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[[1964年]]の[[春闘]]で[[公共企業体等労働組合協議会]](公労協)の[[4.17ゼネスト]]を「挑発行為」と非難したため、指導責任を問われて自己批判し、中央委員に降格された<ref name="showashijiten1980"/>。 |
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==著書== |
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*『労働組合論』ナウカ講座 [[ナウカ社]], 1948 |
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== 脚注 == |
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2020年12月23日 (水) 09:05時点における版
聴濤克巳 きくなみ かつみ | |
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生年月日 | 1904年1月11日 |
出生地 | 香川県 |
没年月日 | 1965年8月30日(61歳没) |
出身校 | 関西学院大学 |
前職 | 朝日新聞記者 |
所属政党 |
(日本共産党→) 無所属 |
選挙区 | 東京都第6区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1950年6月6日 |
聴濤 克巳︵きくなみ かつみ、1904年︵明治37年︶1月11日[1] - 1965年︵昭和40年︶8月30日[1]︶は日本のジャーナリスト、労働運動家。息子は元参議院議員の聴濤弘。
生涯
香川県生まれ。関西学院大学卒業後、朝日新聞社に入社。朝日新聞記者として論説委員などを歴任[1]。戦後の1945年に日本共産党入党[1]。朝日新聞労働組合委員長︵初代︶にも就任した[1]。1946年には全日本新聞通信労働組合委員長︵初代︶と全日本産業別労働組合会議︵産別会議︶議長︵初代︶に就任した[1]。 二・一ゼネストでは伊井弥四郎とともに最高責任者の1人になったが、1947年1月20日に右翼団体・新鋭大衆党による襲撃を受け全治1ヶ月の重傷を負った[2]。 1949年の第24回衆議院議員総選挙で日本共産党から衆議院議員に当選するが、翌1950年のレッドパージによる公職追放を受け失職[2]。中国に渡航して北京機関のメンバーとなり、自由日本放送の業務にも従事した[3]。その後日本共産党代表としてヨーロッパで活動をおこなった[2]。1958年に帰国し、アカハタ編集局長、党幹部会員および書記局員を務めた[1]。 1964年の春闘で公共企業体等労働組合協議会︵公労協︶の4.17ゼネストを﹁挑発行為﹂と非難したため、指導責任を問われて自己批判し、中央委員に降格された[2]。著書
- 『労働組合論』ナウカ講座 ナウカ社, 1948