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[[ファイル:Priest Shunjō.jpg|thumb|200px|俊乗房重源上人坐像︵[[東大寺]]蔵。[[国宝]]。︶]]
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[[ファイル:080330-162412.jpg|thumb|200px|俊乗房重源上人坐像の[[レプリカ]]([[大阪府立狭山池博物館]]所蔵。原品は[[新大仏寺]]所蔵で[[重要文化財]])]] |
[[ファイル:080330-162412.jpg|thumb|200px|俊乗房重源上人坐像の[[レプリカ]]([[大阪府立狭山池博物館]]所蔵。原品は[[新大仏寺]]所蔵で[[重要文化財]])]] |
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'''重源'''(ちょうげん、[[保安 (元号)|保安]]2年([[1121年]]) |
'''重源'''(ちょうげん、[[保安 (元号)|保安]]2年([[1121年]])- [[建永]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1206年]][[7月12日]]))は、[[中世#日本|中世]]初期([[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]])の[[日本]]の[[僧]]。[[房号]]{{efn2|[ぼう-ごう] [[得度]]名。[[諱]](本名)とは別に付けた仮名(けみょう)であり、通名として用いる。}}は'''俊乗房'''(しゅんじょうぼう、'''俊乗坊'''とも記す)。 |
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[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺大勧進職]]として、[[治承・寿永の乱|源平の争乱]]で焼失した[[東大寺]]の復興を果たした。 |
[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺大勧進職]]として、[[治承・寿永の乱|源平の争乱]]で焼失した[[東大寺]]の復興を果たした。 |
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== 出自と経歴 == |
== 出自と経歴 == |
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[[長承]]2年([[1133年]])、[[真言宗]]の[[醍醐寺]]に入り、[[出家]]する{{refnest|name="nipponica_chougen"|納冨常天 [https://kotobank.jp/word/%E9%87%8D%E6%BA%90-97775#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「重源」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館}}。のち、[[浄土宗]]の開祖・[[法然]]に浄土教を学ぶ{{refnest|name="nipponica_chougen"}}。大峯、[[熊野]]、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き[[修行]]をする{{refnest|name="nipponica_chougen"}}。 |
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重源は自ら﹁入唐三度聖人﹂と称したように中国︵[[南宋]]︶を3度訪れた{{efn2|異論もある。}}入宋僧だった<ref name="Itou"> 伊藤幸司、山口県立大学国際文化学部︵編︶﹁徳地からひろがる﹁材木の道﹂﹂﹃大学的 やまぐちガイド‥﹁歴史と文化﹂の新視点﹄ 昭和堂 2011 ISBN 9784812210697 pp.19-25.</ref>。重源の入宋は[[日宋貿易]]とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、[[仁安 (日本)|仁安]]3年︵[[1168年]]︶に[[明菴栄西|栄西]]とともに帰国した記録がある<ref name="Itou"/>。宋での重源の目的地は華北の[[五台山 (中国)|五台山]]だったが、当地は[[金 (王朝)|金]]の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って[[天台山国清寺]]と |
重源は自ら﹁入唐三度聖人﹂と称したように中国︵[[南宋]]︶を3度訪れた{{efn2|異論もある。}}入宋僧だった<ref name="Itou"> 伊藤幸司、山口県立大学国際文化学部︵編︶﹁徳地からひろがる﹁材木の道﹂﹂﹃大学的 やまぐちガイド‥﹁歴史と文化﹂の新視点﹄ 昭和堂 2011 ISBN 9784812210697 pp.19-25.</ref>。重源の入宋は[[日宋貿易]]とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、[[仁安 (日本)|仁安]]3年︵[[1168年]]︶に[[明菴栄西|栄西]]とともに帰国した記録がある<ref name="Itou" />。宋での重源の目的地は華北の[[五台山 (中国)|五台山]]だったが、当地は[[金 (王朝)|金]]の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って[[天台山国清寺]]と[[阿育王寺]]に参詣した。[[仏舎利|舎利]]信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、[[平氏]]や[[後白河天皇|後白河法皇]]と提携関係を持つようになる<ref name="Itou" />。
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重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった<ref name="Itou"/>。[[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]]) |
重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった<ref name="Itou"/>。[[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])ごろに建立が始まった博多の[[誓願寺 (福岡市)|誓願寺]]の本尊を制作する際に、重源は[[周防国]]徳地から用材を調達している。 |
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東大寺は[[治承]]4年([[1180年]])、[[平重衡]]の[[南都焼討]]によって[[伽藍]]の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏([[東大寺盧舎那仏像|盧舎那仏像]])もほとんどが |
