{{Cite web|和書|title=浴陸奥温泉記 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2577024/1/36 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2022-12-21}}</ref>に[[文政]]年間のまちの様子の記載がある。
|
||
* [[1840年]]([[天保]]11年):[[仙台藩]]十二代藩主[[伊達斉邦]]が滞在。 |
* [[1840年]]([[天保]]11年):[[仙台藩]]十二代藩主[[伊達斉邦]]が滞在。 |
||
* [[1853年]]([[安政]]6年):大口村、鳴子村の湯守が共同で湯税の変更を嘆願する<ref name=":2" />。 |
* [[1853年]]([[安政]]6年):大口村、鳴子村の湯守が共同で湯税の変更を嘆願する<ref name=":2" />。 |
||
111行目: | 111行目: | ||
* [[1910年]](明治43年):[[明治43年の大水害|大洪水]]。 |
* [[1910年]](明治43年):[[明治43年の大水害|大洪水]]。 |
||
* [[1914年]]([[大正]]3年)4月19日:[[陸羽東線]][[川渡温泉駅|'''川渡駅''']](かわたびえき)開業。 |
* [[1914年]]([[大正]]3年)4月19日:[[陸羽東線]][[川渡温泉駅|'''川渡駅''']](かわたびえき)開業。 |
||
* [[1925年]](大正11年):[[土井晩翠]]が滞在<ref>{{Cite web |
* [[1925年]]︵大正11年︶‥[[土井晩翠]]が滞在<ref>{{Cite web|和書|url=http://jintatatu.web.fc2.com/framepagdoi.htm |title=東北の文学碑作者毎の文学碑 |access-date=2022-12-22}}</ref>。﹁'''千年の 歴史をほこる 川渡の いでゆの夕 なく杜鵑(ほととぎす)'''﹂
|
||
* [[1934年]]([[昭和]]9年):川渡の大火。 |
* [[1934年]]([[昭和]]9年):川渡の大火。 |
||
* [[1944年]](昭和19年):[[東京都]][[浅草区]]内国民学校児童集団疎開。 |
* [[1944年]](昭和19年):[[東京都]][[浅草区]]内国民学校児童集団疎開。 |
||
117行目: | 117行目: | ||
* [[1947年]](昭和22年):向山分校開設。(1945年:本校に統合) |
* [[1947年]](昭和22年):向山分校開設。(1945年:本校に統合) |
||
* [[1949年]](昭和24年):上原分校開設。(1999年:閉校) |
* [[1949年]](昭和24年):上原分校開設。(1999年:閉校) |
||
** 旧軍馬補充部に[[東北大学|東北帝国大学]]附属川渡農場(現:川渡フィールドセンター)を設置<ref>{{Cite web |
** 旧軍馬補充部に[[東北大学|東北帝国大学]]附属川渡農場(現:川渡フィールドセンター)を設置<ref>{{Cite web|和書|title=東北大学大学院農学研究科附属複合生態フィールド教育研究センター|全国大学演習林協議会 |url=https://jauf.cambria.ac/organizations/n-tohoku/ |website=jauf.cambria.ac |access-date=2022-12-21}}</ref>。 |
||
* [[1959年]](昭和35年)10月1日:「'''奥鳴子・川渡温泉郷'''」として、[[中山平温泉]]、[[鬼首温泉]]とともに[[国民保養温泉地]]に指定<ref name="env" />。 |
* [[1959年]](昭和35年)10月1日:「'''奥鳴子・川渡温泉郷'''」として、[[中山平温泉]]、[[鬼首温泉]]とともに[[国民保養温泉地]]に指定<ref name="env" />。 |
