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{{notice|名前の読みについては、本記事の[[ノート:郡司成忠|ノート]]も参照してください。}}

{{notice|名前の読みについては、本記事の[[ノート:郡司成忠#名前の読みについて|ノート]]も参照してください。}}

{{基礎情報 軍人

[[画像:Shigetada Gunji.jpg|thumb|200px|郡司成忠]]

| 氏名 = 郡司 成忠


''' ''' /[[]][[1117 ()|1117]][[1860]][[1228]] - [[]]13[[1924]][[815]][[]][[|]][[]][[]]

| 各国語表記 =

| 生年月日 = [[1860年]][[12月28日]]

| 没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1860|12|28|1924|8|15}}

| 画像 = Shigetada Gunji.jpg

| 画像サイズ = 200px

| 画像説明 = 郡司成忠の肖像写真

| 渾名 =

| 生誕地 =

| 死没地 =

| 所属組織 = {{IJNAVY}}

| 軍歴 = [[1882年]]9月 - [[1893年]]1月<br/>[[1894年]]11月 - [[1895年]]3月

| 最終階級 = [[File:Imperial Japan-Navy-OF-2-collar.svg|30px]] 海軍[[大尉]]

| 除隊後 = [[探検家]]

| 廟 =

| 署名 =

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[[File:Lieutenant Gunji Shigetada in full dress.jpg|thumb|郡司成忠]]

[[File:Gunji Shigetada.jpg|thumb|郡司成忠]]


''' ''' /<ref name=":0">{{Harvnb||2005|p=205|pp=|loc=1 }}</ref>[[]][[1117 ()|1117]][[1860]][[1228]] - [[]]13[[1924]][[815]][[]][[|]][[]][[]]


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開拓事業団「報效義会」を結成し、[[千島列島|北千島]]の探検・開発に尽力した。実業家の[[幸田成常]]は兄。小説家の[[幸田露伴]]、日本史学者の[[幸田成友]]は弟。ヴァイオリニストの[[幸田延]]、[[安藤幸]]は妹である。

==経歴==

==経歴==

===生い立ち===

===生い立ち===

[[江戸]][[下谷]]三枚橋横町(現・[[東京都]][[台東区]])生まれ。幼名は金次郎。幕臣幸田成延の次男であったが、幼少時に、嗣子がなかった親戚の郡司家の養子となる。しかし、明治維新に伴って御家断絶がなくなったことから養子の意味がなくなったため、郡司姓のまま幸田家に戻ることになった。

[[江戸]][[下谷]]三枚橋横町(現・[[東京都]][[台東区]])生まれ。幼名は金次郎。幕臣幸田成延の次男であったが、幼少時に、嗣子がなかった親戚の郡司家の養子となる。しかし、[[明治維新]]に伴って御家断絶がなくなったことから養子の意味がなくなったため、郡司姓のまま幸田家に戻ることになった。




[[1872]][[]]5[[ ()|]][[]][[ ()|]]退

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===第一次千島拓殖===

===第一次千島拓殖===

====出発までの経緯====

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しかし、予定していた船の手配ができず、かといって自前で予定と同等の船を用意できるほどの資金も郡司には無かった。悩んだ末に、[[横須賀鎮守府]]で不要になった[[カッターボート|短艇]]を払い下げてもらい、これで千島へ向かうことにした。郡司は海軍兵学校時代に東京湾内短艇巡行を実行した(これはその後海軍兵学校の恒例行事となり、校舎が[[江田島]]に移ってからも続くことになった)経験があるなどボートの操作には慣れており、他の拓殖希望者も元海軍の人間であることからボート技術は身につけていたとはいえ、これは危険な計画であった。しかし郡司以外のメンバーの中には、すでに家族の説得や勤務先の退職をして千島移住の準備をしていた者も多く、計画をあまり延期することもできないという事情があったのである。


[[]][[|]][[]][[]]退


こうして、窮余の策とはいえ船の算段もついた郡司は、[[1893年]](明治26年)2月22日、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行ない、その翌々日には[[土方久元]][[宮内大臣]]から拓殖隊に「報效義会」という名が与えられる。これらが新聞などのメディアで報じられるとその反響は大きく、同年[[シベリア]]横断を実行した[[福島安正]]とともに国民の人気を集めるようになった。[[添田唖蝉坊]]は自伝『唖蝉坊流生記』の中でこの二人を歌った[[演歌]]がヒットしたことについて語っている<ref>添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』、刀水書房、1982年、50-58頁</ref>。また、「福島中佐・郡司大尉遠征[[すごろく|双六]]」が売り出された<ref>[[長沢和俊]]『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、186頁</ref>という記録もある。