東大寺は[[治承]]4年([[1180年]])、[[平重衡]]の[[南都焼討]]によって[[伽藍]]の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏([[東大寺盧舎那仏像|盧舎那仏像]])もほとんどが熔け落ちた。 |
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[[養和]]元年([[1181年]])、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である[[藤原行隆]]に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺勧進職]]に就いた。当時、重源は[[年齢|齢]]61であった。 |
[[養和]]元年([[1181年]])、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である[[藤原行隆]]に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて[[勧進#東大寺大勧進職|東大寺勧進職]]に就いた。当時、重源は[[年齢|齢]]61であった。 |
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東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、[[勧進]]活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も[[京都|京]]の後白河法皇や[[九条兼実]]{{efn2|兼実の日記﹃[[玉葉]]﹄によれば[[寿永]]2年︵[[1183年]]︶に重源と会った際に中国が[[金 (王朝)|金]]と[[宋 (王朝)|宋]]に分断されている事実を初めて知り、﹁希異﹂の感を抱いたという。兼実は当時屈指の知識人の一人であり、当時の日本人の対外認識の低さを伝える故事として知られている。<ref>北爪真佐夫﹃中世初期政治史研究﹄︵吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9︶34頁。</ref>}}、[[鎌倉]]の[[源頼朝]]などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。
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東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、[[勧進]]活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も[[京都|京]]の後白河法皇や[[九条兼実]]{{efn2|兼実の日記﹃[[玉葉]]﹄によれば[[寿永]]2年︵[[1183年]]︶に重源と会った際に中国が[[金 (王朝)|金]]と[[宋 (王朝)|宋]]に分断されている事実を初めて知り、﹁希異﹂の感を抱いたという。兼実は当時屈指の知識人の一人であり、当時の日本人の対外認識の低さを伝える故事として知られている。<ref>北爪真佐夫﹃中世初期政治史研究﹄︵吉川弘文館、1998年、ISBN 978-4-642-02764-9︶34頁。</ref>}}、[[鎌倉]]の[[源頼朝]]などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。
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重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・[[陳和卿]]の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国{{efn2|重源は材木を探して[[伊賀]]・[[吉野]]・[[伊勢]]などに赴いたが良材 |
重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・[[陳和卿]]の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国{{efn2|重源は材木を探して[[伊賀]]・[[吉野]]・[[伊勢]]などに赴いたが、長年の都の造営や寺社の建立で畿内近郊の山林は良材が枯渇しており、まだ森林資源が豊富な周防国が朝廷から充てられた。また、当時の周防国が後白河法皇の[[院宮分国制|院分国]]だったことも当地が選ばれた理由としてあげられる<ref name="Itou"/>。}}の[[杣]]︵材木を切り出す山︶に入り、[[佐波川]]上流の山奥︵現在の滑山国有林<ref>[http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/policy/business/sitasimou/mori_zukuri/recreation/yamaguchi/namerayama.html 滑山風景林︵山口市徳地︶] - [[近畿中国森林管理局]]</ref>付近︶から道を切開き、川に堰を設ける{{efn2|当時は、佐波川には118ヶ所の堰︵関水︶を設けたと言われる︵山口市徳地の佐波川関水跡の説明板より︶。}}などして長さ13[[丈]]︵39m︶・直径5尺3[[寸]]︵1.6m︶{{efn2|山口市徳地の重源上人像説明板より}}もの巨大な木材を[[奈良]]まで運び出したという。また、前述の阿育王寺の舎利殿の再建の為に周防の木材の一部を中国にも送っている︵当時の中国︵宋︶の山林は荒廃し、木材は貴重品であった︶<ref>岡元司﹁周防から明州へ﹂﹃宋代沿海地域社会史研究﹄汲古書院、2012年︵原論文:2006年︶</ref>。更に[[伊賀国|伊賀]]・[[紀伊国|紀伊]]・周防・[[備中国|備中]]・[[播磨国|播磨]]・[[摂津国|摂津]]に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。
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途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた[[大衆 (仏教)|大衆]]たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、[[西行]]に[[奥羽]]への[[砂金]]勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国[[大部荘]]にて荘園経営の拠点となる別所︵[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]︶を造営した時及び周防国[[阿弥陀寺 (防府市)|阿弥陀寺]]にて[[湯施行]]の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば[[現世]]では﹁白癩黒癩︵重度の皮膚病︶﹂の身を受け、来世では﹁[[無間地獄]]﹂に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している{{efn2|前者は﹁僧重源下文﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-621︶、後者は﹁周防国司庁宣案﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-1161︶}}。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある<ref>[[小原仁]]﹁重源の勧進活動とその論理﹂︵﹃中世貴族社会と仏教﹄︵吉川弘文館、2007年︶ ISBN 978-4-642-02460-0 ︵原論文発表は1995年︶</ref>。
