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「郡司成忠」の版間の差分

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こうして、窮余の策とはいえ船の算段もついた郡司は、[[1893年]](明治26年)[[2月22日]]、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行ない、その翌々日には[[土方久元]][[宮内大臣]]から拓殖隊に「報效義会」という名が与えられる。これらが新聞などのメディアで報じられるとその反響は大きく、同年[[シベリア]]横断を実行した[[福島安正]]とともに国民の人気を集めるようになった。[[添田唖蝉坊]]は自伝『唖蝉坊流生記』の中でこの二人を歌った[[演歌]]がヒットしたことについて語っている<ref>添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』、刀水書房、1982年、50-58頁</ref>。また、「福島中佐・郡司大尉遠征[[すごろく|双六]]」が売り出された<ref>[[長沢和俊]]『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、186頁</ref>という記録もある。

こうして、窮余の策とはいえ船の算段もついた郡司は、[[1893年]](明治26年)[[2月22日]]、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演を行ない、その翌々日には[[土方久元]][[宮内大臣]]から拓殖隊に「報效義会」という名が与えられる。これらが新聞などのメディアで報じられるとその反響は大きく、同年[[シベリア]]横断を実行した[[福島安正]]とともに国民の人気を集めるようになった。[[添田唖蝉坊]]は自伝『唖蝉坊流生記』の中でこの二人を歌った[[演歌]]がヒットしたことについて語っている<ref>添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』、刀水書房、1982年、50-58頁</ref>。また、「福島中佐・郡司大尉遠征[[すごろく|双六]]」が売り出された<ref>[[長沢和俊]]『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、186頁</ref>という記録もある。




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====千島での報效義会====

====千島での報效義会====


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[[7月31日]]、泰洋丸は捨子古丹島に到着する。しかし、ここで馬場は、占守島への回航を拒否し、帰還途中に[[新知島]]に寄るのはどうかという代案を出してきた。ここで馬場が当初の約束を反故にした理由についてははっきりしていないが、採掘に手一杯で泰洋丸を占守島へ回航させる人員が確保できないことや、千島が荒天気に入る時期であったため、占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きるなどして硫黄を持ち帰れなくなることを恐れたのではないかと推測されている<ref>綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』、新潮社、1990年、188頁</ref>。便乗者である郡司としてはこれに抗議することもできず、また新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破して同湾を天然の良港に改造しようという計画を建てていたこともあり、その提案を呑んだ。

[[7月31日]]、泰洋丸は捨子古丹島に到着する。しかし、ここで馬場は、占守島への回航を拒否し、帰還途中に[[新知島]]に寄るのはどうかという代案を出してきた。ここで馬場が当初の約束を反故にした理由についてははっきりしていないが、採掘に手一杯で泰洋丸を占守島へ回航させる人員が確保できないことや、千島が荒天気に入る時期であったため、占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きるなどして硫黄を持ち帰れなくなることを恐れたのではないかと推測されている<ref>綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』、新潮社、1990年、188頁</ref>。便乗者である郡司としてはこれに抗議することもできず、また新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破して同湾を天然の良港に改造しようという計画を建てていたこともあり、その提案を呑んだ。

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[[Category:19世紀日本の探検家]]

[[Category:19世紀日本の探検家]]

[[Category:20世紀日本の探検家]]

[[Category:20世紀日本の探検家]]

[[Category:大日本帝国海軍軍人]]

[[Category:大日本帝国海軍大尉]]

[[Category:海軍兵学校 (日本)の教員]]

[[Category:海軍兵学校 (日本)の教員]]

[[Category:千島列島の歴史]]

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[[Category:東京地学協会の人物|海軍くんししけたた]]

[[Category:東京地学協会の人物|海軍くんししけたた]]

[[Category:日清戦争の人物]]

[[Category:日清戦争の人物]]

[[Category:日露戦争の人物]]

[[Category:捕虜となった人物]]

[[Category:海軍兵学校 (日本)出身の人物]]

[[Category:海軍兵学校 (日本)出身の人物]]

[[Category:海軍大学校出身の人物]]

[[Category:海軍大学校出身の人物]]


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郡司 成忠
郡司成忠の肖像写真
生誕 1860年12月28日
死没 (1924-08-15) 1924年8月15日(63歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1882年9月 - 1893年1月
1894年11月 - 1895年3月
最終階級 海軍大尉
除隊後 探検家
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郡司成忠
郡司成忠

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栄典・授章・授賞[編集]

位階

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『日本陸海軍総合事典』(第2版)には、郡司が海軍大尉にいつ進級したのか記載されていない。明治25年12月1日付の海軍公文書には「海軍大尉郡司成忠」とある[3]

出典[編集]



(一)^ abc 2005, p. 205, 1 

(二)^ 198654-55

(三)^ 25121   Ref.C10125146500 

(四)^ 198250-58

(五)^ 1973186

(六)^ . 1936-1940

(七)^ 317-338

(八)^  1990188

(九)^  189

(十)^  221

(11)^  226-227

(12)^  ISBN 978-4-8205-4265-058-59

(13)^  282

(14)^ 1995300-301

(15)^  285-292

(16)^ 319

(17)^ 1994291

(18)^ 332-334

(19)^ 385-389

(20)^   ︿199576

(21)^ 7051885115

(22)^ 22071890116

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1986

 1990

1994

1995

1996289-292

81971178-196

1973213-239

 22005ISBN 4-13-030135-7 

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