こうして、窮余の策とはいえ船の算段もついた郡司は、[[1893年]](明治26年)[[2月22日]]、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行ない、その翌々日には[[土方久元]][[宮内大臣]]から拓殖隊に「報效義会」という名が与えられる。これらが新聞などのメディアで報じられるとその反響は大きく、同年[[シベリア]]横断を実行した[[福島安正]]とともに国民の人気を集めるようになった。[[添田唖蝉坊]]は自伝『唖蝉坊流生記』の中でこの二人を歌った[[演歌]]がヒットしたことについて語っている<ref>添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』、刀水書房、1982年、50-58頁</ref>。また、「福島中佐・郡司大尉遠征[[すごろく|双六]]」が売り出された<ref>[[長沢和俊]]『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、186頁</ref>という記録もある。




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====道中の苦難====

====道中の苦難====

[[画像:Ukiyoe where Shigetada Gunji was drawn.jpg|thumb|360px|郡司の出航セレモニーを描いた[[浮世絵|錦絵]](画・[[梅堂国政]])]]

[[画像:Ukiyoe where Shigetada Gunji was drawn.jpg|thumb|360px|郡司の出航セレモニーを描いた[[浮世絵|錦絵]](画・[[梅堂国政]])]]

1893年(明治26年)3月20日、郡司以下、約80人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。当初郡司は、航海日数33日、気象などのために航行不能の日が33日、それに余裕の10日を加えた計76日もあれば目的地へ到達できると想定していたが、しかし実際はこの予定通りには全くならなかった。5月10日、一行は全行程の約1/6の地点である[[釜石港]]付近にいたが、当初の予定であればこの日には、全行程の約2/3の地点に当たる[[択捉島]]に着いているはずであった。当初予定からこれほどの遅れを出した理由として


189326[[320]]80533331076[[510]]1/6[[]]2/3[[]]

*例年よりも荒天続きで、しかも向かい風である北風の吹く日が多かった。

*例年よりも荒天続きで、しかも向かい風である北風の吹く日が多かった。

*小さなボートのため接岸航海が必至だったにもかかわらず、[[房総半島]]以北の太平洋岸、特に[[三陸海岸]]についての調査が足りなかった。

*小さなボートのため接岸航海が必至だったにもかかわらず、[[房総半島]]以北の太平洋岸、特に[[三陸海岸]]についての調査が足りなかった。

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====千島での報效義会====

====千島での報效義会====


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7月31日、泰洋丸は捨子古丹島に到着する。しかし、ここで馬場は、占守島への回航を拒否し、帰還途中に[[新知島]]に寄るのはどうかという代案を出してきた。ここで馬場が当初の約束を反故にした理由についてははっきりしていないが、採掘に手一杯で泰洋丸を占守島へ回航させる人員が確保できないことや、千島が荒天気に入る時期であったため、占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きるなどして硫黄を持ち帰れなくなることを恐れたのではないかと推測されている<ref>綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』、新潮社、1990年、188頁</ref>。便乗者である郡司としてはこれに抗議することもできず、また新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破して同湾を天然の良港に改造しようという計画を建てていたこともあり、その提案を呑んだ。

[[7月31日]]、泰洋丸は捨子古丹島に到着する。しかし、ここで馬場は、占守島への回航を拒否し、帰還途中に[[新知島]]に寄るのはどうかという代案を出してきた。ここで馬場が当初の約束を反故にした理由についてははっきりしていないが、採掘に手一杯で泰洋丸を占守島へ回航させる人員が確保できないことや、千島が荒天気に入る時期であったため、占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きるなどして硫黄を持ち帰れなくなることを恐れたのではないかと推測されている<ref>綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』、新潮社、1990年、188頁</ref>。便乗者である郡司としてはこれに抗議することもできず、また新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破して同湾を天然の良港に改造しようという計画を建てていたこともあり、その提案を呑んだ。



