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おぼん・こぼんは、トービックおよび漫才協会に所属する日本のお笑いコンビ。1965年コンビ結成。コンビ名の由来は、﹁大きいボンボン﹂と﹁小さいボンボン﹂。当初は﹁月見おぼん・こぼん﹂と名乗っていた[1]。
メンバー[編集]
おぼん︵本名‥井上 博一︿いのうえ ひろかず﹀1949年2月2日 - ︶︵75歳︶
主にボケ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって右。
大阪府大阪市阿倍野区出身。現在は東京都在住。
こぼん︵本名‥馬場添 良一︿ばばぞえ りょういち﹀1948年12月24日 - ︶︵75歳︶
主にツッコミ担当、立ち位置は向かって左。
大阪府東大阪市出身。現在は東京都在住。
大阪福島商業高校︵現・履正社高校︶の同級生。おぼんは高校生時代、硬式野球で活動していた[1]。高校生時代に修学旅行先で急遽一緒に組んでネタを披露したのが結成のきっかけ[1]。それまで二人は友達というわけではなかった[1]。
1965年にコンビを結成し、学生漫才師としてデビュー[2]当時は吉本興業のうめだ花月などに出演。上京後、鈴本演芸場や浅草演芸ホールなどで活躍。1970年から1980年にかけて赤坂コルドンブルー、日劇ミュージックホール公演などへ出演した。当時の若手としては珍しく師匠の下にはつかず、自らの手によって芸を磨いた[1]。
1980年に日本テレビ﹃お笑いスター誕生!!﹄で10週連続勝ち抜きグランプリを受賞[2]、これを機に赤坂コルドンブルーを引退した。自分達の後釜として当時﹃お笑いスター誕生!!﹄に挑戦中だった貴明&憲武︵後のとんねるず︶にコルドンブルーへの出演を勧め、それに従ったものの貴明&憲武は半年足らずでクビになってしまう。﹁漫才ブーム﹂時には﹃花王名人劇場﹄︵関西テレビ︶などに出演、ブーム終焉後は演芸番組などへ長く出演した。
近年はテレビの演芸番組や漫才協会の定席である浅草東洋館を中心とした演芸場などの出演を熟している。なお、落語協会・落語芸術協会には所属していないため、いわゆる東京の寄席︵鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場︶の定席へは基本的に上がることはできない。
﹃笑点﹄の演芸コーナーの常連であるが、こぼんが語るところによればある日に収録された漫才について視聴者からクレームが入り、そのあと約5年もの間は同番組に出演できなくなったという[2]。また、おぼん曰く﹁昔は収録の前に、ディレクターさんにネタ見せをして、アドバイス通りに直さなければいけなかった。そのときは僕らも若くて生意気だったから、ネタ見せと全然違うネタを本番でやっちゃった︵笑︶。当然めちゃくちゃ怒られたけど、いい思い出ですね﹂と語っている[2]。
2000年、それぞれの娘同士でコンビ﹁くれよん﹂が結成された。﹃笑点﹄では親子漫才を披露したが、こぼんの娘であるいづみが女優・タレントを目指すことやケンカによって2002年にコンビ解散。おぼんの娘・ちひろは、2004年に妹・まいが高校を卒業すると同時に姉妹漫才コンビ﹃りぼん﹄を結成、浅草東洋館などで活動していたが結婚のため2008年末に解散した。いづみは2009年現在、歌手として活動︵活動名義・泉水いづみ︶している。また、おぼんの妻と江藤潤の妻とは同級生だった[3]。
正式に漫才協会としての真打ちにはなっていないが主任︵トリ︶を務めることが多く、弟子を取っている。また2人とも漫才協会の理事へ就いたことがあり、事実上真打ちと同格の待遇と見做されている︵本来は真打ちに昇進していなければ弟子を取ることは許されず、同様の例として内海桂子などが挙げられる。漫才協会#真打ち制度も参照︶。
芸歴・スキルとも大御所の域に達した近年は、若手に伍してオーディション・コンクールへ参加している。2010年にはキングオブコントに出場した︵3回戦進出︶。
漫才が中心だが、﹃お笑いスター誕生!!﹄では全てコントで挑戦した。タップダンスや人間楽器などを漫才に取り入れることもある。他にジャズナンバー、ものまねなどを披露した。
ネタはおぼんが作っている。基本的にはこぼんがツッコミでおぼんがボケだが、途中で入れ替わることも多い。
定番のネタとして、お椀と茶碗を持って交互にかざしながら﹃聖者の行進﹄のメロディに乗せて﹁お椀出せ〜、茶碗出せ〜﹂と歌うものがある。