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[[薩摩藩]]郷士・高木喜助兼次の長男<ref>秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年、224頁。 |
[[薩摩藩]]郷士・高木喜助兼次の長男<ref>秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年、224頁。</ref><ref>[http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/index.html 高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者]</ref>として[[日向国]][[諸県郡]]穆佐郷(現:[[宮崎県]][[宮崎市]][[高岡町 (宮崎県)|高岡町]]<ref group="注">昭和の大合併前の[[東諸県郡]]穆佐村、[[昭和の大合併]]後から[[平成の大合併]]前までは東諸県郡[[高岡町 (宮崎県)|高岡町]]。</ref>)に生まれた。通称は藤四郎。穆園と号した。 |
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18歳のときから薩摩藩[[蘭方医]]の[[石神良策]]に師事し、[[戊辰戦争]]の際には薩摩藩兵の[[軍医 (日本)|軍医]]として従軍した。[[明治2年]]︵[[1869年]]︶、[[開成所]]洋学局に入学し[[英語]]と[[西洋医学]]を学んだ。[[明治3年]]︵[[1870年]]︶、薩摩藩によって創設された[[鹿児島医学校]]に入学すると、校長のイギリス人[[ウィリアム・ウィリス]]に認められて教授に抜擢された<ref name="terebimiyazaki">みやざき偉人伝ひむかの群像﹁脚気を撲滅したビタミンの父 高木兼寛﹂[[テレビ宮崎]] 2013年1月2日放送{{信頼性要検証|date=2019年5月}}, {{small|[[WP:TVWATCH]]}}</ref>。
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2022年12月11日 (日) 23:23時点における版
高木兼寛 | |
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軍医姿の高木兼寛 出生地に近い「穆園(ぼくえん)広場」の案内板より(所在地:宮崎市高岡町小山田)[1] | |
生誕 | 1849年10月30日 |
死没 | 1920年4月13日 (70歳没) |
略歴
薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男[5][6]として日向国諸県郡穆佐郷︵現‥宮崎県宮崎市高岡町[注 3]︶に生まれた。通称は藤四郎。穆園と号した。 18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年︵1869年︶、開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学んだ。明治3年︵1870年︶、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学すると、校長のイギリス人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された[7]。 明治5年︵1872年︶、海軍医務行政の中央機関・海軍軍医寮︵後の海軍省医務局︶の幹部になった石神の推挙により一等軍医副︵中尉相当官︶として海軍入りした。海軍病院勤務のかたわら病院や軍医制度に関する建議を多数行い、この年に大軍医︵大尉相当官︶に昇進。 軍医少監︵少佐相当官︶であった明治8年︵1875年︶、当時の海軍病院学舎︵後の海軍軍医学校︶教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校聖トーマス病院医学校︵現キングス・カレッジ・ロンドン︶に留学。在学中に最優秀学生の表彰を受けるとともに、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13年︵1880年︶帰国。 帰国後は東京海軍病院長、明治15年︵1882年︶には海軍医務局副長兼学舎長︵軍医学校校長︶と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年︵1883年︶海軍医務局長、明治18年︵1885年︶には海軍軍医総監︵少将相当官。海軍軍医の最高階級︶の役職を歴任した。 明治21年︵1888年︶日本最初の博士号授与者︵文学・法学・工学・医学各4名︶の列に加えられ、医学博士号を授与された。 明治25年︵1892年︶予備役となり医務局長を退いた。その後も﹁東京慈恵医院﹂﹁東京病院﹂[注 4]等で臨床に立ちつつ、貴族院勅選議員︵1892年8月2日-1920年4月13日[8]︶、大日本医師会会長︵明治31年︶、東京市教育会会長︵大正6年︶などの要職についた。 明治38年︵1905年︶華族に列せられて男爵位を授けられた。 大正3年︵1914年︶3月1日に海軍を退役[9]。 大正9年︵1920年︶4月13日、自邸内で散歩中に脳溢血を起こして倒れ、死去した[10]。死去の直後に従二位と勲一等旭日大綬章が追贈された。医学・看護教育