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途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた[[大衆 (仏教)|大衆]]たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、[[西行]]に[[奥羽]]への[[砂金]]勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国[[大部荘]]にて荘園経営の拠点となる別所︵[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]︶を造営した時及び周防国[[阿弥陀寺 (防府市)|阿弥陀寺]]にて[[湯施行]]の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば[[現世]]では﹁白癩黒癩︵重度の皮膚病︶﹂の身を受け、来世では﹁[[無間地獄]]﹂に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している{{efn2|前者は﹁僧重源下文﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-621︶、後者は﹁周防国司庁宣案﹂︵﹃浄土寺文書﹄、﹃鎌倉遺文﹄2-1161︶}}。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある<ref>[[小原仁]]﹁重源の勧進活動とその論理﹂︵﹃中世貴族社会と仏教﹄︵吉川弘文館、2007年︶ ISBN 978-4-642-02460-0 ︵原論文発表は1995年︶</ref>。
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こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。[[文治]]元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1185年]][[9月23日]])には大仏の[[開眼法要|開眼供養]]が行われ、[[建久]]6年([[1195年]])には大仏殿を再建し、[[建仁]]3年([[1203年]])に総供養を行っている{{efn2|ただし、再建事業の全作業が完成したことの宣言は焼失から100年以上経た[[正応]]2年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1289年]][[2月9日]])のことであった。}}。 |
こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。[[文治]]元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1185年]][[9月23日]])には大仏の[[開眼法要|開眼供養]]が行われ、[[建久]]6年([[1195年]])には大仏殿を再建し、[[建仁]]3年([[1203年]])に総供養を行っている{{efn2|ただし、再建事業の全作業が完成したことの宣言は焼失から100年以上経た[[正応]]2年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1289年]][[2月9日]])のことであった。}}。 |
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以上の功績から重源は[[大和尚]]の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の[[修二会]](お水取り)の際、[[過去帳]]読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった |
以上の功績から重源は[[大和尚]]の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の[[修二会]](お水取り)の際、[[過去帳]]読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかったことが示されている。 |
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重源の死後は、[[臨済宗]]の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。 |
重源の死後は、[[臨済宗]]の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。 |
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== 著作 == |
== 著作 == |
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[[File:南無阿弥陀仏作善集 (Namu-Amidabutsu Sazenshū).jpg|thumb|300px|right|南無阿弥陀仏作善集(部分)]] |
[[File:南無阿弥陀仏作善集 (Namu-Amidabutsu Sazenshū).jpg|thumb|300px|right|南無阿弥陀仏作善集(部分)]] |
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重源は自らの異名を「南無阿弥陀仏」と号した{{refnest|name="nipponica_chougen"}}。建仁3年(1203年) |
重源は自らの異名を「南無阿弥陀仏」と号した{{refnest|name="nipponica_chougen"}}。建仁3年(1203年)ごろに自らの作善をまとめた『[[南無阿弥陀仏作善集]]』([[東京大学史料編纂所]]蔵)を記している。内容は、東大寺や各地の別所における伽藍・仏像造営の記録に始まり、阿育王寺への材木輸送や、若き日の山林修行、人々に「安阿弥陀仏」のような阿弥陀仏号を授けたことなどが記されている。今日、一部で[[戒名]]に阿弥陀仏をつけるようになったのは重源の普及によるともいわれる。なお、この[[紙背文書|紙背]]には、重源が東大寺復興の財源として、朝廷から[[知行国]]として賜った[[備前国]]の麦収納について記されており、重源の国務掌握をよく物語っている。 |
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== 大仏殿のその後 == |
== 大仏殿のその後 == |