また、泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている最中に郡司は白瀬を連れて島内一周探検を実行しており、かつて[[アイヌ]]の人間が建てた家屋や橋梁が残っていることや、飲料水が豊富なことを発見した。このため、郡司は[[脚気]]にさえ気をつければ捨子古丹島での越年は可能だと判断し、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留させることにした。まずは占守島を全力で開拓することを目的にしていた郡司にとってこれは苦渋の選択であった(郡司はその著書『千島国占守島探険誌』の中でこの選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している<ref>『極 白瀬中尉南極探検記』、189頁</ref>)が、占守島に渡るめどが立たない状態では次善の策としてこれを取らざるを得なかったのである。

また、泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている最中に郡司は白瀬を連れて島内一周探検を実行しており、かつて[[千島アイヌ]]が建てた家屋や橋梁が残っていることや、飲料水が豊富なことを発見した。このため、郡司は[[脚気]]にさえ気をつければ捨子古丹島での越年は可能だと判断し、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留させることにした。まずは占守島を全力で開拓することを目的にしていた郡司にとってこれは苦渋の選択であった(郡司はその著書『千島国占守島探険誌』の中でこの選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している<ref>『極 白瀬中尉南極探検記』、189頁</ref>)が、占守島に渡るめどが立たない状態では次善の策としてこれを取らざるを得なかったのである。



捨子古丹島残留メンバーと別れた郡司・白瀬・横川ら残りの9人は泰洋丸に乗って新知島へ向かっていたが、その途中に偶然、八戸から函館まで郡司らを運んだ軍艦磐城と再会する。磐城は測量のため占守島へ向かうところであり、郡司は便乗させてもらうことを請願したところ、これを許可された。ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の関係上捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はできないとのことであった。

捨子古丹島残留メンバーと別れた郡司・白瀬・横川ら残りの9人は泰洋丸に乗って新知島へ向かっていたが、その途中に偶然、八戸から函館まで郡司らを運んだ軍艦磐城と再会する。磐城は測量のため占守島へ向かうところであり、郡司は便乗させてもらうことを請願したところ、これを許可された。ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の関係上捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はできないとのことであった。

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また、この時磐城には[[正教会]]の[[ニコライ・カサートキン]]の弟子である和田平八という男が乗っていた。和田は、かつて占守島などに住んでいたが[[色丹島]]に強制移住させられたアイヌを再び北千島に帰還させるという運動を志しており(千島アイヌはロシア人宣教師の影響で正教会の信者が多かった)、そのために単身[[幌筵島]]での越冬生活を行なおうとしていたのである。この話を聞いた郡司らは、単身での越冬は危険だとして占守島での共同越冬を薦めたが、和田は決意固く、幌筵島で一人下船した。

また、この時磐城には[[正教会]]の[[ニコライ・カサートキン]]の弟子である和田平八という男が乗っていた。和田は、かつて占守島などに住んでいたが[[色丹島]]に強制移住させられたアイヌを再び北千島に帰還させるという運動を志しており(千島アイヌはロシア人宣教師の影響で正教会の信者が多かった)、そのために単身[[幌筵島]]での越冬生活を行なおうとしていたのである。この話を聞いた郡司らは、単身での越冬は危険だとして占守島での共同越冬を薦めたが、和田は決意固く、幌筵島で一人下船した。




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====第一次拓殖の終焉====

====第一次拓殖の終焉====


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そして6月28日、再び磐城が占守島に現れた。ここで郡司は、衝撃的な事実を知らされる。捨子古丹島で越冬していた9人が、全員死亡・行方不明となっていたというのであった。まず、9人のうち高橋ら4人は、小屋の中で全員死体になっていたという。磐城の軍医によれば、死因は明らかに窒息死であり、寒気を防ごうと密閉した小屋の中で焚火をしたための一酸化炭素中毒であろうとのことであった。小屋に残されていた日記には、彼らが脚気に罹って衰弱していたことが記されており、また高橋の死体には戸口の方に這っていった痕跡があったことから、体の自由がきかず逃げ出すことができなかったと推測されている。そしてこの日記からは、残る5人は10月に食料補充のため[[越渇磨島]]に出漁し、そのまま帰還しなかったということも判明した。白瀬は後に、艀が流されて越渇磨島から帰還できなくなり餓死したか、帰航の途中で船が沈んだのだろうと推測している<ref>『極 白瀬中尉南極探検記』、221頁</ref>。


