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'''権藤 成卿'''︵ごんどう せいきょう︵せいけい︶、[[1868年]][[4月13日]]︵[[慶応]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]︶ - [[1937年]]︵[[昭和]]12年︶[[7月9日]]︶は、日本の[[農本主義]][[思想家]]、制度学者。本名は善太郎。号は成卿、間々道人,間々子など<ref name="sekaihya">世界大百科事典 第2版</ref>。[[明治政府]]の[[絶対王政|絶対国家主義]]や官治主義 |
'''権藤 成卿'''︵ごんどう せいきょう︵せいけい︶、[[1868年]][[4月13日]]︵[[慶応]]4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]︶ - [[1937年]]︵[[昭和]]12年︶[[7月9日]]︶は、日本の[[農本主義]][[思想家]]、制度学者。本名は善太郎。号は成卿、間々道人,間々子など<ref name="sekaihya">世界大百科事典 第2版</ref>。[[明治政府]]の[[絶対王政|絶対国家主義]]や官治主義︵[[官僚制]]︶{{sfn|井田輝敏|1998|p=410}}、[[資本主義]]、都会主義を批判し、農村を基盤とした古代中国の[[社稷]]型[[封建制]]を理想として共済共存の共同体としての﹁社稷国家﹂の実現と[[農民]]・[[人民]]の[[自治]]および[[東洋]]固有の﹁原始自治﹂︵﹁自然而治﹂<ref name="ida412"/>︶を唱えた<ref name="sekaihya"/><ref name="matu"/>。
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==略歴== |
==略歴== |
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=== 家系・家学 === |
=== 家系・家学 === |
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権藤家は代々[[藩医]]で、 |
権藤家は代々[[藩医]]で、曾祖父は権藤寿達、祖父は権藤延陵であった<ref name="machi"/>。祖父の権藤延陵は[[日田]]の[[広瀬淡窓]]、[[筑後国|筑後]]の笠大匡とともに筑後の三秀才とよばれ、儒者[[亀井南冥]]の門下生であり<ref name="matu"/>、[[天保]]13年︵1842年︶に[[華岡青洲]]に医を学んだ<ref name="mii">[http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/1-3kourasan.html]﹃[[御井町]]誌﹄1986年、第一章三、[[高良山]]、厨家﹂</ref>。権藤延陵の門下生に[[高良山]]座主坊厨家を出自とする厨順夫がいる<ref name="mii"/>。
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父の権藤直は[[勤皇党]]の領袖である池尻葛覃に学び、[[真木保臣]]・木村赤松が同窓であった<ref name="matu"/>。権藤直は[[品川弥二郎]]、[[高山彦九郎]]、[[平野国臣]]とも親交があり、高山彦九郎は権藤家の親族の家で自決している<ref name="matu"/>。
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父の権藤直は[[勤皇党]]の領袖である池尻葛覃に学び、[[真木保臣]]・木村赤松が同窓であった<ref name="matu"/>。権藤直は[[品川弥二郎]]、[[高山彦九郎]]、[[平野国臣]]とも親交があり、高山彦九郎は権藤家の親族の家で自決している<ref name="matu"/>。
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明治4年、[[大楽源太郎]]らによる明治政府転覆未遂事件の[[二卿事件]]︵明四事件<ref name="matu"/>、[[久留米藩難事件]]︶が起こり、久留米勤皇党のメンバーも事件に参加した。計画は[[山縣有朋]]ら政府に発覚し、大楽らは処刑され、久留米藩主[[有馬頼咸]]は謹慎を受け、東京の久留米藩邸は接収された。事件に関わった[[松村雄之進]]は服役後、旧久留米藩士を率いて福島で開拓事業を行った︵のち[[衆議院]]議員︶<ref>デジタル版 日本人名大辞典+Plus、講談社</ref>。
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明治4年、[[大楽源太郎]]らによる明治政府転覆未遂事件の[[二卿事件]]︵明四事件<ref name="matu"/>、[[久留米藩難事件]]︶が起こり、久留米勤皇党のメンバーも事件に参加した。計画は[[山縣有朋]]ら政府に発覚し、大楽らは処刑され、久留米藩主[[有馬頼咸]]は謹慎を受け、東京の久留米藩邸は接収された。事件に関わった[[松村雄之進]]は服役後、旧久留米藩士を率いて福島で開拓事業を行った︵のち[[衆議院]]議員︶<ref name="#1">デジタル版 日本人名大辞典+Plus、講談社</ref>。
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権藤家の家学は「東洋古制度学」であり、古代中国や日本の制度や[[律令]]、また[[有職故実]]を研究するものであった |
権藤家の家学は﹁東洋古制度学﹂であり、古代中国や日本の制度や[[律令]]、また[[有職故実]]を研究するものであった{{sfn|井田輝敏|1998|p=426-427}}。
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=== 生誕 === |
=== 生誕 === |
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明治元年、[[国学者]]・藩医である権藤松門(権藤直)の長男として[[福岡県]]三井郡山川村(現在の[[久留米]] |