高木は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14年︵1881年︶、前年に廃止された慶應義塾医学所初代校長・松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。成医会講習所は明治18年︵1885年︶には第1回の卒業生︵7名︶を送り出し、明治22年︵1889年︶には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した[11]。 さらに明治15年︵1882年︶には芝の天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である海軍医務局長・戸塚文海を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿・勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年︵1884年︶移転、明治20年︵1887年︶には総裁に迎えた昭憲皇太后から﹁慈恵﹂の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した[12]。 一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。陸軍卿・大山巌の夫人・捨松ら﹁婦人慈善会﹂︵鹿鳴館のバザーで知られる︶の後援もあって、明治18年︵1885年︶日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立しアメリカ合衆国長老教会宣教師M.E. リード︵Mary Ella Butler Reade︶らによる看護教育を開始[13]。明治21年︵1888年︶には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。 この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校となり現在に至っている。兵食改革と脚気論争
日本軍で流行していた脚気について、海軍医務局副長就任以来、本格的に解決に取り組んだ。調査の結果、脚気と栄養に関連があることを見つけた高木は、海軍の兵食改革︵洋食+麦飯︶を進めた。その結果、海軍における脚気新患者数、発生率、および死亡数は明治16年︵1883年︶から同18年︵1885年︶にかけて激減した[14]︵詳細は﹁日本の脚気史#海軍の兵食改革﹂を参照のこと︶。 明治17年︵1884年︶に軍艦﹁筑波﹂が遠洋航海の準備をしていたとき、明治15年︵1882年︶に出航した遠洋航海で脚気が多発し問題となった軍艦﹁龍驤﹂と同じ航路に変更させ、食事改善による脚気予防の比較実験とさせた。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる[15]。 明治18年︵1885年︶3月28日、高木は﹃大日本私立衛生会雑誌﹄に自説を発表した。しかし、高木の脚気栄養説︵タンパク質の不足説︶と麦飯優秀説︵麦が含むタンパク質は米より多いため、麦の方がよい︶は、﹁原因不明の死病﹂の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。 このため、東京大学医学部から次々に批判された。特に同年7月の大沢謙二︵東京大学生理学教授︶による反論の一部、消化吸収試験の結果により麦からはタンパク質の吸収が悪いことが示され、食品分析表に依拠した高木の説は、机上の空論であることが実証された。その大沢からの反論に対し、高木は反論できず、大日本帝国海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。 のちに高木は﹁当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があれば、それはことごとく反駁の声であった﹂と述懐している。当時の医学界の常識としては、﹁食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?﹂との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦からはタンパク質の吸収が悪いことも、その疑問を強めさせた。このように高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることがほとんどできなかった。 それでも、海軍の脚気を抑制し続け、明治25年︵1892年︶に海軍医務局長を退き、予備役に入った。 麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上に、ビタミンの発見があった。欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学、コロンビア大学、ダラム大学から名誉学位を授与されており[16]、ビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで、高木の業績が詳しく紹介されている[17]。貧民散布論