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[[ファイル:Jōdo-ji, Jōdo Hall 002.jpg|thumb|250px|浄土寺浄土堂(阿弥陀堂、国宝)]] |
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重源が再建した大仏殿は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[永禄]]10年([[1567年]])、[[三好三人衆]]との戦闘で[[松永久秀]]によって再び焼き払われてしまった。 |
重源が再建した[[東大寺]]2代目大仏殿は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[永禄]]10年︵[[1567年]]︶、[[三好三人衆]]との戦闘で[[松永久秀]]によって再び焼き払われてしまった。[[豊臣秀吉]]は焼損した東大寺に代わる新たな大仏を発願し、[[方広寺]]大仏︵[[京の大仏]]︶及び大仏殿が造立されたが、大仏殿の建築様式については、かつての[[東大寺]]2代目大仏殿を参考にしたと文献記録に残る︵すなわち[[大仏様]]建築であった︶<ref>大林組﹃秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元﹄ 2016年</ref>。
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現在の大仏殿は[[江戸時代]]の[[宝永]]年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて平面規模が縮小されている。 |
現在の[[東大寺]]大仏殿は[[江戸時代]]の[[宝永]]年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて平面規模が縮小されている。 |
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=== 遺構 === |
=== 遺構 === |
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* 建久8年([[1197年]])、播磨の別所に建造られた[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]浄土堂([[兵庫県]][[小野市]])は現存しており[[国宝]]に指定されている。 |
* 建久8年([[1197年]])、播磨の別所に建造られた[[浄土寺 (小野市)|浄土寺]]浄土堂([[兵庫県]][[小野市]])は現存しており[[国宝]]に指定されている。 |
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* [[京都市]]の[[醍醐寺]]経蔵は建久6年([[1195年]])に重源が建立したものであったが、[[昭和]]14年([[1939年]])に周囲の山火事が類焼し焼失した。 |
* [[京都市]]の[[醍醐寺]]経蔵は建久6年([[1195年]])に重源が建立したものであったが、[[昭和]]14年([[1939年]])に周囲の山火事が類焼し焼失した。 |
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== 大仏様 == |
== 大仏様 == |
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当時の中国(南宋)の[[福建省]]あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では[[飛鳥時代|飛鳥]]、[[天平]]の時代に中国の影響が強く、その後、[[平安時代]]に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には[[貫 (建築)|貫(ぬき)]]といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。 |
当時の中国(南宋)の[[福建省]]あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では[[飛鳥時代|飛鳥]]、[[天平]]の時代に中国の影響が強く、その後、[[平安時代]]に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には[[貫 (建築)|貫(ぬき)]]といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。 |
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== 関連作品 == |
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;小説 |
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* [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]『悪党重源 <small>中世を創った男</small>』(文藝春秋、2010年) |
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;マンガ・アニメ |
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* 『[[ねこねこ日本史]]』([[Eテレ]]、声:[[島﨑信長]]) |
* 『[[ねこねこ日本史]]』([[Eテレ]]、声:[[島﨑信長]]) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[東大寺]] - [[東大寺大仏殿]] - [[東大寺盧舎那仏像]] |
* [[東大寺]] - [[東大寺大仏殿]] - [[東大寺盧舎那仏像]] |
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* [[勧進]] |
* [[勧進]]:重源による勧進帳の記載あり。 |
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* [[明菴栄西]] |
* [[明菴栄西]] |
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* [[高野聖]] |
* [[高野聖]] |
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* [[武蔵円明流]] |
* [[武蔵円明流]]:武蔵円明流の始祖。 |
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* [[雷]] |
* [[雷]]:[[大阪府]][[和泉市]]の西福寺に伝わる伝説に登場。 |
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* [[重源の郷]] |
* [[重源の郷]]:重源の名を冠した[[山口市]][[徳地町|徳地]]にある公園。 |