明治元年、[[国学者]]・藩医である権藤松門(権藤直)の長男として[[福岡県]]三井郡山川村(現在の[[久留米市]])に生まれる<ref name="matu">[http://1000ya.isis.ne.jp/0093.html 松岡正剛の千夜千冊歴象篇0093夜「滝沢誠『権藤成卿』」]2000年7月17日。</ref>。弟の権藤震二(1872年 - 1920年)は[[専修学校 (旧制)|専修学校]]卒業後、「[[東京日日新聞]]」記者として[[日清戦争]]に従軍<ref name=koto>[https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A9%E8%97%A4%E9%9C%87%E4%BA%8C-1076311 権藤震二(読み)ごんどう しんじ]コトバンク</ref>。[[台湾総督府]]官吏となり、東京日日に復帰後、[[北国新聞]]主筆、[[二六新聞]]を経て、1901年の[[日本広告]]の創立に加わり、その後身の[[日本電報通信社]]取締役となったが、1914年の[[シーメンス事件]]に関わり退社<ref name=koto/><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A9%E8%97%A4%20%E9%9C%87%E4%BA%8C-1645275 権藤 震二(読み)ゴンドウ シンジ]コトバンク</ref>。雷軒、高良山人と号した<ref name=koto/>。 |
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末妹の誠子は[[平塚らいてう]]と[[赤瀾会]]を設立した<ref name="matu"/>。 |
末妹の誠子は[[平塚らいてう]]と[[赤瀾会]]を設立した<ref name="matu"/>。 |
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1874年、6歳の時に善太郎は父親に連れられて大阪に行き、[[丁稚]]で商いを習い、その後[[二松学舎]]で漢学を学んだ。14歳で家にあった漢籍のほとんどを読破し、神童のほまれがたかかった。権藤家は代々藩医であったが<ref name="machi">町泉寿郎ら﹁蔵書からみた大塚敬節の学問と人﹂﹃日本東洋医学雑誌﹄2003年、54巻、4号、p754</ref>、長ずるにしたがってもう一方の家学である[[国学]]に精進し、学者を歴訪し、また[[阿蘇神社]]に伝わる古文書を渉猟した。
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1874年、6歳の時に善太郎は父親に連れられて大阪に行き、[[丁稚]]で商いを習い、その後[[二松学舎]]で漢学を学んだ。14歳で家にあった漢籍のほとんどを読破し、神童のほまれがたかかった。権藤家は代々藩医であったが<ref name="machi">町泉寿郎ら﹁蔵書からみた大塚敬節の学問と人﹂﹃日本東洋医学雑誌﹄2003年、54巻、4号、p754</ref>、長ずるにしたがってもう一方の家学である[[国学]]に精進し、学者を歴訪し、また[[阿蘇神社]]に伝わる古文書を渉猟した。
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1886年、中国に旅行する<ref name="komatsu"> |
1886年、中国に旅行する<ref name="komatsu">{{Cite journal|和書|author=小松和生 |date=1987-11 |url=https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/1633 |title=一農本主義者の思想と行動 : 橘孝三郎の﹁革新﹂的生涯によせて ︵その1︶ |journal=富山大学紀要. 富大経済論集 |ISSN=02863642 |publisher=富山大学経済学部 |volume=33 |issue=2|pages=327-364 |doi=10.15099/00001627 |hdl=10110/5073 |CRID=1390572174760015232 |ref=harv}} p.81 より</ref>。1890年頃より父の権藤直のところに武田範之︵[[文久]]3年︵1863年︶ - 1911年︶らが訪れるようになり、日韓問題に興味を持つようになる<ref name="komatsu"/>。武田は翌[[明治]]24年︵1891年︶より[[朝鮮]]にわたる<ref name="matu"/>。武田とともに[[対馬]]で漁業事業をしたが失敗する。
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1892年、善太郎は24歳で結婚した。この頃、父の権藤直が久留米青年義会を結成し、福岡派([[頭山満]]・[[平岡浩太郎]])、熊本派︵[[宮崎滔天]]・清藤幸七郎ら︶とならんで久留米派と呼ばれた<ref name="matu"/>。
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1892年、善太郎は24歳で結婚した。この頃、父の権藤直が久留米青年義会を結成し、福岡派([[頭山満]]・[[平岡浩太郎]])、熊本派︵[[宮崎滔天]]・清藤幸七郎ら︶とならんで久留米派と呼ばれた<ref name="matu"/>。
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=== 黒竜会とアジア革命 === |
=== 黒竜会とアジア革命 === |
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武田範之は朝鮮の[[東学党]]と親交をむすび、[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らと[[天佑侠]]を組織する<ref name="matu"/>。[[明治]]26年︵[[1893年]]︶には[[樽井藤吉]]が﹃大東合邦論﹄を刊行し日朝対等の合邦を説いて、武田や内田良平や権藤らに影響を与えた。武田はその後、明治28年︵[[1895年]]︶10月8日の[[閔妃]]暗殺事件([[乙未事変]])に関わった嫌疑で逮捕される<ref |