高木は都市衛生において﹁貧民散布論﹂を提唱している。﹁下等貧民ノ市内ニ、住居ニ堪ヘサルモノハ、皆去リテ田舎ニ赴クベシナリ﹂[18]という、東京から貧民を追放しようという今日からみれば非人道的なものであった。それに対して人道的立場から反対したのが、海軍の兵食改革を批判する陸軍軍医・森林太郎︵森鴎外︶であった。その他の功績
●宮崎神宮の社殿の大造営を行った中心的な人物でもある[7]。明治31年︵1898年︶に神武天皇御降誕大祭会を設立しその幹事長に就任、神武天皇が祭神である宮崎宮を、豪華な社殿に大改装するために全国から寄付を集めた。これは毎年恒例である宮崎神宮大祭︵神武さま︶をスタートさせるきっかけにもなった。 ●南極大陸の南緯65度33分・西経64度14分に高木岬があるが、これは彼の名に因んで付けられた地名である。 ●海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。﹁独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の﹃食物改良による脚気の撲滅﹄は、発想の独自性と先見性、成果の素晴らしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置づけられている。﹂︵山下 (2008) pp.454-455︶ ●明治22年︵1889年︶に大隈重信が来島恒喜が投じた爆弾により負傷した直後に現場を通りかかり、大隈の最初の処置を行った。その後に駆け付けたエルヴィン・フォン・ベルツ、佐藤進、伊東方成、岩佐純、池田謙斎らとの協議により右足の切断を決定した[19]。栄典
これは、生前授与の栄典のリストである。逝去直後、従二位と勲一等旭日大綬章が追贈された。位階
●1886年︵明治19年︶7月8日 - 正五位[20] ●1886年︵明治19年︶10月28日 - 従四位[21] ●1892年︵明治25年︶2月13日 - 正四位[22] ●1900年︵明治33年︶6月30日 - 従三位[23]勲章等
●1889年︵明治22年︶11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[24] ●1891年︵明治24年︶6月27日 - 勲二等瑞宝章[25] ●1915年︵大正4年︶11月10日 - 大礼記念章[26]・勲一等瑞宝章[27]著作
単著
●﹃精神修養と大和魂﹄軍事教育会、1914年5月。全国書誌番号:43016177 NDLJP:948043。 ●﹃簡易実用 家庭衛生及治病﹄大学館、1915年6月。全国書誌番号:43006276 NDLJP:935534。 ●﹃心身修養﹄広文堂書店、1916年7月。 NCID BA89378129。全国書誌番号:43023230 NDLJP:955090。 ●﹃体育奨励に関する実行条項説明書﹄高木兼寛、1917年6月。 NCID BB24767814。全国書誌番号:43006324 NDLJP:935584。 ●﹃無病長寿実験強健法﹄東盛堂書店、1918年7月。全国書誌番号:43006350 NDLJP:935607。 ●田中久編 編﹃心身強健法﹄東亜堂︿袖珍名家文庫 第9編﹀、1919年11月。 NCID BA87578808。全国書誌番号:43004275 NDLJP:933322。校閲
●三好常三郎﹃傷病応急手当法講義﹄東京府教育会、1903年10月。 NCID BA33188399。全国書誌番号:40056897 NDLJP:834360。親族
●妻の富子は手塚律蔵の長女。高木兼寛・富子夫妻は、1902年に日本人初の民間人による神前式結婚式の媒酌人を務めたとされる[28]。 ●長男は医学者の高木喜寛 ●次男は医学者の高木兼二。妻は神田乃武の娘。長女・直子は小坂善太郎妻[29]。二女・義子は松平忠晃妻。 ●三男・高木舜三は帝国生命保険取締役。妻の多都雄は三井鉱山社長・三井高景の娘。 ●長女寛子の子・樋口一成は東京慈恵会医科大学6代学長[30]。脚注
注釈
出典
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の日付が不正です。 (説明)
(三)^ “高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者”. www.pref.miyazaki.lg.jp. 2022年12月7日閲覧。
(四)^ “よこすか海軍カレーとは”. カレーの街よこすか - カレーの街よこすか公式サイト. 2022年12月7日閲覧。
(五)^ 秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典﹄第2版、東京大学出版会、2005年、224頁。
