金子満広
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金子満広 かねこ みつひろ | |
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生年月日 | 1924年11月17日 |
出生地 | 日本・群馬県 |
没年月日 | 2016年4月18日(91歳没) |
死没地 | 日本・東京都新宿区 |
出身校 | 旧制鉄道教習所専門部 |
前職 | 公共企業体日本国有鉄道職員 |
現職 | 党名誉役員 |
所属政党 | 日本共産党 |
選挙区 |
(旧東京8区→) 比例北関東ブロック |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1972年12月11日 - 1976年12月10日 1979年10月9日 - 1983年11月28日 1986年7月7日 - 1993年6月18日 1996年10月29日 - 2000年6月2日 |
第2代日本共産党書記局長 | |
在任期間 | 1982年7月31日 - 1990年7月13日 |
経歴[編集]
●1924年 群馬県生まれ。 ●1942年 旧制中学校卒業。 ●1944年 運輸通信省鉄道教習所卒業、国有鉄道の東京鉄道局水上機関区に配属。 ●1946年 国鉄労働組合︵国労︶結成。金子は同組合員として労働運動に参加。 ●1949年 国労高崎支部長。同年、国鉄を解雇(本人著作ではレッドパージ)。以後は党務専任[2] ●1961年 党中央委員会勤務[2] ●1972年 第33回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選︵中選挙区の東京8区、以後通算6回当選︶、首都圏整備審議会委員となる。 ●1976年 第34回総選挙で落選。 ●1979年 第35回総選挙で衆議院議員に返り咲き、再選。 ●1980年 第36回総選挙で衆議院議員に3選。 ●1982年 日本共産党書記局長に就任。 ●1983年 第37回総選挙で落選。 ●1986年 第38回総選挙で衆議院議員に4選。 ●1989年 日本共産党委員長代行に就任し書記局長を兼務する。 ●1990年 第39回総選挙で衆議院議員に5選。 ●1990年 日本共産党副委員長に就任。 ●1993年 第40回総選挙で落選。 ●1996年 第41回総選挙で衆議院議員に6選︵選挙制度改革に伴い、比例区の北関東ブロックから出馬︶。 ●2000年 衆議院解散に伴い、国会議員活動に終止符を打ち、政界を引退。 ●2016年4月18日 脳内出血のため、東京都新宿区の病院で死去。91歳没[3][4]。主な役職[編集]
●日本共産党統一戦線部長 ●日本共産党大衆運動委員会委員長 ●日本共産党国際委員会委員長 ●日ソ友好関係団体役員 ●日越友好関係団体役員 ●世界平和協議会副議長政策[編集]
●選択的夫婦別姓制度導入に賛同する[5]。評価[編集]
●浜田幸一は﹃日本をダメにした九人の政治家﹄で共産党の宮本顕治や、党員の行動規制などについて批判しているが、金子については﹁共産党の中ではもっとも大衆的。彼あたりが委員長にでもなれば、警鐘乱打の党として一定の役割を果たし得るのではないかと思う﹂と、一定の評価をしていた[6]。著書[編集]
●﹃70年問題と統一戦線﹄新日本出版社。NDLJP:11926029。 ●﹃70年代と大衆運動﹄ ●﹃反帝国際統一戦線 : 自主独立の理論と実践﹄新日本出版社、1978年。NDLJP:11923909。 ●﹃原水爆禁止運動の原点﹄新日本出版社、1984年。NDLJP:11925073。脚注[編集]
(一)^ ﹃しんぶん赤旗﹄2016年4月19日付
(二)^ ab金子満広 著﹃ともに語り、ともにめざす﹄1993年、新日本出版社、冒頭著者紹介
(三)^ ﹁訃報 金子満広氏死去/元共産党書記局長﹂﹃四国新聞﹄、2016年4月19日。2021年3月1日閲覧。
(四)^ ﹁金子満広氏が死去 元共産党書記局長﹂﹃日本経済新聞﹄、2016年4月19日。2021年3月1日閲覧。
(五)^ 第142回国会 法務委員会請願第2919号
(六)^ ﹃日本をダメにした九人の政治家﹄、浜田幸一著、講談社、1993年12月9日。240ページ。
関連項目[編集]
●日本共産党 ●林家彦六 - 同潤会アパートの項参照党職 | ||
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先代 不破哲三 |
日本共産党書記局長 第2代:1982年 - 1990年 |
次代 志位和夫 |