武田範之は朝鮮の[[東学党]]と親交をむすび、[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らと[[天佑侠]]を組織する<ref name="matu"/>。[[明治]]26年︵[[1893年]]︶には[[樽井藤吉]]が﹃大東合邦論﹄を刊行し日朝対等の合邦を説いて、武田や内田良平や権藤らに影響を与えた。武田はその後、明治28年︵[[1895年]]︶10月8日の[[閔妃]]暗殺事件([[乙未事変]])に関わった嫌疑で逮捕される<ref name="#1"/>が証拠不十分で不起訴。[[長崎市|長崎]]で武田範之に金銭的な支援をした<ref name="matu"/>。
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1900年、上京し、同志とともに皇民一性会や成章学苑をおこし、日本の制度、[[典礼]]の学を研究しながら、[[1902年]]に[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らの[[黒竜会]]に参加し、対露開戦、日韓合邦論を主張した<ref name="sekaihya"/>。弟の権藤震二も、宮崎来城とともに黒竜会に参加している<ref name="matu"/>。黒竜会での活動を通じて、[[李容九]]︵[[一進会]]︶や[[黄興]]︵[[華興会]]︶、[[宋教仁]]・[[孫文]]︵[[興中会]]︶らと[[アジア主義|アジア革命]]のために連携し<ref name="matu"/>、交遊した<ref name="sekaihya"/>。
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1900年、上京し、同志とともに皇民一性会や成章学苑をおこし、日本の制度、[[典礼]]の学を研究しながら、[[1902年]]に[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らの[[黒竜会]]に参加し、対露開戦、日韓合邦論を主張した<ref name="sekaihya"/>。弟の権藤震二も、宮崎来城とともに黒竜会に参加している<ref name="matu"/>。黒竜会での活動を通じて、[[李容九]]︵[[一進会]]︶や[[黄興]]︵[[華興会]]︶、[[宋教仁]]・[[孫文]]︵[[興中会]]︶らと[[アジア主義|アジア革命]]のために連携し<ref name="matu"/>、交遊した<ref name="sekaihya"/>。
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明治37︵1904年︶、李容九ら一進会や黒竜会は日韓合邦後、[[満州]]に移住し﹁大高麗国<ref>岩崎 |
明治37︵1904年︶、李容九ら一進会や黒竜会は日韓合邦後、[[満州]]に移住し﹁大高麗国<ref name="#2">{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=117}}</ref>﹂﹁鳳の国﹂を作るという計画をたて、黄興、孫文、宮崎滔天、[[松永安左衛門]]、[[康有為]]、[[梁啓超]]、[[犬養毅]]、[[柏原文太郎]]らも賛同した<ref name="matu"/>。ただし、この建国構想では土着民による自治と共和を理想としたものであり、現地民排斥による日本人移民の計画ではなかったことに注意すべきである<ref name="#2"/>。善太郎は黒竜会メンバーとして[[朝鮮]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[ロシア]]などを訪ねた。[[中国]]、[[上海市|上海]]にいたころ、革命が勃発すると在中日本人同志とともに革命指導者の一員として参加した。1908年中国人向けの漢文雑誌﹁東亜月報﹂を発行した<ref name="sekaihya"/><ref name="komatsu"/>。
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1910年には[[韓国併合]]が成立したことで、李容九ら一進会は解散させられ、日韓合邦も満州での﹁鳳の国﹂計画も挫折し、武田範之らは失意のうちに1911年に亡くなり<ref name="matu"/>、権藤も挫折感を味わう<ref name="komatsu"/>。
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1910年には[[韓国併合]]が成立したことで、李容九ら一進会は解散させられ、日韓合邦も満州での﹁鳳の国﹂計画も挫折し、武田範之らは失意のうちに1911年に亡くなり<ref name="matu"/>、権藤も挫折感を味わう<ref name="komatsu"/>。
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=== 自治学会 === |
=== 自治学会 === |
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[[大正]]3年︵[[1914年]]︶、麻生飯倉片町の南葵文庫で、[[飯塚西湖]]、小沢打魚(黒竜会の文筆担当者)、[[樽井藤吉]]([[東洋社会党]])、[[大井憲太郎]]︵[[自由党]]左派︶、[[大江卓]](自由党)、内田良平、山口弾正らとともに会合を持つ<ref name="matu"/>。その後、会合は[[満川亀太郎]]の老荘会、次いで[[大川周明]]・[[北一輝]]を交えて[[猶存会]]とも交流していく<ref name="matu"/>。1915年には[[橘孝三郎]]が兄弟村農場(文化村農場)を開き、1918年から[[武者小路実篤]]が新しき村などの共同体運動が展開された<ref>岩崎 |
