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篠原国幹

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篠原 国幹
渾名 習志野原
生誕 1837年1月11日
日本の旗 薩摩国鹿児島城下加治屋町
死没 1877年3月4日
日本の旗 現:熊本県玉名郡玉東町原倉
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1873年
最終階級 陸軍少将
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篠原国幹

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人物[編集]

  • 挙兵直後の明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)に正五位を追贈されて名誉回復した。
  • 西南記伝』一番大隊将士伝に篠原を評して「国幹、人となり、顴骨(かんこつ)高く秀で、眼光炯然(けいぜん)、挙止粛毅(しゅくき)、威望自ら露はれ、人をして自然に畏敬の念を起さしむ。而して事に処する、用意周匝(しゅうそう)、苟(いやしく)もせず、故を以て西郷隆盛、深く其人と為りを重じ、其交殊に厚く、殆ど親戚同様なりしと云ふ」としている。「挙止粛毅」の中には極端に寡黙であったことも含んでいる。篠原は戦闘部隊を指揮する場合でも大声を発せず身振りだけで指揮したといわれる。
  • 篠原は出陣に際し、「ふたつなき道にその身をふり捨てゝみかき尽せようみの子供ら」という歌を家族に残した。なお篠原関係の文書としては、明治2年(1869年)から明治3年(1870年)にかけてのことを書いた日記の鉛筆による写し「篠原国幹日記写」が鹿児島図書館に現存している。

評価[編集]

  • 岡本柳之助 「篠原は髭のない肉付きの豊かな巨男で、粗末な薩摩飛白の羽織に袴をつけて、座布団の上へむっくりと座っていた。いたって無口な人で、時折薩摩の蛮音で話を進める態度が、俺には酷く分別臭い爺さんに思われた。(中略、征韓論について互いに意見を述べた後で)言辞整然、論旨明徹、流石は器量人と感服した。」[3]

関連作品[編集]

テレビドラマ
映画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 井上良馨村田新八らとともに鹿児島市加治屋町に「誕生之地」の碑があるが、井上や村田らとともに誕生地は別であることから、加治屋町にあった学舎の名簿を参考にしたものではないかといわれている[2]

出典[編集]



(一)^  鹿

(二)^ ?調 鹿. 373news.com.   (2022423). 2023129

(三)^  191233-34NDLJP:946164/39 

参考文献[編集]

  • 川崎紫山『西南戦史』、博文堂、明治23年(復刻本は大和学芸社、1977年)
  • 加治木常樹『薩南血涙史』大正元年(復刻本は青潮社、昭和63年)
  • 塩満郁夫、友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』、2004年、高城書房
  • 日本黒龍会『西南記伝』、日本黒龍会、明治44年
  • 大山柏『戊辰役戦史』、時事通信社、1968年12月1日
  • 陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』、明治百年史叢書、昭和52年
  • 晋哲哉「篠原国幹日記写」『敬天愛人』第7号、西郷南洲顕彰会、1989年