2023年11月20日 (月) 21:53時点における版
![]() | |
---|---|
温泉情報 | |
所在地 |
宮城県大崎市
|
座標 | 北緯38度43分51.7秒 東経140度46分5.4秒 / 北緯38.731028度 東経140.768167度座標: 北緯38度43分51.7秒 東経140度46分5.4秒 / 北緯38.731028度 東経140.768167度 |
交通 |
車:東北自動車道古川ICから約45分 鉄道:陸羽東線川渡温泉駅からタクシーで約10分 |
泉質 | 炭酸水素塩泉 |
宿泊施設数 | 7 |
外部リンク | 川渡温泉旅館組合 |
泉質
●含硫黄-ナトリウム-炭酸水素泉 ●単純硫黄泉 ●単純温泉 脚気によく効くとされ、古くから﹁脚気川渡﹂と言われた。地質
地層の基盤は、花崗閃緑岩類ほか蛇紋岩類。これらの上に、緑色凝灰岩類が発達している。その上位に、不整合関係をもって、礫岩、亜炭、白色凝灰岩等を有する上部新第三系の発達があり、これらの上に火山砕屑物と鳴子湖沼堆積物とにより構成される新期堆積物が累積している[2]。源泉
温泉は鳴子火山群を熱源とする熱水が、鳴子湖成層中の温泉帯水層から湧出すると考えられる。いずれの源泉も掘削当初は自噴していた。断層により、川渡温泉街、築沢川以西の要害・石の梅地区、荒雄川北岸地区の三地区に分割される。 泉温はほとんどが34℃〜56℃以内の範囲であり一般に温度は低い。pH値は中性から微アルカリ性。源泉の多くが二価の鉄分を含有するのが特徴的。 温泉の生成機構は、Cl-HBO2型温泉源水に対して、第二次的に生成されるHCO3-SO4型の水が混入していると推定される。第二次水は、深所に由来すると考えられる高温、高圧のガス体のうち、Cl型と分離して行動する炭酸ガスおよび硫化水素が地上に上昇する際、通路にあたる岩石と接触反応を起こし、地下水に溶けこんでHCO3-SO4型の水を生成すると考えられる。 湯治およびリハビリ等の温泉療法の観点から、泉温が低い川渡温泉は非常におだやかで最適の温泉群といえる[2]。温泉街
川渡温泉街は荒雄川︵江合川︶南岸の川渡大橋を渡った先に位置している。温泉街のほか、築沢川以西の要害・石の梅地区、荒雄川北岸にも温泉宿が点在する。昔ながらの自炊可能な湯治宿や家庭的な温泉宿、大型旅館まで、7軒の温泉旅館と1軒の共同浴場がある。 毎年9月に温泉石神社で献湯式が行われる。献湯式では源泉の所有者が持参した湯を神社に奉納し、自然の恵みへの感謝と川渡温泉の繁栄を祈願する。 ●社寺 - 温泉石神社、祥雲寺 ●景勝地 - 小黒崎︵おぐろがさき︶、美豆の小島︵みずのおじま︶、白糸の滝、石割りの梅、湯沢川の桜並木、川渡の菜の花畑 ●その他 - まちの各所に﹁豆こけし﹂が隠れている。湯治場
鳴子温泉郷の特質として、近隣地域の農民や漁民など、第一次産業従事者の重労働後の﹁骨休めの場﹂・﹁療養の場﹂として機能してきたことが挙げられる[3]。 江戸期の湯治人の大半は仙台領内の農民で、たいてい農閑期に来た。毎年続けて来るものが多く、各湯には湯治の目的によってそれぞれの固定客があった。農民のほかに、社会の各階層のものが湯治に来た。林子平や保田光則︵幕末仙台藩の国学者︶の様な知名人が来訪した他、12代仙台藩主伊達斉邦は脚気湯治に川渡を訪れている。 湯治は7日間を一廻りといい、湯治期間の区切りとされた。たいてい二廻りか三廻りは滞在した。湯治人は全部自炊で、日用品や生活必需品は自家からの持込みや宿の内外で購入できる仕組みになっていた。また宿によっては将棋や碁のような娯楽設備をもつものもあった。浴場はどこも男女混浴だったが、身分の高い人のためには特別な浴場が設けられた[4]。共同浴場
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/53/%E5%B7%9D%E6%B8%A1%E6%B8%A9%E6%B3%89%E5%85%B1%E5%90%8C%E6%B5%B4%E5%A0%B4.jpg/220px-%E5%B7%9D%E6%B8%A1%E6%B8%A9%E6%B3%89%E5%85%B1%E5%90%8C%E6%B5%B4%E5%A0%B4.jpg)