[[大正]]3年︵[[1914年]]︶、麻生飯倉片町の南葵文庫で、[[飯塚西湖]]、小沢打魚(黒竜会の文筆担当者)、[[樽井藤吉]]([[東洋社会党]])、[[大井憲太郎]]︵[[自由党]]左派︶、[[大江卓]](自由党)、内田良平、山口弾正らとともに会合を持つ<ref name="matu"/>。その後、会合は[[満川亀太郎]]の老荘会、次いで[[大川周明]]・[[北一輝]]を交えて[[猶存会]]とも交流していく<ref name="matu"/>。1915年には[[橘孝三郎]]が兄弟村農場(文化村農場)を開き、1918年から[[武者小路実篤]]が新しき村などの共同体運動が展開された<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=15}}</ref>。1917年の[[ロシア革命]]を契機に権藤は活動を再開する<ref name="komatsu"/>。大正7年︵1918年︶、満川亀太郎が老荘会を結成し、交遊する<ref name="komatsu"/>。
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大正9年︵1920年︶3月、53歳になっていた権藤成卿は処女作﹃皇民自治本義﹄([[冨山房]])を発表した。同書では﹁社稷を宗とする、我家学の一斑﹂を提示するとされた |
大正9年︵1920年︶3月、53歳になっていた権藤成卿は処女作﹃皇民自治本義﹄([[冨山房]])を発表した。同書では﹁社稷を宗とする、我家学の一斑﹂を提示するとされた{{sfn|井田輝敏|1998|p=418}}。同年、自治学会を設立した。
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1922年には、[[蘇我氏]]打倒計画をたて、[[大化の改新]]に影響を与えた[[南淵請安]]を理想として﹃南淵書﹄を発表<ref name="matu"/>。この著作は学者からは黙殺されたが、北一輝の﹃日本改造法案﹄とともに[[昭和維新]]に多大な影響を与えた<ref name="matu"/>。
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1922年には、[[蘇我氏]]打倒計画をたて、[[大化の改新]]に影響を与えた[[南淵請安]]を理想として﹃南淵書﹄を発表<ref name="matu"/>。この著作は学者からは黙殺されたが、北一輝の﹃日本改造法案﹄とともに[[昭和維新]]に多大な影響を与えた<ref name="matu"/>。
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=== 農本主義と昭和維新 === |
=== 農本主義と昭和維新 === |
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1929年︵昭和4年︶に[[麻布台]]から[[代々木上原]]に引越しをし、[[帝大七生社]]の[[四元義隆]]が下宿したり、また[[橘孝三郎]]の紹介で[[日蓮]]主義者の[[井上日召]]や、のちに[[血盟団事件]]に参加する水戸の学生らが出入りした<ref name="matu"/>。また、海軍革新派で[[五・一五事件]]の実質的指導者であった[[藤井斉]]も権藤成卿の﹃自治民範﹄(﹃皇民自治本義﹄)を絶賛していた |
1929年︵昭和4年︶に[[麻布台]]から[[代々木上原]]に引越しをし、[[帝大七生社]]の[[四元義隆]]が下宿したり、また[[橘孝三郎]]の紹介で[[日蓮]]主義者の[[井上日召]]や、のちに[[血盟団事件]]に参加する水戸の学生らが出入りした<ref name="matu"/>。また、海軍革新派で[[五・一五事件]]の実質的指導者であった[[藤井斉]]も権藤成卿の﹃自治民範﹄(﹃皇民自治本義﹄)を絶賛していた{{sfn|井田輝敏|1998|p=430,418}}。
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1929年秋の[[アメリカ合衆国]]からはじまる[[世界恐慌]]の波は日本でも深刻なものとなり、1930年から翌年にかけて[[昭和恐慌]]となり、農村の窮乏([[昭和農業恐慌]])も問題視された。 |
1929年秋の[[アメリカ合衆国]]からはじまる[[世界恐慌]]の波は日本でも深刻なものとなり、1930年から翌年にかけて[[昭和恐慌]]となり、農村の窮乏([[昭和農業恐慌]])も問題視された。 |
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昭和6年(1931年)8月、権藤と橘孝三郎は初対面したが、橘は以前より権藤を著作を通じて尊敬していた<ref> |
昭和6年︵1931年︶8月、権藤と橘孝三郎は初対面したが、橘は以前より権藤を著作を通じて尊敬していた<ref>{{Cite journal|和書|author=橘孝三郎 |title=ある農本主義者の回想と意見(対談) |journal=思想の科学. 第4次 |publisher=東京 : 中央公論社 |date=1960-06 |issue=18 |page=102 |NCID=AN00104240 |id={{NDLJP|11005053}} |doi=10.11501/11005053 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/11005053 |quote=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。
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同年11月、権藤は平凡社社長で農民自治会の[[下中弥三郎]]、農民協議会の[[長野朗]]、法政大学の[[小野武夫]]、作家の[[武者小路実篤]]や[[今東光]]、愛郷塾の橘孝三郎らと農本主義者の共同戦線﹁日本村治派同盟﹂が結成される<ref name="komatsu2">小松和生 |