(六)^ 高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者
(七)^ abみやざき偉人伝ひむかの群像﹁脚気を撲滅したビタミンの父 高木兼寛﹂テレビ宮崎 2013年1月2日放送[信頼性要検証], WP:TVWATCH
(八)^ ﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、5頁、29頁。
(九)^ ﹃官報﹄第476号、大正3年3月3日。
(十)^ 服部敏良﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄︵吉川弘文館、2010年︶164-165頁
(11)^ 学校法人慈恵大学 歴史~建学の精神
(12)^ 東京慈恵会医科大学付属病院 病院沿革
(13)^ 芳賀佐和子、住吉蝶子﹁有志共立東京病院看護婦教育所 最初の看護指導者ミス・リードの生涯﹂﹃東京慈恵医科大学雑誌﹄131(2016):49-58 (II. リードのフルネームについて、VI. リードと高木兼寛との関わりについて)
(14)^ 白崎 昭一郎 (1998) ﹁森 鴎外 もう一つの実像﹂吉川弘文館 ISBN 4-642-05439-1
(15)^ “高木兼寛︵たかき かねひろ/ 脚気対策の功労者 高木兼寛︵たかき かねひろ︶ | 熊本大学大学院 生命科学研究部 環境生命科学分野 公衆衛生学講座”. 熊本大学大学院 生命科学研究部 環境生命科学分野 公衆衛生学講座. 2022年12月7日閲覧。
(16)^ 吉村, 1994, 下巻 pp.229-231
(17)^ 松田、1990、P.79-80
(18)^ ﹁裏屋ノ建設ハ衛生上及経済上ニ害アリ﹂明治17年、﹁東京衛生事務ノ拡張ハ市区ノ改正ヲ要ス﹂明治18年、﹃大日本私立衛生会雑誌﹄。
(19)^ 服部敏良﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄︵吉川弘文館、2010年︶60頁
(20)^ ﹃官報﹄第907号﹁叙任及辞令﹂1886年7月10日。
(21)^ ﹃官報﹄第1003号﹁叙任及辞令﹂1886年11月1日。
(22)^ ﹃官報﹄第2584号﹁叙任及辞令﹂1892年2月15日。
(23)^ ﹃官報﹄第5098号﹁叙任及辞令﹂1900年7月2日。
(24)^ ﹃官報﹄第1929号﹁叙任及辞令﹂1889年12月2日。
(25)^ ﹃官報﹄第2398号﹁叙任及辞令﹂1891年6月29日。
(26)^ ﹃官報﹄第1310号・付録﹁辞令﹂1916年12月13日。
(27)^ ﹃官報﹄号外﹁叙任及辞令﹂1915年11月10日。
(28)^ 挙式・披露宴におけるブライダルビジネスの現状と戦略田澤 昌枝 境 新一 東京家政学院大学紀要 第44号 2004 年
(29)^ 小坂善太郎﹃人事興信録. 第13版(昭和16年) 上﹄
(30)^ 高木兼寛の女子教育論 松田誠、﹃高木兼寛の医学V﹄ 2013-12-20
参考文献
●松田誠﹃高木兼寛伝 脚気をなくした男﹄講談社、1990年。ISBN 4-06-204487-0 ●倉迫一朝﹃病気を診ずして病人を診よ 麦飯男爵 高木兼寛の生涯﹄鉱脈社、1999年。ISBN 978-4906008315 ●板倉聖宣﹃模倣の時代﹄︵上・下︶仮説社、1988年。 ●上 ISBN 4-7735-0074-3、下 ISBN 4-7735-0076-X ●藤田昌雄﹃写真で見る海軍糧食史﹄光人社、2007年。ISBN 978-4-7698-1341-5 ●関亮﹃軍医サンよもやま物語 軍医診療アラカルト﹄光人社NF文庫、1998。ISBN 4-7698-2184-0 ●﹃東京民医連外科医師部会月報﹄︵特集‥日本とイギリス医学の関わり William Willis︶5月号、2005年。 ●﹃東京民医連外科医師部会月報﹄︵特集‥日本の栄養学の祖、ビタミンの父 高木兼寛︶11月号、2005年。 ●山下政三﹃鴎外森林太郎と脚気紛争﹄日本評論社、2008年。 ●吉村昭﹃白い航跡﹄︵上・下︶講談社文庫、改版2009年︵初出は講談社、1991年︶。 ●上 ISBN 4-06-276541-1、下 ISBN 4-06-276542-X関連作品
テレビ番組
●﹃大いなる航海 : 軍医高木兼寛の280日﹄︵2003年・南日本放送開局50周年記念番組 演‥榎木孝明︶関連項目
●ユミ・シャロー ●大山捨松 ●鈴木梅太郎 ●森林太郎︵森鴎外︶ ●東京慈恵会 ●東京慈恵会医科大学 ●東京慈恵会医科大学附属病院 ●慈恵看護専門学校 ●日本の脚気史 ●カレーライス - 海軍カレー ●ビタミン ●高木岬外部リンク
●﹃高木兼寛﹄ - コトバンク ●﹃高木 兼寛﹄ - コトバンク ●高木兼寛|宮崎県郷土先覚者 ●高木兼寛先生年譜 - 宮崎市立穆佐小学校 ●高木兼寛 - みやざきひむか学ネット内コンテンツ ●学校法人慈恵大学日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 高木(兼寛)家初代 1905年 - 1920年 |
次代 高木喜寛 |