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[[]]7使[[]]

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===第二次千島拓殖===

===第二次千島拓殖===

[[File:Lieutenant Gunji Shigetada.jpg|thumb|郡司成忠]]

千島から帰還した郡司は召集され、[[水雷]]敷設隊の分隊長などとして[[日清戦争]]に参加しいたが、戦争終結後、報效義会の再生を図って来た千島の重要性を説く演説などを続けた。こうして、[[1896年]](明治29年)の初夏ごろには、会員数57人の第二次報效義会を結成する。この第二次報效義会は、参加者の中に郡司の妻など女性も14人含まれており、探険的要素も強かった前回とは違って拓殖のみがその目的であった。また、谷干城らの尽力によって「報效義会保護案」が議会で成立し、3年間補助金が政府から出ることも決まった。


[[]][[]]使[[]]<ref> ISBN 978-4-8205-4265-058-59</ref>[[1896]]2957143



9[[1903]]3617010070

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====報效義会への批判====

====報效義会への批判====

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===第二次拓殖後の郡司===

===第二次拓殖後の郡司===

[[1905年]](明治38年)、[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]で講和会議が開かれていることを知った郡司は、たまたまミルコフに来ていたフランス人の毛皮商に、[[小村寿太郎]]への手紙を託す。この手紙はアメリカ人船長の手を経て小村の元へ渡り、[[ポーツマス条約]]第11条にある漁業権設定に活かされたといわれる<ref>『北の墓標』、332-334頁</ref>。

[[1905年]](明治38年)、[[ポーツマス (ニューハンプシャー州)|ポーツマス]]で講和会議が開かれていることを知った郡司は、たまたまミルコフに来ていたフランス人の毛皮商に、[[小村壽太郎|小村寿太郎]]外相への手紙を託す。この手紙はアメリカ人船長の手を経て小村の元へ渡り、[[ポーツマス条約]]第11条にある漁業権設定に活かされたといわれる<ref>『北の墓標』、332-334頁</ref>。



同年9月5日のポーツマス条約締結に伴い、郡司は解放され日本に帰国した。翌[[1906年]](明治39年)ごろから再び報效義会を率いて活動を始め、1908年(明治41年)には、「露領沿海州水産組合」(3年後に露領水産組合と改称)の組合長にも就任するなどしている。しかし、このころの報效義会はかつてとは異なり、その活動はただの漁業団と変わることはなくなっていた。その上、ラッコ禁漁の決定(ラッコの毛皮は高値で取引されたため、会の重要な資金源となっていた)や、社運を賭けていたサケ缶詰の売り上げ不振など、その事業はけしてうまくいったものではなかった。

同年9月5日のポーツマス条約締結に伴い、郡司は解放され日本に帰国した。翌[[1906年]](明治39年)ごろから再び報效義会を率いて活動を始め、1908年(明治41年)には、「露領沿海州水産組合」(3年後に露領水産組合と改称)の組合長にも就任するなどしている。しかし、このころの報效義会はかつてとは異なり、その活動はただの漁業団と変わることはなくなっていた。その上、ラッコ禁漁の決定(ラッコの毛皮は高値で取引されたため、会の重要な資金源となっていた)や、社運を賭けていたサケ缶詰の売り上げ不振など、その事業はけしてうまくいったものではなかった。

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[[1910年]](明治43年)には、郡司と袂を分かった後に[[南極]]探検を志していた白瀬矗が、かつての郡司同様に用船問題が難航したため、報效義会の漁船「第二報效丸」を譲ってほしいと頼んできた。郡司は一度はこれを断ったが、最終的に[[大隈重信]]の説得などもあって承諾している。

[[1910年]](明治43年)には、郡司と袂を分かった後に[[南極]]探検を志していた白瀬矗が、かつての郡司同様に用船問題が難航したため、報效義会の漁船「第二報效丸」を譲ってほしいと頼んできた。郡司は一度はこれを断ったが、最終的に[[大隈重信]]の説得などもあって承諾している。




[[1915]]4[[]][[]]<ref>385-389</ref>

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19241381563[[]]