同年11月、権藤は平凡社社長で農民自治会の[[下中弥三郎]]、農民協議会の[[長野朗]]、法政大学の[[小野武夫]]、作家の[[武者小路実篤]]や[[今東光]]、愛郷塾の橘孝三郎らと農本主義者の共同戦線﹁日本村治派同盟﹂が結成される<ref name="komatsu2">{{Cite journal|和書|author=小松和生 |date=1988-03 |url=https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/1638 |title=一農本主義者の思想と行動 : 橘孝三郎の﹁革新﹂的生涯によせて ︵その2・完︶ |journal=富山大学紀要. 富大経済論集 |ISSN=02863642 |publisher=富山大学経済学部 |volume=33 |issue=3 |pages=691-715 |doi=10.15099/00001632 |hdl=10110/5051 |CRID=1390290699783313792 |ref=harv}}</ref>。日本村治派同盟では﹁反都市﹂﹁反資本主義﹂﹁反近代﹂が共通認識であったが、橘孝三郎と長野朗は翌1932年2月に脱会し、雑誌﹁農本連盟﹂を創刊する<ref name="komatsu2"/>。権藤は1931年に﹃日本農制史談﹄、1932年に﹃君民共治論﹄﹃日本震災凶饉攷﹄﹃農村自救論﹄などを立て続けに発表した。
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1932年(昭和7年)2月9日、井上日召の指令で[[井上準之助]]が、3月5日には[[三井財閥]]の[[団琢磨]]が射殺される血盟団事件が起こる。 |
1932年(昭和7年)2月9日、井上日召の指令で[[井上準之助]]が、3月5日には[[三井財閥]]の[[団琢磨]]が射殺される血盟団事件が起こる。 |
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1932年3月、静岡で農村青年共働学校を開いていた[[岡本利吉]]が主導して、[[犬田卯]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]主義者で農本共働塾の[[加藤一夫 (詩人)|加藤一夫]]、長野朗、橘孝三郎、瑞穂精舎を創設した[[和合恒男]]、農民運動家の[[中沢弁次郎]]らとともに権藤は[[農本連盟]]を発足するが、短期で分裂する<ref>岩崎p |
1932年3月、静岡で農村青年共働学校を開いていた[[岡本利吉]]が主導して、[[犬田卯]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]主義者で農本共働塾の[[加藤一夫 (詩人)|加藤一夫]]、長野朗、橘孝三郎、瑞穂精舎を創設した[[和合恒男]]、農民運動家の[[中沢弁次郎]]らとともに権藤は[[農本連盟]]を発足するが、短期で分裂する<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=13,17}}</ref>。分裂後の同年4月、権藤を顧問とし、長野朗、橘孝三郎、和合恒男、[[稲村隆一]]、[[宮越信一]]らが自治農民協議会を結成する<ref name="komatsu2"/>。
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自治農民協議会の綱領は |
自治農民協議会の綱領は |
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といったもので、権藤の思想が濃厚に反映されたものだった<ref name="komatsu2"/>。自治農民協議会はその後、農家負債3年据え置き、補助金、満蒙移住費補助の三か条を掲げた請願運動を開始する<ref name="komatsu2"/>。 |
といったもので、権藤の思想が濃厚に反映されたものだった<ref name="komatsu2"/>。自治農民協議会はその後、農家負債3年据え置き、補助金、満蒙移住費補助の三か条を掲げた請願運動を開始する<ref name="komatsu2"/>。 |
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1932年は自治的農本主義運動の最盛期であったとされ<ref |
1932年は自治的農本主義運動の最盛期であったとされ<ref{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=15}}</ref>、政府も農山漁村経済更生運動(自力更生運動)をはじめている<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=18}}</ref>。同1932年5月15日、海軍の[[古賀清志]]や[[血盟団]]残党によって犬養毅首相らが射殺される[[五・一五事件]]が発生する。権藤はこれらの[[昭和維新]]に思想的影響をおよぼしたという嫌疑で投獄されたが、無関係があきらかになり釈放された。1932年10月の信州での座談会では窮之におかれた信州の農民や商工業者が軍部に期待をかけるのに対して、権藤は軍部による革命を否定すると同時に、性急・安易な社会改造でなく、堅実な社穣自治への復帰を説いた<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=113}}</ref>。
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[[1932年]]6月には自治農民協議会の三か条請願運動は3万2千の署名を集め、衆議院を通過、6月13日には政友会の農村負債整理を含む[[政友会]]協議案が可決した<ref name="komatsu2"/>。 |
[[1932年]]6月には自治農民協議会の三か条請願運動は3万2千の署名を集め、衆議院を通過、6月13日には政友会の農村負債整理を含む[[政友会]]協議案が可決した<ref name="komatsu2"/>。 |
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昭和維新後、権藤は[[目黒]]中根町で塾﹁成章学苑﹂を、1935年10月には制度研究会を発足させ、また松沢保和によって雑誌﹃制度の研究﹄が発刊した(-1937年1月<ref>岩崎p |
昭和維新後、権藤は[[目黒]]中根町で塾﹁成章学苑﹂を、1935年10月には制度研究会を発足させ、また松沢保和によって雑誌﹃制度の研究﹄が発刊した(-1937年1月<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=17,105}}</ref><ref name="matu"/>。[[下中弥三郎]]、[[犬田卯]]、[[武者小路実篤]]、[[橘孝三郎]]らの日本村治同盟、自治農民協議会が後押ししたとされる<ref name="matu"/>。
