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'''置賜郡'''(おきたまぐん、おきたまのこおり)は、7世紀から[[1878年]]まで日本の[[出羽国]]・[[羽前国]]南部、現在の[[山形県]]南部にあった[[郡]]である。 |
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2010年11月6日 (土) 12:14時点における版
置賜郡︵おきたまぐん、おきたまのこおり︶は、7世紀から1878年まで日本の出羽国・羽前国南部、現在の山形県南部にあった郡である。
歴史
文献初出は﹃日本書紀﹄の持統天皇3年︵669年︶1月3日で、陸奥国優嗜雲郡の城養蝦夷の脂利古の息子2人が出家を願い出て許されたという記事にある。この当時は評制なので、正しくは優嗜雲評であろうが、この優嗜雲︵うきたみ、うきたま[1]︶が置賜の前身とされる。城養蝦夷とは、城柵から食糧を給付されていた蝦夷なので、この頃の置賜評に名称不明の城柵があったこと、蝦夷が居住していたことも推定できる。 和銅5年︵712年︶10月1日に、最上郡とともに新設の出羽国の下に移された[2]。﹃続日本紀﹄にはこの後の霊亀2年︵716年︶9月23日条にも陸奥国置賜最上2郡を出羽国に隷︵つ︶けるという記事があって矛盾するが、霊亀2年のほうが何らかの誤りとみられている[3]。年表
●689年︵持統3年︶ - 日本書紀に陸奥国 優〓雲︵うきたむ︶郡︵〓は山+耆︶として記されている。 ●712年︵和銅5年︶ - 管轄が陸奥国から出羽国に変更。 ●平安末期は奥州藤原氏の支配下に入った。その滅亡後、大江広元が支配し、広元の子の長井時広が継承。以後長井氏が領する。このころから置賜郡は長井荘とも言われるようになる︵日本地名大系︶。近世には長井郡とも呼ばれるようになった︵角川日本地名大辞典︶。 ●1380年︵康暦2年︶ - 長井氏は8代広房の時、伊達宗遠に追われ、置賜郡は伊達領となる。 ●1591年︵天正19年︶ - 豊臣秀吉の奥州仕置により伊達政宗は国替えを命ぜられ、岩出山城に遷り、代わって蒲生氏郷が会津に配置され、置賜郡は蒲生領となる。 ●1598年︵慶長3年︶ - 蒲生氏は宇都宮に移され減封。代わって越後の上杉景勝が会津に入り、置賜郡はその家臣である直江兼続が統治する。 ●1600年︵慶長5年︶ - 関ヶ原の戦いで東軍が勝利したため、西軍であった上杉景勝は徳川家康に降り、翌年︵1601年︶、会津地方が没収され、上杉景勝の領地は置賜郡・信夫郡・伊達郡のみとなった。以後、置賜郡は上杉氏のもと、米沢藩として機能する。財政難のため一時は領地を返上することまで検討されたが、第9代藩主上杉治憲︵鷹山︶による改革によって藩政を建て直し、幕末まで存続した。 ●1878年︵明治11年︶7月22日 - 置賜郡は東置賜郡・西置賜郡・南置賜郡に分割されて消滅。 ●1957年︵昭和32年︶- 東置賜郡赤湯町中山地区が、境界変更により上山市に編入される。以降、一般に、﹁置賜地方﹂からは中山地区は除かれることになる。脚注
参考文献
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀5』(岩波文庫、岩波書店、1995年、ISBN 4-00-300045-5)
- 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守、校注・訳『日本書紀3(新編日本古典文学全集4)』(小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X)
- 高橋崇『律令国家東北史の研究』(吉川弘文館、1991年、ISBN 4-642-02245-7)
- 『長井史 第一巻(原始・古代・中世編)』(長井市、印刷の芳文社、1984年)