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なお、別所一家は郡司の死後も占守島に残りつづけたが、[[第二次世界大戦]]後のソ連進駐に伴って島を離れ、報效義会はここに完全消滅した。

なお、別所一家は郡司の死後も占守島に残りつづけたが、[[第二次世界大戦]]後のソ連進駐に伴って島を離れ、報效義会はここに完全消滅した。



報效義会の関係者が[[1919年]]建立した[[石碑]]「志士之碑」([[幸田露伴]]揮毫)が、弾痕だらけといえども現存していることが確認されている<ref>寺沢毅 『北千島の自然誌』 丸善〈丸善ブックス〉、1995年 76 頁</ref>。

報效義会の関係者が[[1919年]]建立した[[石碑]]「志士之碑」([[幸田露伴]]揮毫)が、弾痕だらけといえども現存していることが確認されている<ref>寺沢毅 『北千島の自然誌』 丸善〈丸善ブックス〉、1995年 76 頁</ref>。


== 栄典・授章・授賞 ==

;位階

* [[1885年]](明治18年)[[9月16日]] - [[従七位]]<ref>『官報』第705号「叙任」1885年11月5日。</ref>

* [[1890年]](明治23年)[[11月1日]] - [[正七位]]<ref>『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。</ref>



==脚注==

==脚注==

===注釈===

<div class="references-small"><references/></div>

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===出典===

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==関連項目==

==関連項目==

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*[[高倉新一郎]]編『明治の群像8 開拓と探検』、三一書房、1971年、178-196頁

*[[高倉新一郎]]編『明治の群像8 開拓と探検』、三一書房、1971年、178-196頁

*長沢和俊『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、213-239頁

*長沢和俊『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、213-239頁

*{{Citation|和書|ref=harv|title=日本陸海軍総合事典|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|year=2005|edition=第2版|publisher=[[東京大学出版会]]|series=|isbn=4-13-030135-7}}



==外部リンク==

==外部リンク==

*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/266.html 郡司成忠] 国立国会図書館「近代日本人の肖像」内。

*[https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/266/ 郡司成忠] 国立国会図書館「近代日本人の肖像」内。

*[http://www.geocities.jp/gunjishigetada/ 明治の探検家 郡司成忠] 成忠の曾孫による成忠の解説サイト。肖像画など。

*[http://gunjishigetada.jpvlad.com/ 明治の探検家 郡司成忠] 成忠の曾孫による成忠の解説サイト。肖像画など。

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{{DEFAULTSORT:くんし しけたた}}

{{DEFAULTSORT:くんし しけたた}}

[[Category:日本帝国海軍軍人]]

[[Category:19世紀日本の探検家]]

[[Category:日本の探検家]]

[[Category:20世紀日本の探検家]]

[[Category:大日本帝国海軍大尉]]

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[[Category:千島列島の歴史]]

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[[Category:東京地学協会の人物|海軍くんししけたた]]

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[[Category:1860年生]]

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[[Category:1924年没]]

[[Category:1924年没]]


2023年11月19日 (日) 00:05時点における最新版

郡司 成忠
郡司成忠の肖像写真
生誕 1860年12月28日
死没 (1924-08-15) 1924年8月15日(63歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1882年9月 - 1893年1月
1894年11月 - 1895年3月
最終階級 海軍大尉
除隊後 探検家
テンプレートを表示
郡司成忠
郡司成忠

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栄典・授章・授賞[編集]

位階

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『日本陸海軍総合事典』(第2版)には、郡司が海軍大尉にいつ進級したのか記載されていない。明治25年12月1日付の海軍公文書には「海軍大尉郡司成忠」とある[3]

出典[編集]



(一)^ abc 2005, p. 205, 1 

(二)^ 198654-55

(三)^ 25121   Ref.C10125146500 

(四)^ 198250-58

(五)^ 1973186

(六)^ . 1936-1940

(七)^ 317-338

(八)^  1990188

(九)^  189

(十)^  221

(11)^  226-227

(12)^  ISBN 978-4-8205-4265-058-59

(13)^  282

(14)^ 1995300-301

(15)^  285-292

(16)^ 319

(17)^ 1994291

(18)^ 332-334

(19)^ 385-389

(20)^   ︿199576

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(22)^ 22071890116

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1986

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1995

1996289-292

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1973213-239

 22005ISBN 4-13-030135-7 

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