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[[1934年]](昭和9年)、権藤は「制度学雑誌」を創刊、制度学研究会を発足させ、機関紙「制度と研究」も出した<ref name="matu"/>。翌年は二・二六事件が勃発、時代は国体明徴運動へと大きく迷走していった。 |
[[1934年]](昭和9年)、権藤は「制度学雑誌」を創刊、制度学研究会を発足させ、機関紙「制度と研究」も出した<ref name="matu"/>。翌年は二・二六事件が勃発、時代は国体明徴運動へと大きく迷走していった。 |
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権藤はまた、日中開戦を批判した<ref name="matu"/>。 |
権藤はまた、日中開戦を批判した<ref name="matu"/>。 |
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[[1937年]](昭和12年)[[7月9日]]、没。 |
[[1937年]](昭和12年)[[7月9日]]、没。墓所は久留米市上隈山墓地。 |
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== 思想 == |
== 思想 == |
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=== 社稷自治論 === |
=== 社稷自治論 === |
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権藤は村落共同体一般や、同時代の農村(民)をそのまま肯定したわけではなく、自治機能をもった[[公権力]]に抵抗しえた中世の郷村を理想としていた<ref name="iwa109">岩崎p |
権藤は[[村落共同体]]一般や、同時代の農村(民)をそのまま肯定したわけではなく、自治機能をもった[[公権力]]に抵抗しえた中世の郷村を理想としていた<ref name="iwa109">{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=109}}</ref>。[[社稷]]の﹁社﹂とは﹁地を神とする所以の道﹂であり、大地を意味し、﹁稷﹂とは[[五穀]]の長、[[粟]]を意味し、食物を意味する{{sfn|井田輝敏|1998|p=417}}。あるいは社稷とは﹁[[社会]]﹂と同じ意味とも権藤はいう<ref name="iwa109"/>。
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権藤は﹁土ありて而る後[[人民|民人]]あり、民人ありて而る後君長あり﹂と政治の実体は君主でなく、民人︵社稷︶と述べる |
権藤は﹁土ありて而る後[[人民|民人]]あり、民人ありて而る後君長あり﹂と政治の実体は君主でなく、民人︵社稷︶と述べる{{sfn|井田輝敏|1998|p=417}}。さらに﹁万々世の後、理想が実現するに到れば、﹃天下ヲ公トナス﹄﹂と論じ、社稷が﹁天下﹂となり、社稷が体現した公共性こそが、国家の公共性にとって代わるべきとも論じた<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=112-113}}</ref>。
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権藤は明治藩閥政府のプロシア式の[[国家主義]]を排撃し、﹁社稷を離れたる国は、必ず尊己卑他の国にして、其民衆は権力者の奴隷となる﹂とし<ref name="ida412">井田p |
権藤は明治藩閥政府のプロシア式の[[国家主義]]を排撃し、﹁社稷を離れたる国は、必ず尊己卑他の国にして、其民衆は権力者の奴隷となる﹂とし<ref name="ida412">{{harvnb|井田輝敏|1998|p=412}}</ref>、明治以来の日本の国家主義は﹁一幅牛頭馬頭跋扈の地獄図﹂という弱肉強食や﹁欧州式の[[私有財産]]制度﹂を強引に採用した結果、一国の主力たるべき農民は﹁草野に枯死﹂かのごとき﹁租税製造機﹂として取り扱われているとして、すべての生民︵人民︶が和親修睦をもって相互扶助し、一人単独に満足するよりも、﹁一家より一伍一邑共に楽しむ﹂ことをより好むことで、﹁国民共存の大義﹂が展開されると論じた{{sfn|井田輝敏|1998|p=407-408}}。
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このような社稷自治論は農業立国論や浅薄な反都会・反商工観念とは異なり、権藤はそれらを批判していた<ref>岩崎 |
このような社稷自治論は農業立国論や浅薄な反都会・反商工観念とは異なり、権藤はそれらを批判していた<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=113}}</ref>。
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=== 大同 === |
=== 大同 === |
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また権藤成卿は[[礼記]]礼運篇にある﹁大同﹂の思想を理想とした<ref name="ida4026">井田 |
また権藤成卿は[[礼記]]礼運篇にある﹁大同﹂の思想を理想とした<ref name="ida4026">{{harvnb|井田輝敏|1998|p=402-406}}</ref>。[[礼記]]では、﹁大道の行わるるや、天下を公となし、賢者と能者を選び、信義と和親を重んず。ゆえに人は、わが親のみを親とせず、わが子のみを子とせず。老人をして天寿を全うせしめ、壮丁をして職を持たしめ、幼児をして養育を受けしめ、寡婦、孤児、廃疾者、寄るべなきものをしてみな養護を受けしむ。男には分あり。女には帰あり。財貨の地に棄てらるるを憎めども、己れの一身に蓄えんとはせず、力を振るわざるを憎むも、己れ一身のためにせんとはせず。このゆえに陰謀は止みて興らず、窃盗乱賊も起こることなし。ゆえに門戸を閉じず。これを大同という﹂と説かれ、このような大同の世に対して、﹁小康の世﹂では私的価値が追求されるために戦乱が起こると対比される<ref name="ida4026"/>。このような大同の思想は、[[春秋公羊伝|春秋公羊学派]]、[[康有為]]の[[康有為#大同三世説と﹃大同書﹄|大同三世説]]で発展された<ref name="ida4026"/>。権藤の大同論には[[康有為]]の影響もあった<ref>{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=112}}</ref>。