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* [[三笠靈苑]]:[[奈良県]][[奈良市]]の墓地。重源の墓所が所在する。 |
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== 伝記研究 == |
== 伝記研究 == |
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* 小林剛 『俊乗房重源の研究』 [[有隣堂]]、1971年、改装版1980年 |
* 小林剛 『俊乗房重源の研究』 [[有隣堂]]、1971年、改装版1980年 |
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*: 著者 |
*: 著者(1903-69年)は、日本彫刻史研究の大家 |
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*『俊乗房重源史料集成』 [[奈良文化財研究所]]編、吉川弘文館、2015年。半世紀振りに新装復刊 |
*『俊乗房重源史料集成』 [[奈良文化財研究所]]編、吉川弘文館、2015年。半世紀振りに新装復刊 |
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* 『重源・[[叡尊]]・[[忍性]] 日本名僧論集 第5巻』 吉川弘文館、1983年 |
* 『重源・[[叡尊]]・[[忍性]] 日本名僧論集 第5巻』 吉川弘文館、1983年 |
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89行目: | 94行目: | ||
|isbn= 978-4-062-58056-4 |
|isbn= 978-4-062-58056-4 |
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}} |
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* 図録 |
* 図録『<small>特別展</small> 重源上人─東大寺復興に捧げた情熱と美』、[[四日市市立博物館]]、1997年 |
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*[[杉山二郎]]『大仏再興』[[学生社]]、1999年。後半部が伝記研究 |
*[[杉山二郎]]『大仏再興』[[学生社]]、1999年。後半部が伝記研究 |
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*[[広瀬鎌二]]『大厦成る―重源 東大寺再建物語』彰国社、1999年 |
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*{{Cite book|和書 |
*{{Cite book|和書 |
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|others= 中尾堯編 |
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|title= 重源 旅の勧進聖 日本の名僧6 |
|title= 重源 旅の勧進聖 日本の名僧6 |
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|year= 2004 |
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|year= 2007 |
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|publisher= [[法蔵館]](発売) |
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}}<br>東大寺 |
}}<br>東大寺「[[ザ・グレイトブッダ・シンポジウム]]論集 第5号」、GBS実行委員会編 |
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*久野修義『重源と[[明菴栄西|栄西]] 優れた実践的社会事業家・宗教者』 [[山川出版社]]「日本史リブレット人」、2011年。小冊子 |
*久野修義『重源と[[明菴栄西|栄西]] 優れた実践的社会事業家・宗教者』 [[山川出版社]]「日本史リブレット人」、2011年。小冊子 |
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2024年5月25日 (土) 12:50時点における最新版
出自と経歴[編集]
長承2年︵1133年︶、真言宗の醍醐寺に入り、出家する[1]。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ[1]。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする[1]。 重源は自ら﹁入唐三度聖人﹂と称したように中国︵南宋︶を3度訪れた[注 2]入宋僧だった[2]。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年︵1168年︶に栄西とともに帰国した記録がある[2]。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺と阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる[2]。 重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった[2]。承安元年︵1171年︶ごろに建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。 東大寺は治承4年︵1180年︶、平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏︵盧舎那仏像︶もほとんどが熔け落ちた。 養和元年︵1181年︶、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。東大寺大勧進職[編集]
大原問答[編集]
文治2年︵1186年︶、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを﹁大原問答﹂と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを﹁南無阿弥陀仏﹂と号し、法然に師事した。著作[編集]
大仏殿のその後[編集]
遺構[編集]
●現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂︵法華堂の前面部分︶が残っている。 ●建久8年︵1197年︶、播磨の別所に建造られた浄土寺浄土堂︵兵庫県小野市︶は現存しており国宝に指定されている。 ●京都市の醍醐寺経蔵は建久6年︵1195年︶に重源が建立したものであったが、昭和14年︵1939年︶に周囲の山火事が類焼し焼失した。大仏様[編集]
関連作品[編集]
- 小説
- 高橋直樹『悪党重源 中世を創った男』(文藝春秋、2010年)
- マンガ・アニメ