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権藤はまた、[[大化の改新]]に影響を与えた[[南淵請安]]の思想にも大同説があると解釈した<ref name="ida4026"/>。 |
権藤はまた、[[大化の改新]]に影響を与えた[[南淵請安]]の思想にも大同説があると解釈した<ref name="ida4026"/>。 |
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=== 批判 === |
=== 批判 === |
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権藤は、[[日本主義]]者から制度学は古代中国の学問であり、天皇を戴く日本国体に合わないと批判された<ref name="iwasa115">岩崎 |
権藤は、[[日本主義]]者から制度学は古代中国の学問であり、天皇を戴く日本国体に合わないと批判された<ref name="iwasa115">{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=115}}</ref>。
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[[血盟団事件]]の[[小沼正]]は公判廷において﹁権藤の学聞は支那の学問﹂ で﹁横の対立的の思想﹂だと批判し、また[[津久井龍雄]]も ﹁われわれが権藤氏の諸説において、最も不満に堪えぬのは、わが国史を非常に歪曲して解釈し、かつわれわれが国体の精華として信念してゐるところのものを抹消せんと意識されてゐるがごとく見ゆる点である﹂と批判した<ref name="iwasa115"/>。津久井や[[林癸未夫]]ら[[国家社会主義]]者は権藤の無政府主義的傾向も批判していた<ref>﹃経済往来﹄昭和7年10月号</ref>。
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[[血盟団事件]]の[[小沼正]]は公判廷において﹁権藤の学聞は支那の学問﹂ で﹁横の対立的の思想﹂だと批判し、また[[津久井龍雄]]も ﹁われわれが権藤氏の諸説において、最も不満に堪えぬのは、わが国史を非常に歪曲して解釈し、かつわれわれが国体の精華として信念してゐるところのものを抹消せんと意識されてゐるがごとく見ゆる点である﹂と批判した<ref name="iwasa115"/>。津久井や[[林癸未夫]]ら[[国家社会主義]]者は権藤の無政府主義的傾向も批判していた<ref>﹃経済往来﹄昭和7年10月号</ref>。
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=== 国家資本主義批判 === |
=== 国家資本主義批判 === |
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[[昭和]]11年6月9日、[[逓信省]]による電力国家管理法案が発表された。1937年1月に権藤は、﹁ファッショ的統制案﹂として批判した<ref name="iwasa117">岩崎 |
[[昭和]]11年6月9日、[[逓信省]]による電力国家管理法案が発表された。1937年1月に権藤は、﹁ファッショ的統制案﹂として批判した<ref name="iwasa117">{{harvnb|岩崎正弥|1995|p=117}}</ref>。同案は[[日中戦争]]の激化にともない1938年4月に[[日本発送電#電力管理法|電力管理法]]として実現する。
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権藤は﹁[[国家社会主義]]なるものは、学理上からいえば我輩とは全然異なるが、今次の逓信省案の如きふざけたものではない。官僚統制と結びついた究極的な資本家保護は、[[国家資本主義]]である。[[ファッショ]]と呼ばれるのは、かかるところに因由し居る﹂と、日本政府の国家管理案を国家資本主義または[[ファシズム]]として批判した<ref name="iwasa117"/>。
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権藤は﹁[[国家社会主義]]なるものは、学理上からいえば我輩とは全然異なるが、今次の逓信省案の如きふざけたものではない。官僚統制と結びついた究極的な資本家保護は、[[国家資本主義]]である。[[ファッショ]]と呼ばれるのは、かかるところに因由し居る﹂と、日本政府の国家管理案を国家資本主義または[[ファシズム]]として批判した<ref name="iwasa117"/>。
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=== 評価 === |
=== 評価 === |
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社稷を人民相互の共同契約のもとに構成された共同体とする権藤の思想には、[[ジャン=ジャック・ルソー]]の社会契約論や<ref name="iwa109"/>、また[[トーマス・ペイン]]の自然に定礎された社会に対して、政府は作為の表象であるとする思想との相似も指摘されている |
社稷を人民相互の共同契約のもとに構成された共同体とする権藤の思想には、[[ジャン=ジャック・ルソー]]の社会契約論や<ref name="iwa109"/>、また[[トーマス・ペイン]]の自然に定礎された社会に対して、政府は作為の表象であるとする思想との相似も指摘されている{{sfn|井田輝敏|1998|p=414-415}}。
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[[山川均]]は権藤の思想の核心を「最も素朴な形の[[アナキズム]]」とし、[[土田杏村]]は権藤のアナキズムを大同説と老荘思想に求めている<ref>斎藤之男1975,p21</ref>。[[松本健一]]は[[安藤昌益]]との類似を指摘している<ref>松本健一「安藤昌益と農本的アナキズム」『伝統と現代』22号、昭和48年7月。斎藤之男1975,p21</ref>。 |
[[山川均]]は権藤の思想の核心を「最も素朴な形の[[アナキズム]]」とし、[[土田杏村]]は権藤のアナキズムを大同説と老荘思想に求めている<ref>斎藤之男1975,p21</ref>。[[松本健一]]は[[安藤昌益]]との類似を指摘している<ref>松本健一「安藤昌益と農本的アナキズム」『伝統と現代』22号、昭和48年7月。斎藤之男1975,p21</ref>。 |
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==著作== |
==著作== |
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*『皇民自治本義』冨山房、1920年 |
*『皇民自治本義』冨山房、1920年 |
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*[[小沢打魚]]、権藤成卿校註『南淵書』上中下巻、権藤成卿、1922年 |
*[[小沢打魚]]、権藤成卿校註『[[南淵書]]』上中下巻、権藤成卿、1922年 |
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*『自治民範』平凡社、1927年 |
*『自治民範』平凡社、1927年 |
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*[[山県大弐]]著、権藤成卿訓訳、[[須藤宗次郎]]編『柳子新論』洪文社、1928年 |
*[[山県大弐]]著、権藤成卿訓訳、[[須藤宗次郎]]編『柳子新論』洪文社、1928年 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 斎藤之男 |
* {{Cite journal|和書|author=斎藤之男 |date=1975-10 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030823427 |title=農本主義の思想基調 |journal=農業綜合研究 |ISSN=0387-3242 |publisher=農林水産省農業総合研究所 |volume=29 |issue=4 |pages=91-122 |CRID=1050845763651041536 |ref=harv}} |
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* 河野有理,「「社稷」の日本史―権藤成卿と“偽史”の政治学」[[松沢裕作]]編『近代日本のヒストリオグラフィー』[[山川出版社]]、2015年。 |
* 河野有理,「「社稷」の日本史―権藤成卿と“偽史”の政治学」[[松沢裕作]]編『近代日本のヒストリオグラフィー』[[山川出版社]]、2015年。 |
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* [[滝沢誠]],『権藤成卿』、[[ぺりかん社]]、1996年。 |
* [[滝沢誠]],『権藤成卿』、[[ぺりかん社]]、1996年。 |
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* 岩崎正弥 |
* {{cite thesis|和書|author=岩崎正弥 |url=https://doi.org/10.11501/3099064 |title=大正・昭和前期農本思想の社会史的研究 |publisher=京都大学 |series=博士(農学) 甲第5864号 |year=1995 |doi=10.11501/3099064 |naid=500000115894 |hdl=2433/78058 |ref=harv}} |
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* 井田輝敏 |
* {{Cite journal|和書|author=井田輝敏 |date=1998-02 |url=https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/records/617 |title=権藤成卿の思想構造 |journal=松山大学論集 |ISSN=09163298 |publisher=松山大学総合研究所 |volume=9 |issue=6 |pages=432-390 |CRID=1050845763387049600 |ref=harv}} |
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* 権藤成卿研究会編、『権藤成卿の君民共治論』展転社、令和元年 |
* 権藤成卿研究会編、『権藤成卿の君民共治論』展転社、令和元年 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [ |
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/gonndouseikyou 国立国会図書館 憲政資料室 権藤成卿関係文書(寄託)] |
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{{Normdaten}} |
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{{Japanese-history-stub}} |
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{{DEFAULTSORT:こんとう せいきよう}} |
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[[Category:戦前日本のアジア主義の人物]] |
[[Category:戦前日本のアジア主義の人物]] |